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ヴェルナ霊導録 ――環の静寂  作者: 桐原 朔


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第一章 低脈席 第七話「野外実習 前」


「森の縁で一夜を過ごした。

 地面が、眠っていても何かを話しかけてくるような感触があった。

 気のせいだとは思う。ただ、朝まで目が覚え続けた。」


――旅人の記録断章 著者不明 王暦百六十二年ごろ


正門の前には霧が出ていた。


 まだ日が出るより早い時間で、空の色が暗い青と白の間にある。石畳は夜の湿気を吸っていて、踏むたびに靴底がしっとりした感触を拾う。


 カインが正門の外へ出て最初に思ったのは、大きい、だった。


 霧の向こうに繋がって停まっているそれは、建物の一部に見えた。輸送車だと気づいたのは、少し近づいてからだ。三両連結で、全体の長さは正門の幅より長い。最初の一両は幌なしの荷台で、テントの竿や毛布、食料らしき木箱が積んである。その後ろに幌付きの客車が二両続いていた。


 そして、引いているのが馬ではなかった。


 一頭。前方に一頭だけ繋がれて、霧の中に停まっている。馬の倍ほどの体積がある、低く重い生き物だった。頭が小さく、胴体が厚い。全身を覆う皮膚が鱗状で、色は乾いた土に近い暗褐色だった。動かなかった。動いているのかどうかもよくわからなかった。


 生き物のはずなのに、道具に近い気配があった。


 カインは石柱のそばに立って、荷物袋の紐を直した。荷物は着替えと最低限の道具だけだ。出がけに引き出しの石を取り出して、入れるか迷って、入れた。理由は特になかった。しいて言えば、持っていった方がいい気がした。それだけだ。


 班員が揃うのに少し時間がかかった。他の班もそれぞれ正門の外へ出てきていた。輸送車を見て足を止める者、すでに荷台の前に並んでいる者、連れの者と小声で確認し合っている者。全体に声が少なく、笑い声はほとんどなかった。


 最初に来たのはブレンだった。ほぼ定刻ちょうどで、荷物袋を地面に下ろして腕を組んだ。輸送車を一度見て、視線を前に戻した。次にコーダが来た。手にメモを持っていて、荷台に近づきながら積荷の数を確認し、何かを書き込んでいた。続いてファリスが来た。足音が速い。「おはよう、寒いね」と言ってから、連結部の金具を一箇所確認した。不満はなかったらしく、そのまま離れた。


 リナが正門をくぐってきたとき、輸送車を見た瞬間に足が止まった。


「……何、あれ」


 カインも答えなかった。リナと同じように、車両と前方の一頭を順番に見た。


「グルトだ」


 声はトルだった。あくびをしながら現れて、目が半分しか開いていなかったが、それを見た瞬間に少し表情が変わった。


「父さんの部隊で使ってた。軍の輸送で使う獣で、北の方に多い。力がすごいから、一頭で三両分引けるんだよ。こんなところで見るとは思わなかったな」


「軍の?」ファリスが言った。「学院が軍から借りてるのか」


「そういうことになるのかな。一般の荷運びには向かないから、持てるのは軍か、金のある商隊くらいで」


「維持費が高いんですか」コーダが言った。


「食う量がすごいんだよ。一頭で馬の何倍も食うから、遠出するだけで飼料代がかかる。軍みたいに補給拠点が沿線に並んでるところじゃないと、維持できない」トルは荷物袋を下ろして獣を改めて見た。「でかいだろ。野生のやつは北部の山のそばにいる。前に親に連れられて一度だけ見た」


