第一章 低脈席 第八話「飽和 中」
◇
環は出ていた。
縁は揺れている。崩れてはいない。誘導も通っている。変換も機能している。
成立している。
——動かない。トルの膝が。
術式を維持したまま、立っている。顔にあるのは困惑。痛みではない。周囲では他の学生たちが課題を続けていて、環を出して、閉じて、記録を取っている。誰もトルの方を見ていない。
カインだけが見ていた。
「……あれ」
小さな声。
トルが環を閉じようとした。その瞬間、膝がゆっくり折れた。倒れたのではない。力が抜けて、膝をついた。草が潰れる音がした。
「ちょっと、待って……」
困惑と、少しだけ恥ずかしさが混ざっている。自分の体に何が起きたのか、わかっていない。額に汗が浮いている。日差しのせいだけではない、そう見えた。
「トル?」
最初に気づいたのはファリスだった。振り向いたとき、トルが膝をついていた。
「え、どうしたの。大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと……脚が動かなくて」
「動かないって、どういうこと」
「いや、それが俺にもわかんなくて」
笑おうとしていた。笑えていなかった。
コーダが駆け寄ってきた。
「何かあったんですか。立てます?」
「立てると思う。たぶん」
「無理しない方がいいですよ」
「無理してないって」
ブレンは動かなかった。少し離れた場所から、トルを見ていた。表情は変わらない。目だけがトルの膝を見ていた。
他の班の学生たちも気づき始めていた。課題の手を止めて、こちらを見ている者。小声で何か話している者。視線が集まってくる。トルは顔を上げて、それに気づいた。恥ずかしそうに目を逸らした。
セッテ助教が来た。
足音は速くなかったが、迷いなくまっすぐ来た。人の輪を割るようにして、トルの前に立った。トルの術式を確認した。トルはもう環を出していなかった。それを確認してから、トルの顔を見た。
「動けるか」
「……たぶん。少し待ってもらえれば」
「動くな」
トルの口が開きかけた。
「聞こえなかったか。動くなと言っている」
低い声。
「過負荷だ。軽度だが、これ以上は危険だ」
「過負荷って……でも、環は崩れてなかったですよ」
「聞いていない」
周囲を見回して、集まっている学生たちを一瞥してから、ファリスを見た。
「荷物を持ってこい。テントで休ませる」
「はい」
コーダが走り出した。ブレンも無言で続いた。二人の足音が草を踏む音、遠ざかっていく。
ファリスがトルのそばにしゃがんだ。
「立てる? 肩貸そうか」
「いや……自分で立てると思う」
「無理しなくていいよ」
「重いだろ、俺」
「これでも鍛えてるんだけど」
「どこを」
「腕」
トルは少し笑った。今度は笑えていた。
両手を地面について、ゆっくりと立ち上がろうとした。膝が震えている。一度止まって、息を吐いて、もう一度力を入れた。草を握りしめた手が白い。
足取りが危うかった。まっすぐ立っているつもりでも、体が少し傾いている。
カインが隣に立った。肩を貸すほどではない。ただ、すぐ横に。足の裏に、草を踏む感触がある。その下から、何かが上がってきている気がした。
「……悪いな」
「何が」
「いや、なんか……情けないなと思って」
何も言わなかった。
リナが少し離れた場所から見ていた。観測板を胸に抱えたまま、動かない。他の学生たちが道を開けた。トルとカインがその間を通っていく。視線が背中に刺さる。トルは前を向いたまま、一度も振り返らなかった。
◇
テントに入った。
外の日差しが遮られて、急に薄暗くなった。朝とは違う、熱のこもった空気。
トルが毛布の上に座った。座るというより、崩れ落ちるように。深く息を吐いた。
「……暑いな、ここ」
「朝より気温が上がってる」
「だよな」
カインは入り口のところで立っていた。テントの布越しに、外の声が聞こえる。課題を再開したらしい。環を出す音、記録を読み上げる声、セッテ助教の短い指示。
「環は崩れてなかったんだよ」
トルが言った。膝の上に手を置いて、その手を見ている。
「誘導も、変換も、全部ちゃんとできてた。手順も間違えてない。出力の配分も、昨日までと同じようにやった」
「ああ」
「なのに——」
足元を見下ろした。
「なんで止まったんだろうな」
答えられなかった。
見えていた気がする。縁の動きが、噛み合っていないように見えた。何かがズレていた。重なっていた。そう見えた。
言葉にならない。「縁がズレていた」と言ったところで、トルには見えていないものだ。見えていないものを説明しても伝わらない。指先に力が入った。握りしめている。理由がわからない。
「戻っていいよ。課題、まだ残ってるだろ」
「もう終わる」
「そうか……」
外から風。テントの布が揺れて、入り口から光が差し込んだ。すぐにまた薄暗くなる。
「なあ、カイン」
「何」
「何か見えてたか。俺の環」
沈黙。
テントの外で、誰かが笑う声がした。別の班だろう。
トルがカインの顔を見ていた。答えを待っている目。
見えていた気がする。
ズレている。合わない。消えない。
——言葉にならない。
口を開こうとした。何も出てこなかった。
「……いや、いいや」
トルが視線を外した。
「聞いてもたぶんわかんないし。俺には見えてなかったわけだから」
責める調子はなかった。
トルが毛布の上に倒れ込んだ。仰向けになって、テントの天井を見上げた。布の隙間から、光が細く差し込んでいる。
「少し寝る。起きたら動けるようになってると思う」
「ああ」
「……ありがとな。ついてきてくれて」
何も言わなかった。
テントを出た。日差しが眩しい。目が慣れるまで少しかかった。草原の向こうで、他の班が課題を続けている。環の光がいくつか見える。
足の裏から来るものは、変わらず続いていた。向きがあって、傾いていて、ゆっくりと動いている。
トルの環の縁で見えていたものと、これが同じなのかどうか。わからない。
◇
課題が終わった。
各班の記録がセッテ助教に集められている。学生たちが荷物をまとめ始めていた。
リナが観測板を持って、カインのところに来た。
「トル、どう?」
「寝てる。軽度だと言われた」
「そう……起きたら動ける感じ?」
「たぶん」
「よかった」
リナは観測板を胸に抱えたまま、少し黙っていた。風が吹いて、髪が揺れた。
「昨日言った波形の話、覚えてる?」
「覚えてる」
「今日も出てた。昨日と同じ場所に」
「俺がいた辺りか」
「うん。それと——」
言い淀んだ。
「それと」
「トルがいた場所にも、似たようなのが出てた」
黙った。
「昨日はなかったの。今日だけ。しかも、トルが止まる直前くらいから急に出始めて」
リナの声が小さくなった。
「関係あるのかな。トルが止まったのと」
「わからない」
「……だよね」
リナは観測板を見下ろした。数値が並んでいる。波形の線が引かれている。
「セッテ助教に言った方がいいのかな」
「どうだろう」
「昨日は聞いてもらえなかったし……でも、関係あるって証明できない。たまたま同じタイミングだっただけかもしれないし」
観測板の端を指で叩いている。
「記録だけは取っておく。あとで何かわかるかもしれないから」
リナはそれだけ言って、荷物の方へ歩いていった。途中で一度振り返って、カインを見た。何か言いたそうな目。結局何も言わずに歩いていった。
カインはしばらくその場に立っていた。足の裏から来るものが、朝より弱くなっている気がした。日が傾き始めて、草の上の熱が薄れてきている。
風が吹き、草が揺れた。




