第十八話 あの夏の匂い
分厚い参考書とルーズリーフが綺麗に並んだ二人席。
そこに風香が座っていた。横の席に置いた鞄を持ち上げて
「ここ座ってぇ〜!ってか、こっちに来て良かったのぉ?」
「一緒に来ている2人は、カップルなんで逆にこっちに来て良かったよ」
「それなら良かったよぉ〜!じゃあお姉さんが勉強を教えてあげよぉ〜」
会わない間に、風香はずいぶん大人びていた。目が合わせられない。隣に座ると長い髪から優しい香りがふんわりと漂う。それだけで、じんわりと頬が温かくなる。
「じゃあ始めようかぁ…」
ペンを持った風香を横目に、教科書を広げる。問題に行き詰まって逃げてきたんだった。少し聞くか悩んで、一呼吸。風香の方をチラッと見ると、その俺に気づいた風香。ふわっとした声で風香が言う。
「どうしたのぉ〜?そんなに可愛いぃ〜?」
「ちょっと、いやいや、ここの問題がわからなくて…」
「大人の女性にドキドキしちゃってぇ〜!冗談だよぉ〜!なんか一緒に勉強するの懐かしいねぇ〜」
照れながら焦る俺を見て、茶化す風香に小5の夏休みを思い出す。
「2人ともちゃんと宿題やってるのぉ〜?」
和風の畳の部屋で、扇風機の風を感じながら算数のドリルをやる俺たち。お茶を運んでくる風香は、小学生の俺には、中学生の風香は大人に見えた。
「貴ちゃんは、ちゃんとやっているねぇ〜!よしよし!」
「やめてよー!」
頭を撫でられて顔を赤くする俺は、反射的に風香の手を払ってしまう。
「貴ちゃん、照れちゃってぇ〜」
「照れてないから!ドリルに集中するから、邪魔しないで!」
「はいはい〜!頑張ってねぇ〜!」
いつも優しい笑顔で全てを受け入れてくれる。
そんな風香に、母しかいない俺は特別な存在だった。
それと違って、隣でバタバタと腕動かしながら寝っ転がるバサバサ頭のパワフル女子。
「あーー、全然わからない!お腹すいたーー!」
「川澄君!まだそこまでなんだね!」
「貴大うるせぇー!この前のドラマの真似すんな!」
「バレたか!あのシーン、花も覚えてたか!」
川澄花は同い年の女の子。風香の妹で、おっとりした姉と違って思ったことを直球で伝えてきて、トゲのある性格だ。だから花とは喧嘩もよくした。
「ってか褒められて!お姉ちゃんにデレデレしてんじゃねーよ」
「デレデレなんてしてねぇーよ」
「顔赤くなっちゃってーー!だっさ!」
「暑くて顔が赤くなってるだけだろ?うるせぇよ」
図星ばかり突いてくる、本当にうざったい女だった。
「じゃあお昼ごはんにしようかぁ〜」
ソースの香りに包まれながら部屋に入ってくる風香に、赤くなった顔を隠すように机の宿題を鞄に片付ける。
「今日焼きそばだー!お姉ちゃんの焼きそば美味しんだよね」
「ふーちゃん!ありがとう!」
「花ちゃんも貴ちゃんも召し上がれぇ〜!あっ、箸がない〜!取ってくるから待っててねぇ〜!」
箸を取りに行った風香の姿が消えると
「貴大の方が多いじゃん!交換しろ!」
「なんでだよ!無理だから!」
「花もたくさん食べたい!」
「お前、女だろ!」
「関係ないから!」
焼きそばの量でいちゃもんをつけてくる花と近づいてくる風香の足音に俺は
「わかったから!じゃんけん!」
「しょうがないなー!最初はグー!じゃんけん、ぽん…」
焼きそばの香りも消えつつ、3人で焼きそばを食べ終える頃、ニコニコしながら花に話しかける風香。
「花ちゃんどうしたのぉ?嬉しそうな顔してぇ〜!」
「そうかなー?お姉ちゃんの焼きそばが美味しいからかなー?」
花は人差し指を顎に当てて斜め上を見ながら、風香の焼きそばを褒める。急に俺の方に向いて、悪意のあるにやけ顔で
「貴大って、急いでじゃんけんすると絶対にグーを出すよねー!」
