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二十一話

  *


 小春は落ち着きなく、居間の中をうろうろしていた。

 昼間、雅臣が「父さんと話をするから遅くなる」と言いに来た。きっと素で商店街にいたことが、雅康の耳に入ったのだと思う。

 大丈夫かな。雅臣のことを考えると、じっとしていられない。

 ちょうど出入り口の襖に背を向けていると、襖がガタッと鳴った。小春は振り返る。

「雅臣さん!」

 智紘に支えられ帰宅した雅臣に仰天した。雅臣の端正な顔は赤く腫れ上がっている。シャツの襟には血がついている。雅康と激しくやり合ったようだ。

「……ただいま」

 口の中から出血しているようだ。雅臣の歯は血で真っ赤に染まっている。

「早く手当をしないと!」

 小春は言ったものの、気が動転していて頭が働かない。その場で慌てふためくだけだった。

「小春殿、何か冷すものをお願いします」

 見かねたのか、智紘が言った。

「は、はいっ!」

 家中の清潔な布巾をかき集めて冷水に浸す。氷のうも作って、急いで居間に戻った。

「持ってきました!」

「ありがとうございます」

 智紘は、切れている雅臣の口元に綿紗を貼っていた。畳に寝せられた雅臣は、目を閉じてぐったりしている。

 智紘は布巾を手に取ると、

「ほら、噛め」

 と、雅臣の口に突っ込んで噛ませた。

 小春は氷のうで頬を冷してやる。冷す手を雅臣から触られた。熱を持っているようで、彼の掌は熱い。 小春は氷のうを雅臣に握らせた。そしてもう片方の頬を濡れ布巾で冷す。

「いったい何があったんですか?」

「叔父さんとやり合ったんです」

「素で商店街を歩いたことについてですか?」

「ええ」

 智紘は頷くと、隣の部屋で聞いていたという雅臣と雅康のやり合いを話してくれた。

 怒鳴り、わめき散らす雅康に、雅臣はひるまずに意見を述べていた。雅康が『期待外れの馬鹿息子が』と、吐き捨てる直前に聞こえてきた雷轟のような音。恐らく、平手打ちだという。それを聞いた瞬間、智紘は目頭に涙が溜まったらしい。

「そうですか……」

 小春は視線を雅臣に落とした。茶番を終わらせるため、痛みと怒声に耐えた雅臣。商店街からの帰り道、怖くないと言っていたが、実際はどれだけ怖かったのだろう。

「雅臣さん、奮闘したんですね」

「ええ」

 智紘も雅臣を見た。痛手を負ったいとこを見つめる目には、涙が薄らと浮かんでいた。

 しばしの沈黙の後、智紘が腰を上げた。

「誰にも言わずにこっちに来たので、一旦母屋に戻ります」

「雅臣さんを送ってくれて、ありがとうございます」

「いえいえ」

 と、智紘は居間から出て行った。

 小春は雅臣を見つめた。赤かった頬は、黒くなり始めている。

 瞼をぴしゃりと閉じていた雅臣が薄目を開けた。

「小春……」

 布巾を噛んだまま、声を出す。

「喋っちゃダメですよ」

 雅臣は氷のうを手放し、小春の手を握った。氷のうをずっと握っていた手は、雪のように冷たい。

 雅臣は握った小春の手を自分の胸の前に持っていくと、小春の掌に字を書き始めた。

 見落とさないよう、小春は雅臣の指の動きを凝視する。

 十六文字目を書き終えると、指の動きが止まった。一画一画ゆっくりと掌に書かれたひらがなを繋げる。

『おれいえたよ ちゃばんをおわらせた』

「お疲れ様です」

 小春は雅臣の手を両手で包み込み、強く握った。

「お義父さんに立ち向かう雅臣さん、きっと、かっこよかったでしょうね」

 小春の言葉が嬉しかったのか、雅臣は目を細めた。そしてゆっくりと瞼を下ろした。

 小春は血で汚れた布巾を手にし、居間を立った。

 風呂場で布巾を洗い、再び濡らして居間に戻ると、智紘の姿があった。風呂に入って来たのだろう。髪はしっとりしていて、ゆったりとした着物を着ている。

「智紘さん、また来てくれたんですね」

「ええ。どうしても雅臣の様子が気になって」

 智紘は雅臣の側に腰を下ろし、上目で小春を見る。

「小春殿は夕食を食べましたか?」

「いえ」

 痛手を負った雅臣を見た衝撃で、空腹を忘れていた。

「俺が代わります。夕食を食べてください」

「ありがとうございます」

 雅臣の面倒を智紘に任せ、小春は台所に向かった。

 二人がいる居間では、何となく食べづらい。行儀が悪いが、台所で立って食べる。

 今晩はオムレツライスを作っていた。口の中を怪我している雅臣は固形物を食べられないだろうから、雅臣の分は明日の朝に自分が食べる。

 冷め切ったオムレツライスをさっさと平らげ、雅臣の元に戻った。

 腰を下ろす前に、

「風呂に入ってきたらどうですか?」

 智紘から提案された。雅臣を見てくれているうちに入っておきたい。

「入ってきます」

「いってらっしゃい。ゆっくり入ってきていいですから」

 と、送り出されたものの、長時間見てもらうわけにはいかない。

 小春はカラスの行水だった。

「もうお戻りですか。早いですね」

「ずっと智紘さんに見てもらうわけにはいかないので」

 小春は時計に目をやった。二十一時を回ろうとしていた。

「智紘さん、ありがとうございました。あとは私が面倒を見ます」

「俺が泊まって見ますよ」

「それは悪いです。智紘さんは明日も仕事でしょう?」

「仕事といっても、大変ではないですから。きっと小春殿がする家事のほうが大変ですよ。ここは俺に任せてください」

 畳と尻がくっついているみたいに、智紘は動こうとしない。

「それじゃあ、今晩はお任せしてもいいですか?」

「ええ。ぜひ」

 それからしばらく、二人は会話することなく雅臣の側にいた。もちろん雅臣も喋らないから、室内には時を刻む振り子の音しかなかった。

 智紘が時計に視線をやった。

「もう二十三時前です。小春殿はもうお休みになったほうがいいのでは?」

 まだ雅臣の側にいたい気持ちはあるが、小春は腰を上げた。

「じゃあお願いしますね」

「はい。任せてください。お休みなさい」

「お休みなさい」

 小春は寝床に入った。怖くて嫌だった結婚当初から、雅臣と毎日この部屋で眠っていた。当たり前に隣にいた人がいないのは寂しい、と感じながら瞼を下ろした。

 小春は何度も寝返りを打つ。二人のことが気になり、なかなか寝付けない。

 寝床を出て居間の前に行く。音を立てないよう襖を少しだけ開けて、室内を垣間見た。

 電気がついていた。室内がよく見える。雅臣は眠っているようで、腹の辺りが上下にゆっくり動いている。智紘は雅臣の傍らに座り、雅臣をじっと見つめていた。その横顔は悲しげで憂いを帯びていた。

 彼らはいとこだが、幼少の頃からずっと一緒に過ごしたから兄弟みたいなものと言っていた。小春は思った。苦楽を共にした彼らの絆は、血を分けた兄弟以上に固く結ばれているのだろう、と。

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