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ヴェルナ霊導録 ――環の静寂  作者: 桐原 朔


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第一章 低脈席 第八話「飽和 後」

     ◇


 輸送車に荷物を積み込む。


 テントを畳んで、道具を片付けて、記録板を箱に入れる。来たときと同じように、帰る準備が進んでいく。


 トルがテントから出てきた。自分で歩いている。足取りは少し重かったが、支えが必要なほどではない。


「乗れるか」


 セッテ助教が聞いた。


「乗れます」


「無理はするな」


「はい」


 それ以上は何も言わなかった。トルが車に乗り込むのを、少し離れた場所から見ていた。


 トルは座席に座った。窓側ではなく、真ん中あたり。カインがその隣に座った。


「……そんな顔しなくていいって」


「どんな顔」


「心配してる顔。さっきから何回もこっち見てるし」


「見てない」


「見てたって」


 カインは黙った。見ていたのは事実だった。


 ファリスが向かいの席に座った。コーダとブレンが続く。リナは少し離れた場所に座って、観測板を膝に置いた。


「揺れるよ、たぶん。行きより」


 ファリスが言った。


「だろうな。覚悟してる」


 トルが答えた。声は普通に戻っていた。


 扉が閉まった。グルトが動き始めて、車体が揺れた。


     ◇


 揺れは行きより酷かった。


 道が荒れているのもある。疲れているのもある。同じ揺れでも、体が受け止める力が弱くなっていた。


 トルは目を閉じていた。眠っているのか、休んでいるだけなのか。時折、揺れに合わせて体が傾いて、そのたびに小さく姿勢を直していた。


 ファリスが小声で言った。


「過負荷って、どのくらいで治るの」


「軽度なら数日。重度だと数週間」


 ブレンが答えた。


「けっこうかかるんだ……」


「軽度だ」


 コーダが窓の外を見ながら言った。


「僕も一回見たことあります。知り合いの術士が過負荷になって、三日くらい動けなくなってて」


「それ軽度じゃないでしょ」


「中度だったみたいです。でも一週間くらいで復帰してたから……」


「じゃあトルはもっと早いか」


 ファリスの声には、確かめるような響きがあった。


 リナは窓の外を見ていた。観測板は膝の上にあったが、開いてはいない。


 カインは足の裏に意識を向けた。王都に近づくにつれて、来るものが変わっていく。均一になっていく。森の縁で感じた、あの向きを持った揺れが、少しずつ遠くなっていった。


 道の両側に畑が見え始めた。人の手が入った土地。足の裏から来るものが、急におとなしくなった。そう感じた。


     ◇


 行きと同じ宿場町で一泊した。


 夕食は干し肉と固パンと豆の汁。全員が最初から汁に浸して食べた。もう誰も文句を言わなかった。


 トルは食べていた。食欲はあるらしい。椀を空にして、固パンも全部食べた。


「……恥ずかしいな」


 食べ終わってから、トルがぽつりと言った。


「何が」


 ファリスが聞いた。


「初めての野外実習で過負荷って、どうなんだろうなと思って」


「毎年何人かは出るらしいよ」


「そうなのか」


「うん。だから別に……まあ、普通っていうか」


「でも止まったの俺だけだろ、今回」


「たまたまでしょ」


 ファリスの声は軽かった。励ますというより、事実を述べているだけの軽さ。


「来年気をつければいいんじゃない?」


「……まあ、そうか」


 トルは少し笑った。


 コーダが頷いた。


「初めての場所で加減がわからないのは、しょうがないですよ」


 ブレンが何も言わずにトルを見ていた。それから、小さく頷いた。


 リナがカインの方を見た。何か言いたそうな顔。結局何も言わなかった。カインも何も言わなかった。


 焚き火が爆ぜた。火の粉が夜空に上がって、すぐに消えた。


     ◇


 翌朝、トルは自分で起き上がった。


 膝は動いた。足取りも、昨日よりしっかりしていた。


「調子どう?」


 ファリスが聞いた。


「だいぶ戻った。まだ少し重いけど」


「歩ける?」


「歩ける。昨日よりは全然」


 トルは荷物袋を持ち上げた。重さを確かめるように、一度上下に揺らした。


「……うん、大丈夫」


 カインが隣に来た。


「無理するな」


「してないって」


「そうか」


「……お前さ、昨日からずっとそれしか言ってないぞ」


「そうか」


「だからそれ」


 トルは笑った。


「まあ、お前らしいけど」


 輸送車に乗り込む。昨日と同じ席に座った。揺れが始まった。


     ◇


 王都が見えてきた。


 城壁の輪郭が霞の向こうに浮かんでいる。道が石畳に変わって、車輪の音が変わった。揺れが小さくなった。


 足の裏から来るものが、また変わった。均一で、整っていて、静か。学院の敷地内で感じていたものと同じ。そう感じた。


 森の縁で感じたものは、もうここにはなかった。


 輸送車が正門の前に停まった。扉が開いて、外の空気が入ってきた。学院の空気。


 石畳を踏んだ瞬間、足の裏の感触がはっきり変わった。均一。整っている。読み取りやすい。これが当たり前だと思っていた感触だった。三日前までは、これしか知らなかった。


 カインは荷物袋を下ろして、引き出しの石のことを思い出した。持っていった。理由は特になかった。今、ここにある。何も変わっていない。


 トルが隣に来た。


「来年はもう少し抑えてやる。最初から」


 カインが振り向いた。


「今回は様子見のつもりだったんだけど、様子見で止まったら意味ないし」


 来年。来年もここに来るつもりでいる。


「そうした方がいい」


「だな」


 トルは前を向いた。


「……なんか、長かったな」


「三日だった」


「三日しかなかったのに、長かった」


 何も言わなかった。トルも続けなかった。


 正門をくぐった。学院の敷地に入った。


 他の学生たちが荷物を持って歩いている。日常に戻る動き。食堂の方から、夕食の準備をしている音が聞こえた。


     ◇


 自室に戻った。


 荷物袋を床に置いて、引き出しを開けた。石を取り出して、元の場所に戻した。


 窓の外を見た。学院の中庭が見える。誰もいなかった。夕方の光が斜めに差していて、石畳に長い影ができていた。


 足の裏に来るものは静かだった。均一で、整っていて、読み取りやすい。


 森の縁で感じたものは、もうここにはなかった。あの向きを持った、ゆっくり動いていたものは、ここにはない。


 トルの環の縁で見えていたものが、何だったのか。あれと、森の縁で感じていたものが、同じなのかどうか。


 わからないまま、三日が終わった。

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