第二十二節 元JK勇者の弟子育成スローライフ、ではない
しばらくその崖際を走って、再び山の中へ入る。小一時間ほどすると、ようやく山の切れ目を出た。背の高い草を飛び越えた先に青い麦畑が広がっている。
麦が風に流れる音は少しだけ海の音に似ていた。
フロリナ山の切れ目の先が国境で、ヒース大公国はそこに国境門や城壁は築いていない。定期的に両国の警備が見回りに来るだけで、平野にヒース側の農地が広がるばかりの平和な土地だった。
基本的に善良なイリシア教徒の人間が多いこの地で、不正な出入国を考えるものはいない。そもそも、そんなことをしなくてもイリシア教徒であれば制限なくヒースとの国境を行き来できた。
平和なのをいいことに、ミツキたちは麦畑の合間を駆ける。そうして畑の中にぽつんと立った粗末な道具小屋の前で足を止めた。
休憩かと思ったが、こんな国境の間近でするはずがない。ミツキがタマから降りるのを横目で見ながら、マオは自分の猫の額を撫でつつ少量の魔力を食べさせた。
ミツキが小屋の戸板を何度か叩く。ややあって、内側から戸が開いた。
「お待たせ、クラウディオ」
声をかけると、中から灰色の外套を目深に被った人間が出てくる。
クラウディオ。確か、ハンスの露草亭に住んでいる獣人の老人だ。外套の下に白い狐の耳とふさふさとした尻尾が隠れている。
マオはクラウディオと何度か言葉を交わしたことはあるが、物腰柔らかで、いつも朗らかに笑っている老人であることしか知らない。ときどきレーナを口説くようなことを言うので気にくわなかったくらいだ。
「こんな素敵な夜は、きみを散歩にお誘いしたいんだけどね」
「残念。また今度誘ってよ」
慣れたように言って、ミツキと老人が軽く抱き合う。
「またお別れは寂しいよ。いっそ行かなくてもいいんじゃない?」
「……クラウディオ」
「冗談だよ」
苦く笑いながら諌めたミツキの声は柔らかかった。名残惜しそうに離れて、クラウディオはそっと目を伏せる。
「きみに幸運を」
呪文のように紡がれた言葉に合わせて、彼の指がミツキの額をなぞる。本当に何か魔法をかけているような風情で、けれどマオには魔法かどうか判別がつかない。
「ありがとう。それと、頼んでいたものはある?」
「それは彼女から渡してもらおうか」
クラウディオが半身を逸らすと、小屋の奥から別の陰が表れた。同じような灰色の外套を着ているが、こちらは小柄で、女のようだ。
「マオ」
聞き覚えのある女の声。反射的に背筋が伸びた。
「レーナ?」
つい一時間ほど前に夢に見た少女。
慌てて猫から降りて傍へ寄ると、フードの下に見えた緑の瞳に間違いなく彼女だとわかった。
「なんでここに……」
こんな夜中に国境を越えたところに。もしかしたらマオと同じように密入国したのかと焦って、けれどレーナはゆるゆるとかぶりを振った。
「今はそんなことどうでもいいでしょ」
焦るマオよりずいぶんと余裕のある口ぶり。いつもどおりのレーナだ。どんなときでも堂々と胸を張る姿勢が、凶悪面の父親を思い出させる。
「ミツキさん、ちょっとだけマオをお借りしてもいいですか?」
「いいよ。でも、あんまり遠くに行かないでね」
「大丈夫です。小屋の裏で話しますから」
それならとミツキが頷くと、レーナはすぐにマオの手を取った。
急に触れた手に、マオの顔にカッと血が昇るが、彼女の持つランタンの明かりでは気付いてくれなかったらしい。どもりながら制止するも、なす術もなく小屋裏まで引っ張られた。そのあとを、マオの猫がついてくる。
小屋の裏と言っても、ミツキたちの話し声が聞こえる程度には近い。こちらが話すことも向こうに聞こえているだろう。しっかりとミツキの気配を感じながら、マオはレーナと向き合った。
「マオ、しばらく帰ってこないんだって?」
「誰から聞いたんだよ」
「お父さんよ。当たり前でしょ、あんたの雇用主なんだから」
そういえばそうだったと頭を捻ると追撃のように、
「聖騎士に捕まったのも知ってるんだからね」と付け加えられて目を逸らすしかなかった。
「さよならも言えないって聞いて、わたし慌ててクラウディオおじいちゃんに頼んで来たんだから。あのクラウディオおじいちゃんがめちゃくちゃ渋られたのよ」
クラウディオは基本的にレーナに甘い。血縁関係になくても、同じ屋根の下に住む身としてレーナを孫のようにかわいがっていた。
それが渋るのだから相当だったのだろう。レーナは一度だけ奥歯を噛みしめてから続けた。
「友だちなんだから、それくらい言わせなさいよ」
「……と、ともだち」
「あ。あと、もうひとりの。新しいお弟子さんでしょ? 紹介してって言ったのに、結局連れて来てくれなかったよね」
レーナが何か言っているが、ひとつ手前の言葉がガツンとマオの頭に雷を落としてそれどころではない。
そうか、友だちか。
友だちと言える友だちもいなかったから、そう認定してもらえるのはうれしいはずなのに、なぜか頭がくらくらする。