「近寄らない方がいいよね」リナが少し後ろへ引きながら言った。「急に動いたら」


「温和だよ。驚かせなければ暴れない」


「……そういう話、いつ聞かされても信用できないんだけど」


「まあ、そうだよな」トルは苦笑した。「でも本当に。ほら、職員も普通に隣に立ってるだろ」


 職員が一人、そばで留め具を確認していた。グルトは動かなかった。首が少し動いて、生き物だとわかった。


「動くの、あれ。まだ全然動いてないけど」


「動くよ。振動がすごいから覚悟しといて」


 リナが輸送車の側面を少し遠くから見ていた。外板に細い術式線が格子状に刻まれている。荷重分散の安定式だと、近づかなくてもわかった。


「寒い」トルは目を獣から離して伸びをした。「食堂で温かいもの飲んでから来るつもりだったんだけど、時間なかった」


「水筒に入れてきた」


「え、マジか」トルが振り向いた。「今飲んでいいか」


「量は少ない」


「少しでいい。本当に少しだけ」


 カインは荷物袋から水筒を出した。トルが受け取り、一口飲んで「ありがとう、助かった」と言った。目が少し開いた。


「観測板、重そうだね」とファリスがリナに言った。「一枚くらい荷台に積めないの?」


「移動中も確認したいから、手元に置いておきたくて」


「荷台に乗せれば手元に来るまで少しかかるけど、それでいいなら積んでいいよ」


「着いたら教えてもらえれば大丈夫」リナは少し考えてから言った。ファリスは「わかった」と短く返した。


「持つよ」トルが水筒をカインに返しながら言った。「移動の間くらいは」


「乗ってから渡すから」リナが言った。


「乗り込んでから言われると困るんだけど」


「大丈夫」


 トルは何か言いかけて、やめた。


 セッテ助教が正門から出てきた。短く刈った黒髪を後ろで束ねた三十代半ばの女で、書類を手に持っている。ざっと人数を見渡して「乗れ」と言った。それだけだった。


 客車の扉が開いた。金属の留め金が外れて、木の扉が内側に引かれる。踏み台が三段、折りたたまれた状態から降りてきた。隣の車両でも同じ音がして、別の班が乗り込んでいくのが見えた。手すりをしっかり持って上がる者と、荷物を先に押し込んで後から続く者がいた。


 乗り込むとき、トルがリナの前に回った。


「貸して」


 リナが少し迷ってから背負い紐を外した。トルが観測板を二枚まとめて受け取り、先に踏み台を上がった。リナが後から乗り込んで、座席に落ち着いてから板を返してもらった。


「ありがとう」


「重いな、やっぱり」トルが言った。


「だから言ったでしょ」


 扉が閉まった。


 直後、低い音がした。


 地面を踏むような、重い音が前方から来た。グルトが動き始めた。馬とは全く違う振動だった。蹄の音ではなく、太く重い塊が地面を押しつけていく感触が、床板を通してゆっくり伝わってくる。連結部が軋んだ。後ろの車両から順番に音が来た。車体全体が、ゆっくりと動き始めた。


「ほんとに動いたね」リナが小声で言った。


 正門の石が視界から消えた。



     ◇



 幌の内側は薄暗かった。


 両側に木の板の座席があり、全員が同じ方向を向いて座る形だ。荷物が足元に置かれていて、揺れるたびに動いた。幌の一部が紐でめくれるようになっている。カインは窓側の端に座った。隣にトル。リナとファリスとコーダとブレンが続いた。


 出発してすぐ、リナが紐をほどいて幌の端を少しめくった。朝の冷気が入ってくる。


「何か見てるの」トルが言った。リナは幌の外に目を向けたままだった。


「王都を出るところが、感触が一番変わるから」


「感触?」


「地面の。観測板で取ってる」リナはそれだけ言って、また外を向いた。


 トルはそれ以上聞かなかった。ファリスが荷物袋から小さな紙を出して確認し始めた。コーダがメモを開いた。ブレンは目を閉じていた。眠っているのか起きているのか、顔を見てもわからなかった。


 石畳の感触が変わったのは、王都を出て半刻ほど経ったころだった。


 最初は揺れ方の変化だった。石畳の細かい継ぎ目を拾っていた振動が、少し大きい周期に変わる。次に音が変わった。車輪が地面を叩く音が少し鈍くなった。土が混じり始めていた。グルトの足音は変わらない。重く、一定のリズムで続いていた。


