二十話
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火曜日。
仕事部屋に入り、椅子に腰を下ろすと、
「『今晩、話があるから母屋に残れ』と、叔父さんから言伝があった」
智紘から言われた。
「そうか」
「かなり機嫌が悪かったぞ。素のお前で過ごしていたことが、叔父さんの耳に入ったんじゃないか?」
席についている智紘が身を乗り出して、心配そうに訊いてくる。
「多分、入ったんだと思う。日曜日、商店街で父さんの知り合いを見かけたから」
「一人で大丈夫か? 何かあったら俺が加勢しようか?」
「いい」
雅臣は首を横に振った。智紘は今まで、何でも手を貸してくれた。茶番を終わらせるための戦いくらい、智紘の力を借りずに決着をつけたい。
「そうか」
智紘はつぶやくと、椅子の背もたれに背中を預けた。
「頑張れよ」
「ああ」
言われた通り、雅臣は家に帰らず、母屋の居間で雅康の帰りを待った。一人で待つつもりだったが、智紘も居間にいる。胡座をかいている智紘は、腕を組んでみたり膝をさすってみたりして、珍しく落ち着きがない。雅臣の心臓は早鐘を打っているが、智紘の心臓のほうが速そうだ。
足音が近づいてくる。床に穴を開けんばかりの力強い一歩。雅康が怒り心頭に発しているときの歩き方だ。
「健闘を祈る」
と、智紘は退出した。
雅臣は深呼吸をし、はやる鼓動を落ち着かせる。今日絶対に、茶番を終わらせるんだ。
足音が止まり、襖が開いた。雅臣は腰を上げる。
「おかえりなさい。父さん」
無言の雅康の拳が、雅臣の左頬を直撃した。殴られたところがビリビリと痛む。口内が切れたようで、血の味がする。
「なぜ殴られたか分かるか?」
鋭い眼光を血走らせた雅康の顔は、般若面に勝る恐ろしさだ。子どもの頃はこの顔が怖くて、目をそらした。目をそらすとまた怒られた。けれど雅臣はもう大の大人だ。
「はい」
と、雅康の目を見て言った。
「なぜ俺が理想とする男になれない?」
雅臣は喉を鳴らし、血が混じった唾を飲み込んだ。
「父さんの理想とする男になりたくないです」
「馬鹿野郎!」
拳がまた頬に飛んできた。さきほどよりも強い力だった。衝撃に耐えられず、雅臣はよろけながら後退る。
続けざまに突き飛ばされた。雅臣は畳に尻を打ち付ける。
胸ぐらを掴まれた。雅康の顔が、鼻先まで近づいてきた。怒りで神経が高ぶっているからだろう。瞳孔が大きく開いている。
「男は威厳を持っていればいい。優しさなど不必要だ。分かったか」
「俺は人を思いやる優しい男こそ、強い男だと思います」
胸ぐらから離れた手が肩を掴んだ。勢いよく畳に押し倒される。
畳で頭を打つ。視界が一瞬、真っ白になった。
雅臣に馬乗りしている雅康は顔を真っ赤にし、歯茎をむき出しにしている。その姿は、縄張りに入ってきた敵を襲う獣のようだ。
「男に優しさなどいらん!」
「優しさこそ必要です」
雅康は舌打ちをした。そして、痛みで分からせるために、赤く腫れた息子の頬を何度も何度も殴りつける。
容赦ない鉄拳を、雅臣は奥歯を食いしばって耐える。口内のいたるところが切れ、血があふれ出ている。
父さんに負けない。
雅臣は雅康の拳を掴んだ。雅康は反対の手を振りかぶったが、雅臣はそれも掴んだ。
殴りたい雅康と、それを受け止める雅臣。力が入っている二人の手は、痙攣しているように震えている。
「俺はずっと苦しかったんです。素の自分を殺して父さんの理想を演じることもですが、亭主のつまらない理想に苦しめられる母さんや、俺のせいで辛そうだった小春の姿を見るのも。だからもう父さんの理想を演じることはやめます」
雅康は拳を勢いよく横に振り、雅臣の手をはね除けた。拳を開き、平手で雅臣の頬を打った。
平手打ちとは思えない衝撃音が居間に鳴った。幾度となく殴られた頬に感覚はない。痛みを感じなかった。
「期待外れの馬鹿息子が」
雅康は吐き捨てるように言った。そして、雅臣の脇腹に蹴りを入れて、居間から出て行った。
嵐が過ぎ去った後のように、室内はしんとなる。
終わった。
雅康との激闘を終えた雅臣は、肩で息をしながら天井を仰ぎ見た。血がたらりと喉に流れ込んでくる。
痛かった。怖かった。今まで雅康に意見したこと、反抗したことがなかった。恐怖と痛みを乗り越え、弱かった自分と決別できた気がする。
襖が開く音がした。足音が近づいて来る。
殴り足りずに戻ってきたのか。確認しようと思ったが、上半身を起こす力すら残っていない。
「雅臣……」
智紘だった。覗き込んできた智紘の顔は、血を抜かれたように青ざめている。
「……智紘。俺……、言えたよ」
「隣の部屋で聞いていた」
「痛かったし、怖かった……」
「そうだろうな。よく耐えたな」
智紘は雅臣の肩に手を置くと、頬に涙を伝わせた。
「智紘が泣くなよ……」
「悪い。抑えていたんだが……」
智紘はうつむき、頬を拭った。上を向いた顔から涙が消え、血色も戻っていた。
「家に送ろう」
「ああ……、ありがとう」
智紘に支えてもらい、雅臣は母屋を出た。




