第一章 低脈席 第八話「飽和 前」
「できることと、やっていいことは違う。
術式が出せるからといって、出し続けていい理由にはならない。」
――『術士の心得』著者不明 孤児院の書棚で見つけた本の一節
◇
目を開けると、まだ薄暗かった。
トルはすでに起きていて、毛布の上に座ったまま目を閉じている。眠れなかったのか、今起きたばかりなのか、どちらかわからなかった。目の下の影が昨日より濃くなっている気がした。
「……起きた?」
「起きた」
「俺も今起きたとこ。まだ早いよな」
声はいつも通りだった。外から鳥の声がする。誰かが焚き火を起こしている音がして、煙の匂いがテントの中まで流れてきた。
「今日で終わりか」
「午前で課題が終わる。午後から戻る」
「帰りも揺れるんだよな、あの車。行きよりマシだといいけど」
「どうだろう」
「……まあ、揺れるか」
トルが首を回した。骨が鳴る音がした。
「背中が痛い。地面が硬すぎるんだよな」
「毛布を二枚重ねればよかった」
「それ昨日も言ってたか? 覚えてないな」
カインは何も答えなかった。トルは少し笑って、立ち上がった。膝に手を当てて、ほんの少しだけ止まる。それから体を伸ばして、テントの外に出ていった。
カインも荷物袋の中を確認した。石がある。昨日と同じ場所に、同じ重さで。手を触れて、それだけ確かめて、袋を閉じた。
◇
焚き火のそばに全員が集まっていた。
固パンと干し肉と、鍋で温め直した豆の汁。三日目ともなると、誰も文句を言わなくなっていた。
「今日もこれですか」
コーダが椀を受け取りながら言った。諦めたような声だった。
「そりゃそうでしょ。急に変わったら逆に怖いよ」
ファリスが固パンを汁に浸しながら答えた。
「まあ、温かいのはありがたいですけどね」
「文句言いながら食べてるの、コーダだけだよ」
「言ってないです。感想です」
ブレンが火のそばで黙って干し肉を齧っていた。ファリスがそちらを見た。
「ブレン、今朝やたら早く起きてなかった? まだ暗いうちに外出てたよね」
「見回りをしていた」
「見回りって、何の」
「周囲の確認」
「……真面目だね」
「普通だろう」
ブレンはそれだけ言って、また干し肉を齧った。ファリスは肩をすくめて、固パンの残りを汁に沈めた。
リナは少し離れた場所に座っていた。観測板を膝に乗せて、何かを確認している。眉が少しだけ寄っていた。
「リナ、先に食べたら? 冷めるよ」
トルが声をかけた。
「うん、あとで食べる」
「あとでって、もう冷めかけてるけど」
「大丈夫。冷めても食べられるから」
「冷めた固パンって相当硬いぞ」
「もともと硬いでしょ、これ」
トルは言い返せなかった。それはそうだ。
カインは焚き火から少し離れた草の上で、汁をすすっていた。温かい。それだけで十分だった。足の裏から、昨日と同じものが来ている。向きがあって、ゆっくりと傾いていく。
セッテ助教が通りかかった。全員の方を一度見て、空を見上げる。雲の動きを確認しているようだった。
「食べ終わったら準備しろ。今日で終わりにする」
それだけ言って、別の班の方へ歩いていった。
「今日で終わりか」
トルが椀を傾けて、最後の汁を飲み干した。
「長かったような、短かったような」
「三日でしょ。短い方じゃない?」
ファリスが言った。
「いや、なんか長く感じたんだよな。濃かったっていうか」
「濃いのは汁だけで十分だって」
「そういう意味じゃなくて……まあいいや」
トルは言いかけてやめた。空を見上げる。雲が薄く流れていた。
カインは立ち上がって、荷物袋を肩にかけた。
「行くか」
「うん」
トルも立ち上がった。膝に手を当てる動作が、また入った。
◇
石柱の範囲内で、昨日と同じ課題が始まった。
カインは自分の環を開いた。来るものに沿わせるように、縁を張る。引っ張るのではなく、方向を合わせる。昨日の終わりに掴んだ感覚が、まだ手の中にあった。
環が開いた。揺れない。
昨日は三度目でようやく安定した。今日は一度目から出ている。来るものの動きが、少しだけ読めるようになっていた。
トルの方を見た。
環を展開している。縁は揺れていない。出力が高い分、形がはっきりしていた。
だが——縁の回転が、昨日より速い。
昨日の終わりに見えていたものが、今朝の最初からすでに出ていた。薄く重なっていたものが、一晩経っても消えていない。
トル本人は気づいていないように見えた。環を閉じて、また開いて、記録を取っている。動作に淀みはなかった。
誘導は通っている。変換もできている。術式としては成り立っていた。
なのに、どこかがずれている。
声をかけるべきなのか。何と言えばいいかわからなかった。「縁が速い」と言っても、トルには見えていないだろう。
カインは視線を自分の環に戻した。
◇
「ねえ、ちょっといい?」
リナの声がした。石柱のそばで、観測板を構えている。
「何」
「昨日と同じ場所の波形なんだけど。また変なの」
カインはリナの方へ歩いた。観測板には数値が並んでいた。波形の線が、他の部分と違う動きをしている。
「ここ、見て」
リナが指で示した。
「荒いっていうのとは違うんだよね。形そのものが違う」
「形か」
「荒さって、要は量の問題なの。振れ幅が大きいとか、頻度が多いとか。でもこれは形が違う。波の質っていうか……うまく言えないんだけど」
カインは波形を見た。違いがあるのはわかる。それが何を意味するのかは、わからなかった。
「昨日と同じ場所なのか」
「うん。あなたが課題やってた辺り」
カインは黙った。
「セッテ助教には言わないことにした。昨日、野外はそういうもんだって流されちゃったし。でも記録だけは取っておく」
リナの声には、少しだけ硬さがあった。
「課題、戻った方がいいね」
「ああ」
カインは自分の場所に戻った。
◇
課題の終わりが近づいていた。
日が高くなって、草の上に熱がこもり始めている。他の班が記録を取り始めていた。
トルがまた環を出している。今日四度目か、五度目か。
手つきは変わらない。誘導も通っている。変換も機能している。
縁を見た。
速い。
さっきより速い。朝より速い。
一度ごとに何かが重なっている。消えない。さらに乗る。
トル本人は気づいていない。環を閉じるたびに「よし」と小さく言っている。うまくいっている、という顔をしていた。
「あと少しだな」
トルが言った。声は普通だった。汗が額に浮いている。
環を閉じた。問題なく閉じた。
次を開こうとした。
トルの肩が、一瞬だけ揺れた。
バランスを取り直す動き。小さい。本人も気づいていないかもしれない。
環は出た。縁は揺れている。だが出ている。
誘導を通そうとした——
トルの膝が、止まった。