 足の裏から上がってくるものも変わっていた。均一ではなくなっている。学院の敷地にいるときの、整えられた感触ではない。カインは窓の外を見たまま、その変化を特に追わなかった。追わなくても来るものが来た。


 街道の端に石の杭が等間隔で打たれていた。低く、装飾もない。術式の固定点だとわかった。その杭が続いている間は、足元から来るものが一定の範囲に収まっていた。


 やがて杭が途切れた。


 足の裏の感触がまた少し変わった。整えられていたものが薄くなった、とも違う。別のものが出てきた気がした。うまく言えない。


「道が悪くなったな」トルが言った。「揺れる」


 車体が轍を踏んで、大きく傾いた。荷物袋が足元でずれた。


「この先ずっとこんな感じなのかな」コーダが言った。


「もっと悪くなると思うよ」ファリスが紙から目を上げた。「午後から土道らしいし」


「そうですか……。少し酔うかもしれません。その、先に謝っておきます」


「言っとけ。止まることもできるし」ブレンが目を閉じたまま言った。


「大丈夫だと思います。たぶん」コーダが言った。少し間があってから、「大丈夫だといいんですが」と続けた。


 車体が大きく揺れた。コーダが隣のブレンの肩にぶつかった。「すみません」と言った。ブレンは「問題ない」と目を閉じたまま言った。


 リナは観測板を一枚、膝に乗せていた。幌の端から外を見て、板の一角に羽根ペンで何かを書いている。書いてはまた外を見た。書くたびに少し間があって、そのまま次の言葉を待っているような、止まり方をしていた。


「観測板、今なら持てる」トルが言った。


「もう少し」リナが言った。「もう少しだけ」


 トルは黙って水筒を取り出して一口飲んだ。



     ◇



 最初の宿場町に着いたのは、日がかなり傾いてからだった。


 小さな集落だった。石造りの建物が十数軒、道に沿って並んでいる。霊導灯が何本か立っていたが、王都のものより暗く、光の色が少し黄みがかっていた。集落を少し過ぎたあたりの空き地に輸送車が入った。学院が毎年使っているらしく、テントはすでに先着の職員が張っていた。


 カインは輸送車を降りて地面を踏んだ。


 王都とも街道でも感じたことのないものが来た。均一でなくなった街道の感触がここではさらに変わっている。ラギールに少し近い気がした。ラギールは王都よりずっと小さな街で、霊導設備は少なかった。今ここで足の裏に来るものも、そういう感触をしていた。


