二十三話
ふみから返信が来て一週間。小春と雅臣は、隣町にいるふみの元に向かった。
小春の祖父母の家でふみの実家の、瀬田旅館に一泊する。ユキの餌やりは智紘に頼んだ。
自動車に揺られること約三十分。瀬田旅館に到着した。
小春は建物を見上げた。背が高く、入母屋屋根が目立つ建物は、城を思わせる。実家の佐野旅館よりも遥かに立派で美しい建物だ。
「立派な旅館……」
雅臣は見上げたまま感嘆した。
旅館に入り、出迎えてくれたのは伯父だった。
「伯父さん、こんにちは。小春です」
「おお、待ってたぞ。久しぶりだな。最後に会ったのは、どれくらい前だったか?」
「十年近く前です」
「そんなに前か。いや~、綺麗なお嬢さんになったな」
小春を見ていた伯父の視線が雅臣に移った。探るような目で、雅臣の頭から爪先までじろじろと見る。
「あなたが小春の旦那さん?」
「はい。池内雅臣と申します。以後、お見知りおきを」
雅臣が礼儀正しく頭を下げると、伯父の眉がぴくりと上がった。
「ああっ。瀬田伸之です。よろしく」
伯父は高速で瞬きをしながら軽く会釈をする。驚いたような目はずっと雅臣をとらえていた。
「とりあえず、上がって」
二人は客室ではなく、瀬田家の客間に通された。小春と雅臣は並んで座布団に腰を下ろす。
「ふみを呼んでくるから、ちょっと待ってろよ」
伯父が出て行ったあと、伯母が茶と菓子を持ってきた。伯母は持ってきたものを卓に置きながら、雅臣のことをちらちらと見る。落ち着きなく右往左往している瞳から、歓迎を感じない。伝わってきたのは拒否や警戒心のような負の気持ちだ。きっと、ふみが雅臣のことを悪く吹き込んだのだろう。
伯母がいなくなると、
「俺、何か変かな?」
雅臣は不安そうに訊いてきた。無礼なことをしていないのに、二人から正の感情を感じないから、気にするのは当然だ。
「変なところなんてありませんよ。初対面ですから、緊張してるんだと思います」
「それならいいけど……」
静かに襖が開いた。部屋に入ってきたのはふみだった。
「お母さん!」
四ヶ月半ぶりの対面が嬉しい小春は、卓に手をつき膝立ちになる。
ふみは小春の真っ正面に腰を下ろした。
「会いに来てくれてありがとう。元気にしてた?」
「うん、元気」
「それはよかった」
気苦労が絶えなかった佐野旅館よりも居心地がいいのだろう。顔の肌つやがいい気がする。
皆優しいから、過ごしやすいんだろうな。小春はほっとする。
「お義母さん、こんにちは。お久しぶりです」
「こんにちは」
ふみは笑みを消し、能面のように無表情になった。こんなにも冷たい母の顔を見たことがない。ふみは来客に対して、いつ何時も笑顔を絶やさなかった。
怖い。小春は背筋がぞくりとし、身震いした。
「あの、お……」
ふみは雅臣の言葉を遮った。そして、
「小春と二人で話したいので、雅臣さんは少し席を外していただけますか?」
雅臣とろくに目を合わせず淡々と言った。
雅臣は一瞬、困惑顔を見せたが、
「はい。承知しました」
と、素直に退出した。
ふみは襖が閉まったことを確認すると、小春を立たせて部屋の隅に連れていった。
「雅臣さんとの生活、辛くない?」
小春の肩に手を置き、小声で訊いてきた。見慣れた優しい母の顔に戻っている。
「辛くない。私、幸せ」
ふみは頭を小刻みに揺らし、目を見開いた。顔も若干、青ざめた。
「雅臣さんに言わされてるの?」
「言わされてない。私の本心だよ」
「だって雅臣さんは偉そうで威圧的で、小春の好む優しく穏やかな人じゃないでしょ?」
「違うんだよ。お母さんが見ていた雅臣さんは、お義父さんの理想を演じていたから。素の彼は、優しくて穏やかなんだよ」
ふみは目頭に涙を溜め、小春を抱擁した。
「それも言わされているんでしょ? 可哀想に……」
「言わされてない!」
小春はふみの腕の中で首を激しく横に振る。ふみは驚いたのか、抱擁を解いた。
「雅臣さんは子どもの頃から、親しい人以外の前では素の自分を押し殺して、苦しみながらあの威圧的な姿を演じていたの。素の雅臣さんは、買い物に行ったときに荷物を持ってくれたり、完成した料理を進んで運んだりしてくれるような人なんだよ。ついこの間まで怪我をしてて仕事に行けなかったときは、家事を進んでしてくれたんだよ。お母さんが思っているような人だったら、こんなこと絶対にしないでしょ?」
