第3話:拾い上げられた『無』
路地裏の湿った空気が、肺の奥まで汚染していくような感覚に陥る。
必死に喉を掻き毟るが、出てくるのは「ガフッ、ゴフッ」という、溺死体のような濁った音だけだ。
(落ち着け……落ち着くんだ俺。これは、あれだろ? 『カースドビギニング』
あえて最悪の条件からスタートさせて、後で一気に大逆転するカタルシス重視の構成……!)
震える膝を叩き、無理やり立ち上がる。
足の裏が腐った生ゴミを踏みつけ、「グチャリ」と嫌な音を立てた。
言葉が通じないなら、行動で示すまでだ。ラノベの定番なら、ここで「ならず者に絡まれている美少女」が登場し、俺が現代の格闘術で華麗に救う展開が待っているはず。
ガサリ、と路地の奥で服が擦れる音がした。
(――来た!)
俺は期待に胸を膨ませ、音のした方へ鋭く視線を投げた。
そこには、ボロ布を纏った三人の男たちがいた。下卑た笑みを浮かべ、手には錆びついた短刀や、トゲの付いた棍棒を握っている。
「……おいおい、見ろよ。妙な色の寝間着を着た、見たことねえツラのデカいネズミがいやがるぜ」
「……その履物、見たことねえ素材だな。売れば酒代くらいにはなるか」
(……え、美少女は? 助ける対象は?)
男たちがジリジリと距離を詰めてくる。
本来なら、ここで俺の右手に宿った『封印されし魔力』が暴走し、一撃でこいつらを消し炭にするシーンだ。俺は一か八か、それっぽいポーズを決めて叫んだ。
「アバ、ガバッ!!(くらえ、獄炎の咆哮!)」
渾身の力を込めて指先を突き出す。
だが、放たれたのは魔力の奔流ではなく、口の端から飛び散った情けない唾液だけだった。
「……は?」
ならず者たちが、一瞬だけ動きを止める。
「……今、こいつ、何て言った?」
「さあな。何も感じねえ。ただのデカいだけのゴミだ」
ドッと下品な笑い声が路地に響く。
次の瞬間、俺の腹部に棍棒の衝撃がめり込んだ。
「ガ、ハッ……!?」
激痛。
神経を焼くような熱い痛みが脳を直接殴りつけてくる。俺はカエルのような声を上げ、石畳の上に転がった。
「アブッ、アガッ……(待て、話せばわかる、俺は転生者だぞ……!)」
必死の訴えは、ただの「不気味な呻き声」として消費される。男たちは容赦なく、地面に倒れた俺の背中や脇腹を蹴り上げ始めた。
「ハハッ! この灰色の布、意外と丈夫だな! 剥ぎ取れ、高く売れるぞ!」
痛い。痛い痛い痛い痛い!!
涙と鼻水で顔がぐちゃびちゃになる。
高潔な勇者のプライドなんて、最初の数分でゴミ溜めに捨て去った。
男たちは力ずくで俺の腕を捻り上げ、抵抗する気力も失った俺から、唯一の繋がりであった衣類を剥ぎ取り始めた。
「足のもだ! 両方揃ってりゃ、珍しい細工としていい値がつくぜ!」
深夜の自室、ぬくもり、日常の象徴。
俺を俺たらしめていた「服」と「履物」が、乱暴に引き剥がされていく。
肌に直接触れる路地裏の冷気が、心臓まで凍りつかせようとしていた。
「よし、行こうぜ。……喋れないゴミさん、あばよ」
衣服をすべて奪った男たちは、鼻歌まじりに去っていった。
静まり返った路地裏。
残されたのは、全身アザだらけで、無残に身ぐるみを剥がされた、言葉の通じない男。
絶望、屈辱、そして寒さ。
限界を超えた脳は、強制的にシャットダウンを選択した。
(……ああ、ステータス、オープン……してくれよ……)
最後にもう一度だけ、力なく右手を伸ばしてみるが、視覚は急速に暗転していく。
鉄の味がする血の感触を最後に、俺の意識は深い闇に落ちた。
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「……おい、生きてるか?」
どれほどの時間が経っただろうか。
煤けたレンガの隙間から差し込む月光が、俺の瞼を微かに照らした。
「返事がないな。……死んでるか? いや、まだ僅かに熱がある」
ぼやける視界の先にいたのは、深いフードを被った、銀色の髪を持つ人影。
その人物は、ゴミ溜めに横たわる俺の凄惨な裸体を蔑むこともなく、淡々と観察していた。
冷ややかな指先が、俺の首筋の頸動脈を、次いで胸元へと這う。
「……うっ……」
俺が微かな拒絶の音を漏らすと、その人物の掌が肩に触れた。
驚くほど、温かかった。
「心拍は弱いが、まだ動いている。それにしても……」
人影の声に、僅かな困惑が混じる。
「魔力がまったくない。この世界の理から、完全に外れてやがる。……お前、一体どこから来た?」
返事をする気力も、指一本動かす力もない。
銀髪の人物は、自身の羽織っていた厚手の外套を脱ぐと、それを無造作に俺の体に被せた。
布が肌に触れる摩擦すら今の俺には激痛だったが、直後に伝わってきた体温が、凍てついた意識を辛うじて繋ぎ止める。
「運がいいな。死ぬにはまだ早い……『無』の迷い人さんよ」
人影が俺の脇の下に腕を差し込み、手慣れた動作で上体を引き起こした。
ぐらりと視界が揺れ、俺の頭が相手の肩に預けられる。
「重いな。……だが、放っておけば明日の朝には死体袋行きだ」
その人物は俺の膝裏に手を回すと、無造作に、けれど確実に俺の身体を「荷物」のように抱え上げた。
その白い手が、月夜の闇の中で鈍く光って見えた。
救いの主か、あるいはさらなる奈落への導き手か。
俺は、その問いを脳内で完結させることもできぬまま、揺り籠のような抱擁の中で、再び深い眠りへと誘われた。




