4 紫紺の瞳
「そっちに行った!」
「回り込め!」
「わ、わっ!蹴られた!」
「抜けたぞ、追いかけろ!」
集団はライゾの腹から胸くらいまでの背丈の少年達で構成されていた。彼らは甲高い声を上げながら小さな鳥を追いかけており、騒ぎながら別の路地に駆け込むと、あっという間に姿を消した。
「どうしたんでしょう」
「あれは孤児院のやつらだなぁ。いっつもなんかしら騒いでるよぉ」
ガルグイユがのんびり答える。
と、やや遅れて2人の少年が姿を表した。1人は赤毛で、もう1人の茶髪の少年の肩を励ますように摩っている。
「どうしよ、血がこんなに」
「帰ってすぐ診て貰えば大丈夫だって、だからそんな声出すなよ」
茶髪の少年は俯いたまま、自分の手をぎゅっと押さえていたが、指の隙間からは血が溢れ、ぼたぼたと地面に滴っている。
「どうしたんですか?」
すぐにテュールが駆け寄る。2人は驚いた様子で身を引いたが、優しげな声音に警戒を解くと、おずおずと腕を見せた。ライゾもテュールの肩越しに覗き込む。子供らしい柔らかさが残るふくふくとした左手の甲から肘にかけてが、ぱっくりと切れている。出血は多いが、傷自体はあまり深くないように思えた。
「まずは傷口を洗わないといけませんね、いいですか?」
ガルグイユがごりごりと音を立てて首を伸ばすと、少年はぎゅっと目をつぶった。気丈に引き結ばれた口元は、よく見れば微かに震えている。ライゾはガルグイユの口から流れ出ていた水の勢いを思い出し、心配になった。
しかし竜は口を開けず、鼻の穴から水気たっぷりの息を吐くだけに留めた。重みのある霧が少年の腕を濡らし、泥や塵を優しく洗い流した。
「終わったよぉ」
間延びした声にそっと目を開けた少年は、洗われたせいで一層緋の色が鮮やかに見えるようになった傷口を見て息を飲んだが、黙ったままぺこりと頭を下げた。ガルグイユは満足げに尾を振ると、のったりとその場に横たわった。
「あの、お邪魔しちゃってすみませんでした」
ヴィクトーと名乗った赤毛の少年が申し訳なさそうに詫びた。落ち着いた声音のせいか、つむじ風のように去って行った他の少年達と比べるとやや年嵩に見えた。
「気にしないで下さい。よければ、これ、どうぞ」
テュールが差し出したハンカチの白さに気後れした様子で2人は慌てて手を振ったが、テュールは穏やかに微笑みながらも最終的にはハンカチを傷口に当てる事を了承させた。
「何をしていたんだ?」
「檻が壊れて鶏が逃げちゃって。追いかけてたんです」
「追い詰めたところで逆に飛びかかってきてさ、つい怯んじゃったんだ」
テュールに傷口を押さえてもらう内に、少し気力を回復してきた様子の茶髪の少年も口を開いた。その声にはまだ幼さが残っている。
「蹴爪が伸びっぱなしで。そのうち切らなきゃって思ってたんですけど、あいつ性格が荒くって、誰もやりたがらないでいる内についつい先延ばしにしちゃってて。でも目に刺さらなくてよかったよ、な、バチスト?」
「そりゃそうだけどさ、目じゃなくっても痛いもんは痛いよ。これ、ずっと血が止まらなかったらどうしよう」
バチストと呼ばれた少年は不安げに呟いた。そばかすの散った頬はまだ少し青ざめている。
「止まらないって事はないよ、大丈夫」
穏やかな声が路地から響いた。少年達がほっとした表情を浮かべる。
「あなたは……」
声の主とは知り合いだったらしい。テュールも目を軽く見開いた。
路地から現れたのは、村ですれ違った人々の中でも飛び抜けて面立ちの整った青年であった。色の濃い金髪を無造作に括っており、後れ毛が顔の輪郭を縁取っている。すんなりとした鼻梁に、垂れ気味の瞳は明るい紫。表情によっては酷薄に見えそうな薄い唇は、今は楽しげに口角が上がっており、親しげな笑みを浮かべていた。
「また会ったね、お嬢さん。無事に森から帰って来られたようでなにより」
青年はにこにこと笑いながら近付いてくると、屈み込み、そっとバチストの腕を取った。骨張ってはいるが、女のように華奢で細い指をしている。
「うん、土も綺麗に洗い流してあるね、ありがとう」