否定できないからだろう。ふみは唇を巻き込み、口を噤んだ。握った小さな拳は膝の上で震えている。
厨房に立ったばかりで調理が上手くできず、しょぼくれていたとき。明雄に怒鳴られて泣いたとき。ふみは自分を抱擁してくれ、安心できる言葉をくれた。今度は、自分がふみに安心感を与える番だ。
子どもの頃、やってもらったように。小春はふみの背中に手を回し、ぎゅっと抱いた。
「私のことを心配してくれてありがとう。私、本当に幸せに暮らしてるの。お願い。信じて」
「……信じて、いいの?」
「うん。信じて」
ふみは小春を抱き返し、小春の肩に顎を乗せると、ゆっくり口を開いた。
「小春のことを信じるよ。信じてあげないとダメだよね」
「お母さん、ありがとう。雅臣さんを呼び戻してもいい?」
ふみは無言のままこくりと頷いた。
「じゃあ、呼ぶね」
小春はふみから離れ、客間の襖を開けた。廊下で待っていた雅臣と目が合う。客人なのにあしらわれるように客間から出されたからだろう。不満そうに眉根を寄せていた。
「話は終わった?」
「はい。どうぞ戻ってきてください」
小春が言うと、雅臣の表情が和らいだ。
客間を振り返る。ふみは卓の前に戻っていた。
小春と雅臣は着座する。眼前の湯飲みをじっと見ているふみが、さきほどと座っている場所が違うことに小春は気がついた。ふみは小春と雅臣の間にいる。
「ささやかですが」
雅臣は、さきほど遮られ渡しそびれたお土産を差し出した。ふみが好きな羊羹を持ってきた。
「皆様でお食べください」
「ありがとうございます」
会話が広がらず沈黙が流れる。家族間の沈黙なんて普段なら何も気にならないのに、今日はやけに気まずく感じる。
この空気が変わる気配がない。何か三人で話せることはないか。小春が話題を考えていると、ふみが静かに口を開いた。
「雅臣さん」
「はい」
自分に話しかけられると思っていなかったのか、雅臣の声はひっくり返った。
「小春にあなたのことを聞きました」
雅臣はごくりと喉を鳴らす。その音は小春にもしっかりと聞こえた。
「縁談話に来たときのあなたは、顎を突き上げて威圧的で。はっきり言って印象は最悪でした。私はそんなあなたと結婚した小春のことが、可哀想で心配で仕方ありませんでした。小春は優しく穏やかな男性が好みですから、きっと毎日、怯えて泣いて苦労していると思っていたんです」
吐露するふみの目は赤くなり、目頭にじわじわと涙が溜まっていく。雅臣はそんなふみを見据えながら、頷くように話を聞いている。
「私の心配とは裏腹に、小春は今、幸せだと言ったんです。でも私は、あなたに言わされていると思いました。どうしてもあなたのことが信じられなくて……」
「ごもっともだと思います。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、私は……」
「聞きました。あなたも苦労されていたようですね」
「その苦労は片をつけました。もうお義母さんが見ていた私になることは金輪際ありません」
ふみは小春に視線をよこした。『本当なのよね? 信じていいのよね?』と、涙を浮べた目が訊いてくる。
『うん。信じていいよ』
小春は心の中で言って、首をゆっくり大きく縦に振った。
心の声が伝わったようだ。ふみはこくりと頷くと、視線を雅臣に戻した。
「あなたのその言葉を信じます」
「ありがとうございます」
拒絶されていたふみから受け入れられて嬉しいのだろう。雅臣の顔が、太陽光に照らされたようにぱっと明るくなった。小春も、ふみが雅臣に直接『信じる』と言ったことが嬉しくて、胸の中がじんわりと温かくなった。
「一つ、雅臣さんにお願いがあります」
「何でしょうか?」
ふみはおもむろに席を立つと、雅臣の側に跪いた。
「どうかこの先、小春を泣かせるようなことを絶対にしないでください」
と、雅臣に頭を下げた。それは、畳につけた両手に額がつきそうで、土下座に近い最敬礼だった。
「はい。約束します」
雅臣は力強く頷いた。声も一本芯が通っている。確固たる決意の表われのようだ。
「ただ、嬉し涙はお許しください」
ふみは顔を上げ、ゆっくりと瞬きをした。目頭から涙がこぼれ落ちる。
「小春、……よかったね」
「……うん」
雅臣の約束とふみの涙。二人から涙腺を刺激された。小春は堪えきれず、嬉し涙を頬に伝わせた。それは真珠のように美しく大粒の涙だった。