 懐かしい、という言葉がどこかから来た。正しいかどうかはわからなかったし、そのまま考えるのをやめた。


「降りるとほっとするな」後ろからトルが言った。「揺れっぱなしは腰にくる」


「地面が動かないだけでありがたいです……」コーダが踏み台を降りながら言った。


「それはそれですごいな」ファリスが言った。


 夕食の準備が始まっていた。職員が焚き火で大きな鍋を温めている。他の班の学生たちがすでに周りに集まって、荷物を下ろしたり話したりしていた。


「何が出るんだろ」トルが焚き火の方を見ながら言った。


「豆の汁らしい」ファリスが言った。「昨年の先輩が言ってた」


「固パンも出るって聞いた」コーダが言った。「食べやすいですよね、固パンって」


 誰も返事をしなかった。


「……食べやすいですよね?」


「どうだろな」ファリスが少し間を置いてから言った。「たぶん」


「ブレンはどうでしたか」ファリスがブレンに向いた。「こういう野営」


「北の訓練でもやった。慣れた」ブレンが言った。


「防衛統括科は野営の訓練があるんだ」


「ある」


「いいな、経験が。私たちは初めてで」


「寝るだけだろ」ブレンが言った。「問題ない」


 夕食は干し肉と固パンと、焚き火で温めた豆の汁だった。椀に注いでもらって、空き地の端に腰を下ろした。


 固パンは、予想より硬かった。


 かじろうとしてリナが少し詰まった。


「……硬い」小声でつぶやいた。固パンを持ったまま、汁の椀を見た。「ちょっと待って。これ、本当に食べ物?」


「浸せ」ブレンが言った。「汁に。少し柔らかくなる」


「最初にそれを言いなさいよ」


「言った」


「今言ったじゃないですか」リナが言った。


「聞く前に試した」


 それはそうだった。リナは汁に浸した。少し柔らかくなった。全員がそうし始めた。


「水に浸せばまだ勝てる、っていうな」トルが椀を持ちながら言った。「北の訓練でそういう言い方するって聞いたことある」


「勝負するもんじゃないんですが」コーダが慎重にパンを浸しながら言った。「でも、確かにこのままだと厳しいですね」


 焚き火から少し離れた草の上にカインは座っていた。炎の音と、遠くの虫の声と、他の班の学生たちの声が混ざって届いてくる。今日来た道のことを思い返した。石杭が途切れたあたりから、足元から来るものの感触が変わり始めていた。宿場町の今この場所では、その変化がさらに進んでいる。


 草の根が地面の下に伸びている。地面の下に、霊脈が通っている。その霊脈と草の根と土が一続きのような感触が、足の裏にある。王都では霊脈は霊脈だけとして届いた。今ここでは、地面にあるものぜんぶが混ざって来るような感じがした。


 椀を持ったトルが隣に来た。


「おかわり取ってきた。お前の分も」


「ありがとう」


「うまいのかどうかわからないな、これ」トルが椀を見ながら言った。「まずくはないけど、うまいかどうか」


「疲れてるから、そういう感じになる」


「そういうもんかな」トルは少し笑った。「まあ食えるからいいか」


 しばらく二人で食べていた。焚き火の向こう側で、他の班の学生たちが話す声がする。笑い声が上がった。学院の食堂にいるときと変わらない声だが、空気が違う。頭上が開いていた。


「空が広いな」トルが言った。


 カインは上を見た。空は広く、星が出始めていた。学院では建物の輪郭が夜空に食い込んでいたが、今夜は遮るものがない。


「不安じゃないのか」トルが言った。「明日のこと」


「何が起きるかわからないから、あまり考えてない」


「……そういう、なんか、そういう言い方するな、お前は」トルが言った。笑っているような、呆れているような声だった。「余計不安になるだろ、こっちが」


 返す言葉が見つからなかった。トルも続けなかった。


 焚き火の方で誰かが薪を足した。乾いた音がした。火が少し高くなって、周りの顔を明るくした。コーダが固パンを慎重に汁に浸しながら、ブレンに何か話しかけている。ブレンは短く答えていた。ファリスがリナの観測板を指さして、何かを聞いていた。リナが答えている声が届いたが、内容は聞こえなかった。


 地面から来るものは、じっとしているほど感じ取りやすくなった。音ではない。圧でもない。ただそこにあるものが、足の裏からゆっくり上がってくる。カインはそれを言葉にしようとして、できなかった。そのままにしておいた。



     ◇



 夜が深くなると気温が下がった。


 テントの中は防ぎようのない冷気があったが、耐えられないほどではない。毛布を一枚かけて横になった。地面の硬さが背中から伝わってきた。学院の寝台とはまったく違う。石でも板でもなく、土と草の感触だった。


 目を閉じると、足元から来るものが少しだけ濃くなった気がした。昼の街道では感じなかったものが、ここにはある。追おうとすると薄くなって、追うのをやめると戻ってくる。カインはそのままにしておいた。


 トルが毛布を引き寄せる音がした。少しして、「なんか変な疲れ方した」と言った。眠い声だった。


「どのへんが」


「わかんない。今日一日乗ってたし疲れるのは疲れるんだけど……出力を使ったっていう感じじゃなくて、別のところが、なんか」


 トルは続けなかった。言いかけたまま、やめた。


 平気だと言う声に、少しだけ力がなかった。聞き返すほどではない。ただ聞き流すほど軽くもなかった。


 カインは何と返せばいいかわからなかった。


 外で虫が鳴いている。焚き火の爆ぜる音が、幕越しに届いていた。


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