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ヴェルナ霊導録 ――環の静寂  作者: 桐原 朔


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第一章 低脈席 第七話「野外実習 後」


     ◇


 翌朝、出発前にトルが観測板を受け取った。


 目の下に浅く疲れが残っている。眠れたはずなのに、起き抜けの顔だ。本人は気にしていないようだった。


「重いな」


「昨日も言ったでしょ」リナが言った。


「こんなに重いとは思わなかったよ。ほんとに」


「落とさないでよ」


「落とさない落とさない」


 ファリスが小さく「うん」と言った。


 輸送車が動き出した途端、今日の道の悪さがすぐわかった。昨日より、はっきり悪い。舗装がない。完全な土道で、車輪が溝を踏むたびに荷物袋が足元でずれていく。コーダは膝のメモを押さえながら、それでも読もうとしている。


「道が悪い」トルが窓の外を見ながら言った。「昨日より悪い」


「原生域に近いからじゃない?」ファリスが言った。


「そういうもんなのか」


「さあ。そう聞いた」


「今日のほうが揺れるって話、聞いた気がします」コーダが言った。「……気がするだけですが」


 窓の外の景色が変わっている。昨日の午前中まであった農地が消えて、草原が広がり、遠くに木々の端が見えた。人の家がない。道沿いに建物もない。


 足の裏に届くものが、また少し変わっていた。昨夜の宿営地とも違う。もっと素直に来る。聞き取りやすい、という言い方が浮かんだ。


「家、ほんとに見えなくなったな」トルが言った。「学院から出てきたって感じがする」


 景色より先に、足の裏が気づいていた。


 トルは昨夜の感じを引きずってはいないように見える。窓の外を見て、ファリスに話しかけて、コーダが揺れで肩をぶつけてきたときも「問題ない」とブレンより先に言った。動作は変わらない。ただ、口数が少し多い。そうでもないかもしれない。カインは窓の外を見たまま、そのことを考えた。


 木々が近づいてくる。草原の端が森になっていく。道がその森の縁に沿うように曲がり、木の根が道に張り出している場所があって、そこを車輪が踏むたびに激しく跳ねた。


「あのう」コーダが言った。「だいぶ揺れますね」


「もう少しで着くはず」ファリスが言った。


「そうですか」コーダはメモを鞄にしまった。「読むのは諦めます」


 木々が迫ってくる。葉が大きく、重なり合っている。木と木の間が暗い。その暗さの中から、来るものがある。まだ遠い。でも来ていた。


     ◇


 輸送車が止まったとき、まず音が変わった。


 石や土を踏む音ではなくなった。草が車体の腹を掠める音と、遠くの木々が風を受ける音、その二つだけ。


 扉が開いた。


 一歩踏み出した瞬間、足の裏に何かが触れた。


 触れた。


 押されるわけでも引かれるわけでもない。ただ、そこにある。学院でも、今朝まで通ってきた街道でも、宿場町の空き地でも、こういうものは来なかった——大きなものが、足の下にある。カインはしばらく動かなかった。


「着いた着いた」トルが後ろから降りてきて、草の先を見渡した。「思ったより広いな」


「何もないって、ほんとに何もないんだな」


 野原だった。草原と森が接するあたりで、左右に広く続いている。森の縁の木々は高く、下枝が地面近くまで垂れているものもある。学院側が設置した石柱が数本立っており、観測式が刻まれているのが遠目にわかった。それ以外に人の手の痕跡はない。


「石柱だけなんだな」トルが言った。「建物とか何もないのか」


「野営前提の実習だから」ファリスが言った。「テントは今日張る」


「荷物を下ろしたら、まず設営ですよね」コーダが辺りを見渡した。「指示が出る前に動いていいか確認してから」


「そうしよう」ファリスが言った。


 他の班の学生たちも次々と輸送車を降りてくる。


「なんか変な感じがする」


「重い。空気が重い気がするんだけど」


「気のせいじゃないか」


「足元が、なんか。脈酔いとは違う気がする」


 声が続いている。カインはその場に立ったまま、足の裏に来るものを確かめた。向きがある。学院ではこういうものは来なかった。ここのものは向きを持っていて、一定でもなく、ゆっくりと変わっていく。


