25 巣立ち
川から上がり、髪をぎゅうぎゅうと絞った。頭と手足を軽く振って水滴を落とし、麻のタオルを手に取る。あまり水を吸わないそれを何度か絞りつつ体の水気を拭き取り、きれいに洗ってある服を着た。タオルも服も、ベン・ニーアが岩の上にきちんと畳んで用意しておいてくれたものだ。
この川辺に現れてしばらく経った頃から、彼女は彼の衣類を管理してくれるようになった。清潔に保ち、ほつれや破けがあるとどこからともなく針と糸を取り出して繕ってくれる。ベン・ニーアが洗う衣服の持ち主は死期が近いと言われているが、彼はその法則から除外されているようであった。彼が人ならざる者であるせいなのか、それともベン・ニーアの意思によるものなのかはわからない。
水浴びが終わったのを見て取り、タオルを受け取ろうと彼女は静かに近付いてきたが、首を振って断る。先程まで着ていた服、干してあった服と纏めて雑に纏め、紐で括る。洗濯は不要。つまり。彼の意を察したベン・ニーアは、寂しげな顔をした。
「いつとはわからんが、必ず戻る」
彼女はひんやりとした手を伸ばし、頬を撫でてきた。水と、ほんのり苔の匂いがする。その肌に体温はないが、冷たさの奥にはひそやかなぬくもりが秘められているように感じた。
「母を困らせるようなことはするなよ」
周りに集まっていたウィル・オ・ザ・ウィスプ達にそう言ったが、彼らはよくわかっていない様子で無邪気にちかちかと光り、彼を遊びに誘った。一度だけだぞと言い置き、隠れんぼに付き合ってやる。それぞれが毎回同じ隠れ場所に身を潜めるので、十数個の炎全てを見付け出すまでにさほど時間はかからない。満足した彼らは嬉しそうにくるくると回り、またふわふわと漂い始めた。
テュールは座ったままの姿勢でうつらうつらしていた。音を立てないように気を払いながら鍋や食器をリュックに入れる。ベン・ニーアが火に当てていたそれらはしっかりと乾いていた。
火の始末をしてから自分の衣類と一緒にリュックを肩にかけ、テュールを起こさないようにそっと抱き上げる。緑色の瞳が一瞬薄く開いたが、すぐに四肢からはくたりと力が抜け、小さな口からは寝息が聞こえ始めた。
肩越しに振り向くと、月光の下でこちらを向いて静かに佇んでいるベン・ニーアと、そのスカートに纏わり付いているウィル・オ・ザ・ウィスプ達が見えた。心の中で儚い魂達の安寧を祈り、前を向いて歩き出した。
巣では相変わらず仔狼達のはしゃぎ声とウリンの明るい笑い声が響いていた。両親が持ち帰ったであろう肉を綺麗に食べ終えた仔狼達の腹は丸く膨れていた。
「おかえりー。あれ、寝てんのか。そういえば、村の人間ってやつは夜に寝てるんだっけな。朝までここで寝かしといてやるか」
「いや、大した重さではないからこのまま向かおうと思う」
「うん?お前がいいならそれでもいーけどさぁ、ずっと抱っこしてんのも疲れるんじゃないか?」
彼は頷いたが、ウリンの言葉を聞いた一際大きな灰色の狼がのっそりと立ち上がった。太い尾を振りながら身を擦り寄せてくる。テュールを背に乗せてくれるらしい。
「いや、ギルゥ、お前の歩き方ではこいつが起きてしまうだろう」
性格に幼さが残るギルゥは遊ぶように跳ねて歩くのが好きだし、草叢を跳ね回る虫に反射的に飛びついてしまう。申し出を断れば、ヒィヒィと鼻を鳴らしながらより強い力でもたれ掛かってきた。
「そこまで言ってるんだから任せてやれよ。なんか懐いてるみたいでさ、さっきも随分甘ったれてたんだぜ」
ウリンがくすくす笑いながらギルゥに加勢する。落とすなよ、と念押ししてからテュールをその広い背に乗せてやり、万一に備えて革紐で緩く括り付けた。ギルゥは誇らしげに頭を高く上げ、ぶんぶんと音を立てて尾を振った。
「……こいつの旅に、俺も付いて行こうかと思う。断られなければだが」
彼の言葉に驚くでもなく、ウリンは笑った。
「へぇぇ。でも、なんかそうなる気がしたんだよなぁ。護衛として付いてくのか?そいつ、弱っちそうだし心配だよ
な」
「うむ。それもあるが……人間達の食事にも興味が出た」
「なんだよ、それ?そんなに美味いもん食べたのか?」
彼が頷くと、狼達も興味深げに目を輝かせ、耳を立てた。しかしルァが大きく鼻を鳴らして否定すると、すぐにつまらなそうな顔で溜息を吐いた。彼にとっては素晴らしい食事であったが、嗅覚の鋭いルァにとってはその香りはただただ強すぎたのだ。
「ま、気をつけて行ってこいよ。ほいで、帰ってくる前にできれば番を見つけてこいよな」
ウリンの言葉に両親が期待の眼差しを向けてきた。
「世界のどこかに俺と同じ種族がいれば、番も見つかるだろう」
「くふふ、お前に子供ができたら、俺も嬉しいなぁ。すっげー可愛がってやるんだ。な、もしそうなったら、お前達は兄ちゃんになるんだぜ」
