第4話:商人の天秤と沈黙の対価
次に目が覚めたとき、鼻を突いたのは腐敗臭ではなく、鼻腔をくすぐる安らぐ香草の匂いだった。
背中に伝わるのは石畳の硬さではなく、使い込まれた毛布の感触。
(……生きてる、のか?)
重い瞼を押し上げると、そこは簡素ながらも清潔な石造りの部屋だった。
壁際の実用的な棚には、見たこともない形状のガラス瓶や、羊皮紙の束が整然と並んでいる。
「……グッ」
上体を起こそうとした瞬間、全身に走る激痛に呻きが漏れた。
肋骨が軋み、殴られた腹部が熱く疼く。
「あまり動かないことだ。折れてはいないが、酷い打ち身だからな」
入口の扉が開いた。そこに立っていたのは、俺を「回収」したあの銀髪の男だった。
昨夜は月光の下で幽霊のように見えたが、明るい場所で見れば、整った顔立ちに鋭い知性を宿した青年だ。仕立ての良い、だが実用的な服を纏っている。
「……あ……ア、ガッ」
感謝を伝えようとしたが、やはり声にならない。
男は手際よく、薬湯のようなものが入ったカップを差し出し、ベッドの脇の椅子に腰掛けた。
「俺はロイ。この街で商いをしている。運命という商品の目利きには自信があってね」
ロイと名乗った男は、優雅に脚を組み、観察するように俺を見つめた。
「昨夜、お前を襲った連中から、奪われた『灰色の寝間着』と『奇妙な履物』は買い戻しておいたよ。あれほどの質の高い未知の素材……商人の勘が、お前を放っておくなと囁いたんでね」
彼は傍らに置いてあった布包みを解いた。
そこには、血に汚れながらも、俺が元の世界で着ていたあのスウェットとサンダルがあった。
それを見た瞬間、安堵よりも先に、得体の知れない寒気が走った。
(……商人の勘? 昨夜、こいつは俺を『無の迷い人』と呼んだはずだ。それに、路地裏で瀕死の人間を拾って、その足ですぐに盗品を買い戻しに行くだなんて……ただの商人がやることか?)
ロイの目は笑っていない。
琥珀色の瞳の奥に、獲物の価値を見定めるような冷徹な光が見え隠れする。
助けてもらったのは事実だ。だが、この男が向けてくるのは慈悲ではなく、あきらかに「投資家が未開の土地を見るような視線」だった。
「さて。……お前がどこの誰で、なぜ『魔力』という世界の恩恵を一切持たずにここに現れたのか。ゆっくり聞きたいところだが」
ロイは懐から一振りの短刀を取り出し、その刃先でリンゴを器用に剥き始めた。
流れるような刃捌き。あまりに無駄のないその動きに、目が奪われる。
「お前は、この街の言語を理解している。……だろう?」
ロイはリンゴの一片を口に運び、咀嚼しながら言葉を続ける。
「肯定も否定もできないか。だが、お前の中に澱んでいるその『不気味な気配』……。魔力を持たないお前が、どうやってこの厳しい世界を渡ってきたのか、非常に興味がある」
ロイは短刀を卓に置くと、じっと俺を見据えた。
「俺を信じろとは言わない。だが、今の身一つのお前が外に出れば、また同じように路地裏で野垂れ死ぬだけだ。……どうかな、俺の『商品』として、しばらくここで養生しないか?」
(商品……。利用価値がある間は、守ってやるってことか)
ロイが何者かなど、今の俺には知る由もない。
ただ、この男が発する「静かな凄み」に、本能が警鐘を鳴らしていた。
けれど、言葉を奪われ、世界の理からも弾き出された俺に、他に頼れるツテなどあるはずがなかった。
俺はロイの瞳を見返し、震える手で、彼が差し出した薬湯のカップを掴んだ。
ロイの口角が、僅かに吊り上がる。
「いい返事だ。……迷い人。お前が俺にとって『最高級の掘り出し物』であることを期待しているよ」
こうして、俺と「商人ロイ」の、危うい共犯関係が始まった。
彼が時折見せる、異常なほど鋭い視線や、夜更けに音もなく部屋を出入りする姿の理由を、俺が知ることになるのは、もう少し後の話だ。