 セッテ助教が前に出た。


「散らばるな。石柱の範囲内で動け」


 数人がその先の言葉を待ったが、セッテ助教はすでに別の方角を見ていた。しばらく間があって、


「教室と同じようにやろうとするな。流れを読め」


 それだけだった。理由も、どう読むかの説明も、なし。


     ◇


 テントを張るのに時間がかかった。地面が思ったより固く、杭が入りにくい。


「角度を見ろ」ブレンが最初に一本打って、確かめながら言った。「そこだ」


 それを見てから全員が同じようにした。


「見た目より固いな、地面」トルが杭を打ちながら言った。「学院の演習場みたいにはいかないか」


「杭を打つだけで腕にきますね」コーダが言った。「皆さん、慣れてるんですか?」


「真似してるだけ」ファリスが言った。


 周囲の他の班も同じことをしている。杭を打ち損じる音が聞こえて、誰かが小声で何かを言い、誰かが短く笑った。その後は静かになった。


 テントが立ったところで、草の上に腰を下ろして携行食を食べた。固パンと干し肉。近くで別の班も座っていて、話し声はあるが移動中よりずっと少ない。


 座ると、日向の地面がもう熱を含んでいた。朝の冷気はもう消えている。


「座るだけでちょっとほっとする」トルが言った。


 カインは食べながら地面の感触を確かめた。昨夜の宿場町と比べても、またここは違う。森の方角から強く来るものがある。木々の根元から何かが滲み出てくるような感じで、霊脈と木と土と草が一続きになって足の裏に来ていた。


「食べ終わったら準備しろ。午後から始める」セッテ助教が通りかかりに言った。


     ◇


 課題は単純だった。野外の霊脈に術式環を展開し、出力を記録する。学院の演習場でやってきたことと同じで、ただ場所が違う。


 最初に環を開こうとした学生の環が、開いた瞬間に崩れた。縁が揺れて、形を保てない。


「押さえようとするな」セッテ助教が近づいて言った。「動いているものを止めようとするから崩れる」


 他の学生も環を出し始めた。揺れる者、何とか形を保つ者、また崩れる者。一人ずつ違う失敗をしている。押さえようとして崩れる、向きを固定しようとして弾かれる、最初の展開はできても誘導で崩れる。学院で安定して出せていた者でも、ここでは最初の一手からやり直していた。出力が大きすぎて場に弾かれる者もいた。怖がって絞りすぎた者の環は薄くなったままどこへも向かわなかった。


 学院の演習場では見なかった種類の失敗だった。


 カインは少し離れた場所に立って、足の裏に意識を向けた。


 向きがある。一定ではなく、ゆっくりした傾きの変化で、その傾き自体がまた少しずつ角度を変えていく。止まらない。固定できない。


 なら、固定しなければいい。


 傾きに沿わせるように環を張ることを試みた。引っ張るのではなく、向きに従う。環の縁を、来るものと同じ方向に開く。


 最初は少し崩れた。読みが遅かった。もう一度やった。今度は少し近かった。三度目、形が出た。崩れない。


 理屈は追えないが、今は保てている。それだけ確かめて、次の工程に移った。


     ◇


 少し離れたところでトルが環を展開していた。


 速い。展開だけ見れば、むしろ調子はよさそうだった。縁の安定も最初から悪くない。出力が高い分、力がある。最初の学生のように崩れなかった。


 だからこそ、余分な回転が目についた。


 一度ごとに薄く重なって、消えずに残っていく。環を出すたびに少しずつ速くなる。本人の手つきは変わっていない。場が要求するものに対して、本人が意図しない形で環が応答している。そう見えた。


 声をかける理由はある。けれど、言い切れるほどではなかった。


 ただトルを見ていた。


「慣れてきた気がする」トルが言った。「最初より安定してきた」


 返事をしなかった。できなかった。肯定も否定も、今はどちらも違う気がした。


 風が草を揺らした。


     ◇


 環を展開し終えたとき、視界の端に第一班の方角が入った。


 三十歩ほど先、石柱の並びを挟んだ向こうに、エイヴァン・エインが術式を構えている。


 止まった、ように見えた。一瞬だったが、学院では見たことのない止まり方だった。失敗ではない。見て、選んだ止まり方だった。流れの向きを確かめてから、誘導を通している。カインが三度かけてやったことを、エイヴァンは一度でやっていた。


 カインは視線を自分の環に戻した。


 足元の律動は、向きを追わなくても来るものに合わせれば自然に動く。その感覚だけが先にあって、理屈は後ろに残った。


     ◇


 石柱のそばでリナが観測板を構えていた。羽根ペンが動いては止まり、また動く。止まるたびに板の一点を見つめ、また書き始める。その繰り返し。


 セッテ助教がその前を通りかかったとき、リナが小声で言った。


「波形が変...」


 セッテ助教の足がわずかに緩んだ。視線がリナの観測板の上を一瞬だけ動いて、それからまた前を向いた。


「荒いのは毎回だ。野外はそういうものだ」


 足は止まらなかった。


「荒いっていうだけじゃないと思うんですけど。波形の形が——」


 言い終わる前に、セッテ助教はすでに次の学生の方へ歩いていた。


 リナが一拍止まった。納得して引いた顔ではなかった。観測板に向き直り、羽根ペンがまた動き始め——また止まった。今度は少し長い。板の同じ一点を見て、指先で数値の横をなぞる。視線を少し動かして、違う場所の数値と見比べているらしかった。それから、ゆっくり書き始めた。