それを聞いた仔狼達は興奮して吠え始め、巣は一気に騒がしくなったが、熟睡しているテュールはギルゥの鬣に顔を埋めたまま、静かにその背を上下させている。
両親と兄弟達に出立の挨拶をした。太い首に腕を回して抱きつけば、べろりと頬を舐めてくる。
「では、行ってくる」
「あいよ。森の加護がいつもお前達の側にありますよーに。剣の手入れ、ちゃんとしろよ」
ぱたぱたと手を振るウリンに彼も手を挙げて応え、狼達に背を向けると、すっとルァが立ち上がった。ギルゥの目付けとして同行するつもりらしい。肩を叩いて感謝の意を示し、森を出る前にアッシュの所に寄ると伝える。
心配性の姉に反対されたらなんと言って説得しようかと思案しながら、物音を立ててテュールを起こさぬよう、静かに足を進めた。
アッシュの樹は月明かりに照らされていた。テュールはまだギロゥの背で熟睡しており、狼達は少し離れた所で体を休めている。ここに来たのは彼だけである。
「姉様」
かさりと葉擦れの音がした方を見上げると、アッシュが姿を現していた。枝に座り、静かに彼を見下ろしている。
「森を出て、世界を見てこようと思う」
アッシュは表情を動かさないまま、小さく頷いた。
「ぬしが自らの意思でここを去ろうと決めたなら、引き止めるべきではないな。あの娘を見た時、そうなるのでは、という予感はあった……。もし、その日が来たら、ぬしに伝えようと思っていたことがある。心して聞くが良い」
彼が頷くと、アッシュはそっと話し始めた。
「昨日、世界樹の話をしたのを覚えているな?この世界の礎となった木の事だ。儂は……儂の木は、この世界が創られてしばらくした頃に、世界樹から折り取られた一枝だ」
「姉様は世界樹である、という事になるのか?」
「その一部であった、という方が正しいな。今はもう完全に別の木だ。儂の根はこの森に深く根付いた」
「何の為に、そのような」
「……ぬしを、匿う為に」
「……俺を?」
「うむ。本来なら、ぬしは……誕生と同時に死すべき運命であったそうじゃ」
隠されていた事実に、ぞわりと全身の産毛が逆立った。
「運命とは、なんだ。俺は……何者なのだ。産まれるべきではない者であったのか……?」
なんとか絞り出した言葉は、少し震えていた。
「わからぬ。記憶封じのまじないをかけられておるようでな……。これは推測だが、ぬしが産まれる事、その定められた死を予知し、それを憂いた者がおったのだろうな。儂を世界樹から手折り、この森に根を張らせ、幼いぬしを預けた」
そこまで話したアッシュは、そよ風にすら掻き消されそうな、密やかな声で言った。
「ぬしを連れて来た者についてはどうしても思い出せぬが、察するに長命の種族か、精霊か妖精だろうな。記憶は朧だが、ただ一つだけ、覚えていることがある。……ぬしの中に、少しでも凶暴さの片鱗が見えたら、即座に息を止めるように、と言い置かれたのだ」
「……」
言葉が出なかった。
「狼達はよく世話をしてくれたと思う。彼らのおかげで、ぬしは正しい心を備えて育った。優しく、しかし守るべき者がいるときは勇猛に」
「……」
「この森にいれば、ぬしは安全なのだろう。ぬしを連れて来た者も、それを望んでおるようであった。……しかし、自らの運命は自らの手で切り開くことが、生ける者として正しい生き方、正しい摂理なのだと、儂は思う」
「そう、だな……」
様々な感情が体の中で激しく波立っており、混乱していたが、一つだけ確かな思いを掴み、彼はゆっくりと膝をついた。
「姉様、俺を……忌み子とされていたであろう事を知りながら、育ててくれて、ありがとう……。狼達に沢山の事を教わったが、この日まで俺が生きてこられたのは、姉様の導きと教えのおかげだ。俺なぞの為に、姉様は何百年も前から、ここで待っていてくれたのだな」
瞼を閉じ、心からの感謝を伝えると、足音もなく近付いてきたアッシュがそっと腕を回してきた。少し固く、滑らかな木肌の温もりは、物心がつく前から彼の側にあったものだった。
「ぬしの成長を見守り、共に過ごす時間は、儂にとってなによりの喜びであった。ぬしの旅路の果てに、幸があらん事を祈っておる」
その細い体と、腰まで流れる瑞々しい葉を傷付けないように気を払いつつ、彼もアッシュを抱き返した。
「姉様の元に、暖かな日差しと優しい雨が降り注ぐよう祈っている」
静かに体を離し、アッシュは彼の髪を撫でた。細い指が髪を梳く心地よさに目を細めてから、彼は立ち上がった。
「行ってくる。自分の運命を見つけたら、必ず戻ってくる」
自らの言葉を噛みしめるように宣言し、彼は背を向けた。
彼は知らない。その姿が見えなくなった後も、アッシュがその背が消えた方向を眺めたまま、随分と長い間、微動だにせず佇んでいた事を。その頬に一筋の涙が流れていた事を。