青年はガルグイユに礼を言うと、静かに立ち上がり、再度テュールに目を向けた。背丈はライゾとあまり変わらないが、胸板や腕の厚みは倍ほども違う。
「ウルタの村の人々は薬草の扱いに長けていると聞いているけど、ではお嬢さん、この傷、君ならどうする?」
「ええと、そうですね、すっぱり切れているので、ヤローを使います。花と葉を煮出した薬湯で拭ってから、葉の軟膏を塗ります。傷が塞がるまで、包帯を変える度に塗り直します」
「うんうん、いいね。ヴィクトー、聞いてた?薬棚には乾燥した花と葉が入った瓶があるし、軟膏は引き出しに入ってるから。その通りにしてあげて。間違えないようにラベルをちゃんと読んでね。包帯を巻くのが難しかったら、おばさんに手伝ってもらって。みんなももう帰ってきてる頃だと思うよ」
ヴィクトーは頷き、座り込んでいたバチストを促して歩き出した。少年達の背中を見送ると、青年はこちらに向き直った。
「さてさて、改めて。いやぁ、君にはいつもお世話になってるなぁ」
「いいよぉ、あんたも心配が絶えねぇなぁ」
ガルグイユと顔を見合わせて笑った青年はテュールに目をやった。
「君も、あの子達の面倒を見てくれてありがとうね。急に聞かれても慌てずに処方を言えたし、流石流石」
「いえ、あのくらいなら誰でも……それに、居合わせただけで、お礼を言われるような事はなにも」
「いやぁ、うちの子達、ハンカチなんてきっと誰も持ち歩いてないだろうから。あれ、君が貸してくれたんでしょ?ごめんね、汚しちゃって。後で返しに行くよ。どこに届ければいいかな?」
「ええと、ジャンさんのところに宿を取るつもりです」
「宿?泊まるの?」
「はい、とりあえず今夜は」
ふぅん、と頷いた青年は、次にライゾに目をやった。
「見たところ、こっちの彼は村で噂の狼男ってことかな。どうして森から出てくる事にしたの?この子の事、好きになっちゃったのかな?」
「噂かどうかは知らんし、俺は狼でも狼男でもない、残念だがな。こいつと番になるつもりもない」
ライゾが眉を顰めると、青年はごめんごめんと軽い調子で詫び、笑みを消すとライゾの顔を覗き込んだ。しぶしぶ目を合わせた瞬間、うなじにぞわりと鳥肌が立った。
透き通るような薄い紫の瞳の奥には紫紺の深さが隠されていた。その眼差しが、青年の若々しい外見とは釣り合わない老獪さを秘めているように感じたのだ。反射的にライゾが身を引きかけるのと同時に、青年は何事もなかったかのように先程までと同じ、穏やかな微笑みを浮かべた。
「確かに。普通の人じゃないね。魔力の匂いはなんとなくするけどライカンでもないし、そこらの精霊でもないみたいだね」
「……」
「魔力に匂いがあるのですか?」
「なんとなくね。おっと、いけない!傷を洗う薬湯、しっかり冷ますように言うの忘れちゃった、うーん、熱い湯を直接掛けちゃいそうだなぁ。じゃ、後でね」
ライゾに代わってテュールが会話を引き継いだが、青年は慌ただしく挨拶を口にすると駆け出してしまった。すぐにその背は小さくなったが、陽光に照らされた金髪は遠く離れても眩く煌めいているのが見えた。
「……知り合いだったのか?」
「え?いえ、そこまでの仲では。ジャンさんからあなたの話を聞いている時にふらっとお店に入って来られて。森に入るっていうのが聞こえたのか、食べ物を新鮮なまま保存できる包み紙を下さったんです。簡単な魔法の品だけど便利だよって。あなたが食べたベーコンはそれで包んであったんですよ」
「ふむ」
「親切そうな方ですよね」
「……」
「うん、いい奴だよぉ。親がいない子供をまとめて面倒見てるんだぁ」
黙っていると、ガルグイユが代わりに答えた。
「まぁ。お若そうに見えるのに。きっと、私やあなたと同じくらいですよね?」
「……うむ」
歯切れの悪さを感じ取ったのか、テュールは不思議そうに顔を見上げてきたが、ライゾは黙っていた。
宿を取ると聞いた時、一瞬だが青年の瞳に怪しげな光が灯ったような気がしたのだ。それはエレウーマン達や森のニンフ達が迷い込んだ若者を誑かす時に瞳に浮かべる光とよく似ていたように思えてならなかった。