――なんだこれ、俺はどうかしたのか。
「それから、これ。お父さんから預かってきたの」
マオの頭も回復しないうちにレーナは肩にかけていた小さな鞄を漁って、マオの手に何かを握らせた。
ひんやりとしたものが手の中に納まる。指を開くと、それは指輪だった。
ランタンの薄明りに照らされた指輪は、銀色の輪に赤い石がついている。
「これ、ミツキと同じ」
「うん。赤瑪瑙だって。赤猫を宿せる唯一の石らしいよ」
言って、レーナはマオの猫に目を向けた。
「きみがマオの精霊?」
レーナが問いかけると、猫は甘えたような声を上げて喉を鳴らした。そうして猫はレーナにすり寄って、頭を彼女の手にこすりつける。
――なんだってお前は俺よりまわりの奴に懐くんだ。
猫は甘噛みこそすれ、そんな風にマオにすり寄ったことはない。
「ねぇ、この子、名前は何ていうの?」
「決めてない」
不貞腐れ気味に言うと、「そうなの」とレーナは不思議そうに首を傾げる。
「名前つけてあげなよ。マオが親代わりなんだから」
「猫は猫だろ」
「そんなこと言わないで、ちゃんと考えてよ」
「んなこと言ったって、メンドく――」
面白くないことが重なって、吐き捨てるように言葉が出た。
それにハッとしてマオはかぶりを振る。レーナにそんな口をききたくない。なんとか取り繕うように慌てて子猫の名前になりそうな言葉を探した。
「ホロ」
咄嗟に浮かんだ言葉をそのまま口にする。
ホロ。何の脈絡もなく出た言葉で呼んだ途端、レーナに夢中で撫でられていた猫が唐突にマオを見上げた。
「ホロちゃんね。……ホロちゃん、マオをよろしくね」
さっそくレーナが呼ぶと猫は再び甘い声で返事をした。
どうやら猫のほうもこの名前でいいらしい。
ミツキと同じ右手の中指に指輪をはめると、まるで誂えたようにぴったりと収まった。
「ねぇ、マオ」
猫を撫でながら、振り返らずにレーナが言葉を紡ぐ。その声は静かな夜に染み入るように消えていった。
「帰ってくるよね」
行き先は告げられず、目的も知らない。だけど、それが全部終わったらまた聖都に帰ってくるんだろうか。
――わからない。
ミツキが何を考えているかわからない。
“いつか”は未だに見えなくて、それで帰ってくると断言してもいいんだろうか。
「……もし、俺が帰って来なかったら」
もし、マオが帰って来なかったら。
レーナは寂しいとでも言ってくれるだろうか。
「馬鹿言わないで」
ぴしゃりと否定する声が妙に鋭く刺さる。
思わず奥歯を噛んで、マオは何も言えなかった。
「何年後になるか知らないけど、ちゃんとわたしに元気な顔見せに来なさいよ」
「お、おう、わかった」
怒気を孕んだような声に押されて頷けば、言質をとったとばかりにレーナが振り返る。
「約束したからね」
ふっと鼻先に花のようなにおいが香った。一瞬だけ、濃い茶色の髪がマオの頬を掠めて、あたたかなものがマオを包む。
え、と口の中で呟くうちにその温もりは離れた。
「ほら、行こう。あんまりミツキさんたち待たせちゃ
悪いから」
いったい、何が起こったのか。
訊こうにもレーナは先に小屋の角を曲がって、マオの視界からいなくなっていた。
「ナァォ」
心なしか呆れたような声でホロが鳴いて、ようやくマオの頭が動く。鼻が勝手に覚えたにおいに、思い出したように顔が赤くなる。
――いや、待て。待ってくれよ。
ミツキだって、クラウディオとしてたじゃないか。
軽く抱き合って、言葉を交わして。親愛に使われる、挨拶のようなものだ。聖都でもよく見かけた。
よく見かける、ありふれたもの。
なのに、相手がレーナだというだけで、こんなに胸がかき乱されるなんて。
――やっぱり、俺は頭がおかしくなってる。
深夜に叩き起こされたから寝不足だし、起き掛けに魔力を消費した。疲れているのかもしれない。
「マオ、どうしたの?」
「おおぅあぁ!?」
突然かけられたミツキの声で我に返って思わず叫ぶ。すぐに「うるさい叫ぶな」と叱責が飛んで口を塞がれた。
「なにやって――、あ、ううん、なんでもない」
マオの顔を覗いた途端、ミツキは言葉を引っ込めた。
――なんだよ、言えよ。くそが。
八つ当たり気味に言おうとして、けれど言葉にできない。
「行くよ」
気を使っているつもりか、すぐにミツキは踵を返した。その後ろ姿に若干の違和感を覚えたが、頭の中はそれどころではなくて。その違和感に気付けて口にしたのは少し先の話だ。
小屋の前に戻るとライナスがタマに乗り直している。ベティとコンラッドは、旅には同行しないのだそうだ。
「みなさん、お気を付けて。イリシア様の御加護がありますように」
「ありがとう、ベティ。行ってくるね」
ベティが祈るように言い、それが別れの言葉になった。
走り出したホロの上で振り返ったマオの目に、暗がりの中でいつまでも手を振るレーナの姿が焼き付く。




