十八話
*
小春と別れてすぐ、誰かから買い物カゴを引っ張られた。雅臣はとっさに手に力を入れ、鬼の形相で犯人を睨めつける。
智紘だった。睨まれたにもかかわらず、智紘は動じなかった。
「荷物は俺が持とう」
「ああ、頼む」
雅臣は手の力を緩め、買い物カゴを智紘に託した。
隣を歩く智紘を一瞥する。小脇に古びた分厚い本を抱えている。どうやら古本屋に行っていたようだ。
二人の間に沈黙が流れる。二人で外を歩くとき、極力会話はしない。雅臣は作った低い声で話すのが辛い。智紘もそれを分かってくれているからだ。
自分たちの足音と、風に揺れて鳴る草の音を聞きながら、家路についた。
*
今日は茶を飲むだけにした。名江の希望で、団子屋で一服する。
日曜日の昼前の団子屋はえらく繁盛している。団子は飛ぶように売れ、人の出入りが激しい。
二人は店先で団子を買い、向かい合って卓についた。
名江は早速、団子を頬張った。
「美味しい~」
と、言いながら目を細め、至福そうな顔をした。小春もきなこ団子を口に運んだ。弾力がある団子に、優しい甘さのきなこがよく合っていて美味しい。雅臣に買って帰ろう、と思った。
「どうぞ」
と、茶が運ばれてきた。
名江は湯飲みに手を伸ばし、茶で団子を胃袋に流すと、
「雅臣さま、ちょっと柔らかくなりましたよね?」
身を乗り出して訊いてきた。名江は池内家の元女中。何か雅臣の変化を察知したようだ。
「そうでしょうか」
名江にも雅臣の秘密は言えない。小春は分からないふりをする。
「なってますよ!」
だって、と名江は人差し指をピンと立てた。
「雅臣さまは人に荷物を持たせる側でしょう? そんな人が、小春さんの荷物を持ってあげてたんですよ。それにお茶していいなんて信じられません」
「きっと今日は気まぐれですよ。雅臣さまの話は楽しくないのでやめましょう」
小春は話を強制的に終わらせる。
「そうですね。久しぶりに会えたのに、雅臣さまの話をするなんてもったいないですね」
名江は頷きながら言った。
「名江ちゃんは新婚生活どうですか?」
「楽しいですよ。池内家で女中をしていたときよりも自由時間は多いし、夫は面白い人なので退屈しませんし」
と、名江は満面の笑みを作った。元々、名江の笑顔は眩しいものだった。けれど、今日は一段と眩しい。まるで太陽を見ているようだ。
「旦那さんの話、詳しく聞きたいです」
「……いいですよ」
名江は時々照れながら、話をしてくれた。
*
家に到着した。
雅臣は三和土に足を踏み入れたと同時に、眉間に込めていた力をといた。上げていた顎を下げ、張っていた胸からも力を抜く。今日はもう、父親の理想とする姿とはさよならだ。
智紘も三和土に立った。
「ほら」
買い物カゴを受け取る。智紘の目は家の中を向いていた。何か小言を言いたいから、上がりたいのだろうな、と思う。
「俺は魚を冷蔵庫に入れるから。智紘は居間に行って」
「ああ」
二人は家に上がった。雅臣は台所、智紘は居間のほうに進む。
雅臣は鰤を冷蔵庫に入れた。振り返ると、乾かされている湯飲みが目に入った。
智紘だから茶を出さなくても文句は言わないだろう。手ぶらのまま居間に向かった。
居間では智紘とユキが見つめ合っていた。見慣れない男だからだろう。ユキはまん丸な瞳で智紘をじーっと見ている。だが雅臣に気がつくと、智紘への興味が消え失せたようだ。視線をこちらによこしてくる。
「いつから俺たちのこと見てた?」
雅臣は座布団に腰を下ろしながら言った。膝の上にユキが乗っかってくる。
「小春殿から買い物カゴを取り上げるところから」
智紘は空気を吸い込んだ。胸を膨らませた後、ふーっと息を吐いた。
「『妻の荷物を持っている人が多いから、俺も持ってあげたいと思った』。そうだろ?」
小春の荷物を持ってあげたいと思った動機をさらりと言った。全くその通り。さすがだ。自分のことがよく分かっている。
「ご名答」
智紘は深いため息をつくと、上品な顔に渋面を浮べた。
「持ってあげたい気持ちは分かる。だがそれは叔父さんの理想に反するだろう。叔父さんの知り合いに見られて、叔父さんにお前の話をしたらどうする?」
「構わない」
智紘は顔を真っ赤にし、目を見開いた。そして、雅臣の肩を掴んだ。力が入っている手は小刻みに震えている。締め付けてくる痛みを雅臣は堪える。
「叔父さんから叱責されるぞ! もしかしたらぶたれるかもしれない!」
智紘の尖り声が耳をつんざく。彼のこんな声を聞くのは初めてだ。膝の上でくつろいでいたユキもびくりと驚き、どこかに走りさって行った。
「怒鳴られて、ぶたれてもいい」
「俺はお前に、苦しい思いをしてほしくないんだ!」
智紘の力がさらに強くなった。肩の骨が、ゴリッと鳴る。
「智紘……」
小学生の頃、父さんが理想とする振る舞いができずに怒られた。ちょうど遊びに来た智紘に泣きついた。そうしたら智紘が、『俺が考えてあげる』と言ってくれた。でも読書家で真面目な智紘に、父さんが理想とする男の素質はなさそうだった。考えつくのか、と思った。翌日、智紘は早速家に来た。『考えてきたぞ。叔父さんの理想とする男の振る舞い』と言って、『おじさんの理想の男』と書かれた紙を見せてきた。父さんや周囲の大人を参考にしたんだと思う。試しに、顎を上げて胸を張って歩いてみると、父さんは満悦そうだった。智紘が考えたことを実践するようになってからは、父さんから怒られることが減った。その代わり、母さんは悲しそうな顔をしていたし、俺も素の自分でいられないことが苦しかった。智紘に相談すると、『俺の前ではしなくていいし、叔母さんの前や学校では素でいいと思う。叔父さんと、叔父さんの知り合いの前だけでいいと思う』と提案してくれた。父さんの機嫌を取りつつも、俺の気持ちも尊重してくれて嬉しかった。
