二十二話
夜が明けた。
あれから寝床に戻った小春は、眠れはしたが熟睡はできなかった。重い瞼をこじ開け、居間に顔を出す。
「おはようございます」
二人とも起きていた。内出血を起こしている雅臣の頬は、昨日よりも赤黒くなっている。何とも痛々しく、目をそむけたくなる。
「おはようございます」
「おはよう」
雅臣は喋れるようになったようだ。けれど、口の中に違和感があって喋りづらいのか、ぼそぼそと喋るため少し聞き取りづらい。
座りっぱなしで体が固まってしまったのだろう。智紘は脚をさすりながら立ち上がった。
「俺はおいとまします」
「朝食を食べて帰りませんか?」
「母屋で食べるのでお気持ちだけで充分です」
「智紘さん、ありがとうございました」
小春はつむじが畳を向くくらい深々と頭を下げた。一晩、面倒を見てくれたのだ。感謝してもしきれない。
「礼には及びません」
智紘は会釈をして居間から出て行った。
「智紘は本当に優しいやつだよ」
「そうですね」
雅臣は自分の頬を触り、乱れている前髪をかきあげた。痛手を負ったのは頬だけのようで、額は傷一つなかった。
「風呂に入って、血を洗い流してくるよ」
「それなら、お湯を張らないと」
「自分で張るからいいよ」
と、雅臣は手をひらひらさせながら出て行った。
雅臣が風呂に入っている間、小春は彼のために卵粥を作った。自分は昨晩の残り物の、オムレツライスを食べる。
ちゃぶ台に置いた卵粥の湯気が見えなくなった頃、雅臣が居間に戻ってきた。
「俺の顔、酷いことになってるね……。智紘が、『自分の顔を見るときは覚悟しろ』って言うわけだよ」
鏡で自分の顔を見たようだ。雅臣は卵粥の前に腰を下ろしながら、ため息をこぼした。
「でも父さんに刃向かった代償が、内出血だけでよかったと思えばいいか」
雅臣は言うと卵粥を口に運んだ。
「優しい味が身に染みる。ちょっと血の味が邪魔だけど」
そして破顔した。縛られるものがなくなった雅臣。心の底から笑っているんだろうな、小春は思った。
朝食後、皿洗いを終えて居間に行くと、そこに雅臣の姿がなかった。
もしかして、仕事に行ったのだろうか。
玄関を見ると靴はあった。家の中にいるようだ。小春は雅臣を探さず、脱衣所に洗濯物を取りに行った。
洗濯物の山を抱え、縁側に向かう。庭先で、雅臣が血のついたシャツを洗っていた。
「私が洗いますから、雅臣さんはゆっくりしていてください」
「自分の血は自分で洗うさ」
と、雅臣は手を止める気配がない。
「『あざが消えるまで家にいろ』って智紘から言われてるんだ。家にいる間は、小春と一緒に家事をするよ」
「ありがとうございます。じゃあ、雅臣さんは私が洗ったものを干してください」
「了解」
普段、家事をしないからだろう。洗濯物を干す雅臣は、案外楽しそうだった。
雅臣は進んで小春と一緒に家事をする。今日も一緒に台所に立っていたが、慣れないことをするからか、雅臣は包丁で指先を切ってしまった。
「怪我の手当くらい自分でする」
と、雅臣は言ったが、小春が怪我の手当をしてやっている。
「はい。できましたよ」
「ありがとう」
雅臣は綿紗が巻かれた指を見ながら言った。
「私も雅臣さんに綿紗を巻いてもらいましたから、そのお返しです」
「あのときだよね」
雅臣は渋面を浮べると、深々と頭を下げた。額が畳にくっつきそうだ。
「あのときは本当に悪かったよ。ごめん」
「私はもう気にしていませんから、顔を上げてください」
ゆっくりと雅臣は顔を上げる。
「あれは、俺が紙を取り上げなければしなかった怪我じゃないか。それにちゃんと謝ってないだろう?」
「謝ってくれましたよ」
「いや、謝ってないはずだけど……」
「私に綿紗を巻いてくれて部屋を出るときに、『ごめん』って言いましたよね」
あのときは言ったかもしれない、という疑義の念だった。でも雅臣の素を知ったから断言できる。彼はごめんと言った。
「小春に直接言ったわけじゃないから、謝ってないのと同じさ」
納得していないのだろう。雅臣はすねた子どものように片頬を膨らませた。
「私には聞こえてましたから、しっかり謝ってますよ。あの謝罪で充分です」
小春は雅臣の手に触れた。自分よりも大きく筋がしっかりとしたその手を、慰めるようにそっとさする。
「無理をして、お義父さんの理想を演じていたときの出来事ですから。あの日のことはもう忘れましょう」
雅臣は膨らませていた頬をしぼませた。
「……小春は優しいんだな」
ふふっ、と小春は微笑みを向ける。雅臣も微笑みを返してくれた。
しっとり甘い空気が居間を包む。空気に捕らわれているみたいに二人は動かない。
雅臣が小春の頬に触れようとした瞬間、『早く飯を食わせろ』と言わんばかりに、雅臣の腹の虫が盛大に鳴いた。換気されたように、甘かった空気が入れ替わる。
「ははっ」
雅臣は腹に手を持っていき、照れ笑いを浮べた。
「早く作ってしまいましょうか」
「そうだな」
二人はやっと台所に戻り、調理を再開した。
父子でやり合って、一ヶ月が経った。
雅臣の頬のあざは跡形もなく消え失せた。だから、久しぶりに一緒に出かけようという話になった。
「母に会いに行きたいです」
最近、商店街でふみと同年代の女性を見ると、彼女のことを考えてしまう。戻った実家で元気にやっているだろうか。ご近所から出戻り女と陰口を言われていないだろうか、と。
「それなら明日早速、小春の実家に行こうか」
「母は今、佐野旅館にいないんです」
雅臣は表情を曇らせた。
「……ご病気か何か?」
「病気ではないです。実は……」
ふみが明雄から離縁を言い渡され、祝言が終わった直後、隣町の実家に帰ったことを話す。
「そうか。そんなことが……」
雅臣は、祝言の後の宴会にふみがいないことが気になって、翌日、同席していた祖父に尋ねたらしい。 そうしたら『体調が悪くなったから帰った』と言われたという。
「お義母さんに会いに行こう」
「はい! ありがとうございます!」
小春は早速ふみに手紙を書いた。『再来週辺りに、会いに行きたい』と。
翌週、返信が来た。『嬉しい。会いに来て』と。




