十九話
翌週の日曜日。小春が家を出ようとしていると、
「俺も一緒に行ってもいいかな?」
雅臣から言われた。
嬉しいのに、小春は「はい」と即答できなかった。
「もしかして誰かと約束してる?」
「いえ、約束はしていないですけど……」
小春はわずかにうつむいた。
今週は雅臣を買い物に誘わなかった。雅臣は、好奇の目で見られることに慣れていると言っていたが、商店街に行く度にあれだけ注目されれば、知らないうちに心身は疲弊するだろう。
「先週のことを気にしてるんだろう?」
小春はどきりとする。雅臣から心を見透かされていた。
「嫌だったら自分から行くなんて言わないから」
雅臣は草履をつっかけ、玄関戸を開けた。
「さあ、行こうか」
行く気満々の雅臣の気持ちを無下にできない。
「はい」
小春がうなずくと、雅臣は嬉しそうに目を細めた。
二人は外に出た。
朝は大人しかった蝉が大合唱をしている。七月の太陽光を反射する地面が眩しくて、目が痛い。
雅臣は小春の前ではなく、隣に立った。それに胸を張らず、顎も上げない。どうしたのだろうか。
「お義父さんの理想を演じないんですか?」
「ああ。演じない」
小春は驚き、目を瞬かせた。素の雅臣と買い物に行けることは嬉しい。だが、心配なことがある。
「お義父さんの知り合いに見られて、お義父さんのお耳に入ったら、大変じゃないですか?」
雅康は、息子が自分の理想とする男に育ったと思っているだろう。長年、本物だと思い込んでいたものが偽物だったら、どうなるだろうか。絶望して何も信じられなくなるか、怒り狂うか。雅康は怒り狂うほうだろう。猛禽類を思わせるあの鋭い目をつり上げ、怒りを爆発させるに違いない。想像するだけで、小春の肝は冷える。
「父さんの耳に入ったら、そのときはそのときさ」
小春を見る雅臣の顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
二人は肩を並べ、商店街に歩みを進めた。
「今日は何を作る予定?」
「ライスカレーを作ろうと思っています」
「ライスカレーか。いいね。あれは美味しかったよ」
二週間前、初めて作ってみた。雅臣の口に合ったようで、おかわりまでしていた。
「そう言えば智紘にライスカレーの話をしたら、『お前は家で珍しいものを食べてるな。俺も久しぶりに洋食を食べたい』って言ってたよ」
「今日の夕食は智紘さんを誘いますか?」
「作る量が増えて、小春の負担にならない?」
「一人分ならなりませんよ」
「それなら、智紘も呼んであげよう」
声を作らないでいいからだろう。雅臣と話ながら歩けた。話すことは、家の中とさほど変わらないが、小春は楽しく思えた。
ライスカレーの材料を買い、帰ろうとしていると、三軒先の布団屋の店先に明雄の姿を見つけた。小春は雅臣の袖を軽く引っ張る。
「どうしたの?」
「布団屋に私の父がいます」
「そう。挨拶しておこうか」
「待ってください」
雅臣の袖を強く引っ張り、明雄のほうに歩こうとする足を止めた。雅臣はうわっ、と声を上げ、つんのめった。
「何? 強く引っ張るから驚いたよ」
「父の前では、お義父さんの理想を演じたほうがいいかと」
「どうして?」
と、雅臣は首を傾げた。
「父は、お義父さんの理想を演じている雅臣さんのことを気に入っているんです。素は見せないほうがいいと思うんです」
「お義父さんに何を思われてもいいさ」
絶対に雅康の理想を演じないようだ。雅臣は布団屋へと歩いて行く。
大丈夫だろうか。小春は内心で思いながら、雅臣について行く。
「こんにちは」
商品を見ていた明雄がこちらを向いた。声をかけた瞬間、わずかに眉をひそめたが、雅臣だと分かると顔をぱっと明るくした。
「おお、雅臣くん」
「ご無沙汰しております」
「本当、久しぶりだね~」
明雄は雅臣の腕に触れながら言った。茶会のときはこびへつらっていたのに、義理の息子になったら馴れ馴れしい。小春は、明雄の調子のいいとろこが嫌いだ。
明雄の視線が下に滑った。雅臣の手の買い物カゴを見たようだ。喜色に満ちていた顔を不愉快そうに歪め、小春を見た。
「おい、小春。雅臣くんに荷物を持たせるな。自分で持て」
明雄は唾を飛ばしながら言った。頬に唾がかかった。汚い。帰ったらいの一番に顔を洗わないと。
「お義父さん、いいですよ。俺が好きで持っているので」
「へえっ?」
訳が分からない。自分が素晴らしいと思った男が、自らの意思で妻の荷物を持つ、優しい男なわけがない。口をあんぐりと開けた明雄の顔には、そう書いてある。
「妻の荷物を持ってあげるのはおかしいですか?」
「いや~、おかしくはないけど、雅臣くんが小春の荷物を持ってあげるなんてねぇ……」
自分が思っていた雅臣像が崩れたのだろう。明雄は雅臣から目をそらすと、頬をぽりぽりとかいた。
居心地が悪くなったのか、あっ、と明雄はわざとらしく声を上げた。
「ここに長居してる場合じゃない。早く帰らないと。それじゃあな」
そして逃げるように布団屋から出て行った。明雄の背中を見つめる雅臣は、どこか清々しそうだった。
「俺たちも帰ろう」
「はい」
二人も布団屋に背を向け、家路についた。
商店街を出て、人気が少なくなったところで小春は問うた。
「私の父に素を見せて本当によかったんですか? お義父さんと会ったときに、雅臣さんのことを必ず話すと思うんですけど……」
「いいさ」
「お義父さんから怒られませんか?」
「怒られるよ。ついでにぶたれると思う」
「怖くないんですか?」
大の大人にするような質問ではない。けれど、小春は訊かずにいられなかった。
「怖くない。馬鹿らしい茶番を終わらせるいい機会だと思ってる」
小春は雅臣の横顔を見る。現状を変えたい。正面を見据える引き締まった横顔が、そう言っているような気がした。
「素で過ごせるようになればいいですね」
「ああ」
と、雅臣は小春を見た。その目は、戦に向かう戦士のように力強かった。