     ◇


 日が森の向こうに沈みかけるころに課題は終わった。


「明日また続ける」


 セッテ助教の一言で学生たちが散り始めた。野営の準備をする者、荷物に戻る者、地面に座り込む者。カインはしばらくそこに立っていた。


 夕方の光が草に斜めに差している。草が長く、風が吹くたびに揺れた。森の縁の木々の影が野原に伸びてきて、日が落ちれば真っ暗になる場所だった。


 トルの方を見た。荷物袋を持ち上げて、テントの方へ歩いている。手つきはいつもと変わらない。疲れてはいるだろうが、倒れるようなものではない。見過ごしていい感じでも、なかった。


     ◇


 夕食は昨夜と同じだった。


 干し肉と固パンと、鍋で温めた豆の汁。固パンを汁に浸せば少し柔らかくなる。今夜は全員が最初からそうしていた。


「疲れた」トルが椀を持ったまま言った。「ちゃんと疲れた。変な言い方だけど」


「野外はそんなもんじゃない?」ファリスが干し肉を口に入れながら言った。


「私もです」とコーダが言った。「こういう疲れ方は初めてで。脚じゃなくて、頭の奥が鈍い感じがします」


「そうだよ、使い続ければそうなる」


「でも、使い切ったっていう感じとはまた違くて」


「野外はそんなもんだよ」ファリスが言った。それ以上は説明しなかった。ブレンは椀に視線を落としたままだ。


 しばらく誰も口を開かなかった。焚き火が爆ぜた。


 遠くで他の班の声がしている。笑い声と夜の虫の声が混ざって、でも声量は低く、誰かが笑っても、すぐ続かなかった。全員が少しずつ削られていた。頭上の星が増えていた。


     ◇


 焚き火の前にリナがいた。膝に観測板を乗せ、羽根ペンを持ったまま止まっている。視線が板の一点に落ちたままだった。


 近づいたとき、リナが顔を上げた。


「一か所だけ、波形の動き方が変なところがあったね」


「どこだった?」


「あなたが課題をやってた辺り。荒いんじゃなくて、動き方の種類が違う気がした」リナは少し間を置いてから、「他の人がやってた場所の波形とは、癖が違う」と続けた。「ミスかもしれないけど、そういう数字の乱れ方じゃなかったから、明日また取ってみる」


 否定する理由はなかった。肯定できるほど、わかってもいなかった。


 カインは焚き火を見たまま黙っていた。リナも、それ以上は言葉を探さなかった。


 しばらくして、リナが観測板を閉じた。「明日ね、おやすみ」と言って、テントの方へ歩いていった。


 焚き火が低くなっていた。


     ◇


 カインは荷物袋に手を入れ、石を取り出した。


 重さは変わらない。表面の感触も変わらない。持ち慣れた感触。ラギールの瓦礫の中から拾われたものが今ここにある。


 草の上に腰を下ろして、石を握ったままでいた。


 地面の下から、音に似た揺れが来る。足裏だけではなく、地面に触れているところ全体へゆっくり上がってくる。重さとは違う。圧でもない。向きがあった。


 昼間、トルの環の縁が少しずつ速くなっていくのを見ていた。それが今の揺れと同じ方向を向いていたかどうか、カインはしばらく確かめようとして、やめた。わからないままにしておいた。


 石を握る手に力が入った。わかったわけではなかった。ただそうなった。


 石を袋に戻した。それでもしばらく、足裏の奥に揺れだけが残っていた。


     ◇


 テントに入ると、トルはすでに毛布の上に横になっていた。


 目を閉じている。眠っているのか、眠れていないのか。毛布は引き寄せているが、体の力が抜けきっていない気がした。寝ているだけならいい、と思った。けれど、そう言い切れる感じでもなかった。


 カインは自分の毛布を敷いて、横になった。地面が硬い。


 環の縁に余分な回転が乗っていく。一度ごとに薄く重なって、消えずに残っていく。本人の手つきは変わっていなかった。慣れてきた気がする、とトルは言っていた。最初より安定してきた、とも言っていた。それが正しいのかどうかは、カインにはわからなかった。


 昨夜、別のところが疲れてる、と言いかけていた。


 トルの寝息が聞こえた。

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