「おま、花!せこいぞー!」
俺と花のやり取りを微笑ましく見ている風香は立ち上がりながら
「2人とも仲良いのねぇ〜。じゃあ片付けようかなぁ」
「お皿持って行くよー!花は宿題進めてとけよ」
「カッコつけんな!」
「うるせぇ!」
いちゃもんを言う花を横目に、重ねたお皿を持って風香について行く。
台所へ向かうまでの廊下は、風香のシャンプーの香りがうっすらと漂って、俺の頬も心も緩みかけていた。
「お手伝いありがとぉ〜!貴ちゃん!偉いねぇ〜」
「うん、どういたしまして」
ニコッと笑いながら褒めてくれる風香を見て、また頬が温かくなる俺。
「お手伝いも出来る子だから、貴ちゃんは良い男になりそうだねぇ〜」
「そうかな?でも、ふーちゃんも良いお姉さんになりそうじゃん!」
緩んだ片頬を掻きながら、少し揺れている俺の身体。
「貴ちゃんみたいな弟くんもいたら、もっと楽しかったかもねぇ〜」
拭ききれていない手で風香は俺を抱き寄せる。
柔らかい髪が頬に触れて、甘い匂いが一瞬で広がる。
一瞬で硬直した身体に、強く速くなった鼓動が響き渡る。温かくなっていた顔は、沸騰寸前まで熱くなっている。
「よし!花と宿題やっておいでぇ〜!」
両肩に手を添えられて、くるりと向きを変えられる。同側の手と足が一緒に出ながら花がいる部屋に向かう。
その日の風香の香りと抱き寄せられた感触はなかなか抜けなかった。
思い出に浸っていると、風香の髪が鼻に触れてスーッと意識が今に戻される。あの時よりも少し甘くなった香りで、解けなかった問題が急に簡単に見えた。
「こう考えれば簡単でしょ〜?」
「本当だ!ふーちゃん、教え方上手だね!」
「一応、高校の時は学年トップだからねぇ〜!」
えっへんと誇らしげに胸に拳を当てて、俺を見つめる風香を見て、小学生の頃の心情が蘇る。
過去の風香と現在の風香を重ねながら、変わっていないことに安堵していると、気づけば夕方になっていた。図書館の前で風香との別れを惜しみながら
「ふーちゃんのおかげで、テストは良い点数取れる気がするよー!」
「頑張ってねぇ〜!そうだぁ〜連絡先教えてぇ〜!」
「あっ、そうだね!」
夕陽に照らされて、またあの時みたいに顔が熱くなる。
「貴ちゃん!また勉強でもしようねぇ〜!バイバイ!」
「うん!じゃあまたね!」
振り返って手を振る風香を、見えなくなるまで見続けた。夕陽で目を細めながらため息を吐く。また次に会えるかなと、少し寂しくなった。
寂しい思いを胸に帰れば、お店の改装で母が家にいる。珍しく今日は母と珠凛と3人での食事。
「今日、ふーちゃんにあったよ!」
「ふーちゃんって?」
首を傾げる母に、少し箸が止まる珠凛。
そのまま何も言わず、味噌汁を一口飲んだ。
「花のお姉ちゃんだよ!小学生の時の!」
「風香ちゃんか!懐かしいね〜!中学が別々だったから、会う機会が減ったけど、キミちゃんとはたまに会うわよ」
「そうなの?全く会ってないと思ってた!」
「貴大がサッカー忙しいから、みんなで会うみたいになっても、予定が合わなかったのよ」
俺と母の会話を、不思議そうな顔をしている珠凛。それに気づいた母は
「私の仲良い人の娘さんが、貴大と同級生で意気投合しちゃって、よく遊びに行かしてもらってたのよ」
「そうなんだ〜!あんまりたかぴーの昔は知らないから、新鮮だね〜!」
「貴大のアルバムでも見せなさいよ!」
「嫌だよ!恥ずかしいし!」
3人の夕食はいつもより長く、女子トークにおまけで参加しているようなものだった。
夕食後にスマホをチラッとみると
「お久ーー!お姉ちゃんから教えてもらったー!
花だよー!貴大元気してるかー?」
風香からの連絡は期待してたけど、花からの連絡に、思わず肩が下がった。