「お前はただでさえ苦しい思いをしながら、叔父さんの理想を演じているんだ。叔父さんに叱責されて、さらに苦しむ姿を見たくない。余計な苦しみを味あわないでくれ!」
昔から変わっていない。智紘は本当に、賢くて優しいやつだ。
雅臣は肩に乗っかっている手に触れた。
「ありがとう、智紘」
言いながら、智紘の手をはがす。
「俺、父さんに言おうと思ってるんだ。もう茶番はやめにしたい、って」
茶番を終わらせるために、いつか言わなくては、と雅臣は思っていた。今日、小春と一緒に商店街に行ったことが決定打になった。商店街で、自分たちのような夫婦を見かけなかった。改めて、自分のしていることが馬鹿らしく思えて仕方なかった。小春はどうだろうか。楽しそうな彼らのことが羨ましいと思ったのではないか。魚屋の奥さんからも言われた。『心も大切にしなさいよ』、と。もちろん、小春の心を大切にしてあげたい。
「言えるのか?」
雅臣は智紘を真っ直ぐに見た。それは決意に満ちあふれた力強い男の目だった。
「言えるさ。だってもう子どもじゃないんだから」
「そうだよな。俺たち二十四だもんな」
智紘は表情を和らげた。後ろに手をつくと、天井を見上げた。
「感情的になった俺は、まだまだ子どもだな」
「智紘は子どもの頃から大人さ。小学生が、自分の叔父さんが気持ちよく過ごせるように考えようなんて思わないよ」
「ふっ。そうか?」
と、智紘はわずかに口角を上げて嬉しそうにした。
*
名江との茶は実に楽しい時間だった。もう少し話しをしたかったが、名江は買い物があるし、小春も雅臣とユキに昼食を食べさせないといけない。火曜日に一緒に買い物をする約束をして、二人は別れた。
自宅に到着した小春は、玄関戸を開けた。
三和土に草履が二足あった。一つは雅臣のものだ。もう一つは、雅臣のものより少し大きい。来客は男性のようだ。
誰だろう。とにかく早く顔を出さないと。小春は急いで家に上がった。
親しい人なら居間、目上の人なら客間に通していると思う。
まず、客間を覗いた。誰もいなかった。来客は居間にいるはずだ。
閉まっている居間の襖に手をかけようとした瞬間、内側から襖が開いた。
智紘だった。今日は背広ではなく着物を着ている。和装の彼は雅やかで、貴族のような雰囲気がある。
「小春殿、お帰りなさい」
「智紘さん、いらっしゃい。もしかして、今日、雅臣さんと約束していましたか?」
「いえ。俺が突然来ただけです。お気になさらず」
小春は襖の前から身を引いた。智紘が頭を下げながら、廊下に出てきた。そして、
「すみません。お邪魔しました」
と、智紘は玄関に向かって歩いて行った。
小春は彼の背中が見えなくなってから、居間に入った。
「お帰り。お茶、楽しかった?」
「はい。お団子屋さんでお茶したんですけど、そこのお団子が美味しかったんですよ。雅臣さんにも買ってきましたよ」
「おお、ありがとう」
「昼食の後に食べましょうね」
小春はちゃぶ台に団子を置き、台所に向かった。
朝作った味噌汁が温まるのと、焼きおにぎりができるのを待つ間に、漬物を切る。匂いにつられたのか、居間にいなかったユキがやって来た。小春の足元に座ると餌を催促するように、ニャーと鳴いた。小春は視線を下にやった。
「はいはい。準備してあるよ」
漬物を切る手を止め、ユキの前に餌を置いた。餌を食べるユキを少しだけ見て、また包丁を動かす。
もうすぐ焼きおにぎりが完成というところで、雅臣が台所に顔を覗かせた。焼けた醤油の匂いが、居間まで届いたのだろう。
雅臣はいつも、食事の完成直前にやって来る。そして「持っていくよ」と出来ているものから、居間に運ぶ。匂いがあまり出ないもののときも、いい頃合いに現れる。毎度毎度、あまりにも間合いがよすぎる。もしかしたら、台所の側で待機しているのかもしれない、と小春はひそかに思っている。
焼きおにぎりが完成した。茶色に染まったそれは美味しそうで、見ているとじわりと唾が出てくる。小春は焼きおにぎりと茶を盆に載せて、居間に向かった。
「お待たせしました」
持ってきたものをちゃぶ台に並べ、二人は手を合わせた。
小春は数口食べると箸を置き、ちらちらと雅臣を見た。
「あの……」
「何?」
「商店街でたくさん視線を浴びて、嫌じゃありませんでしたか? 雅臣さんにあんなに人の視線が集まるなんて思わなくて……」
「好奇の目で見られるのは慣れてるから。気にしないで」
雅臣は、小春が思ったよりもあっけらかんとしていた。
雅臣も箸を置いた。そして、小春を見つめると、
「俺は今日何よりも、小春と一緒に商店街に行けたことが嬉しかったよ。また一緒に行こう」
と、はにかんで笑った。
嬉しい。また一緒に行きたいなんて言われたら、照れてしまう。小春は頬をほんのり赤くする。
「はい。絶対に行きましょうね」




