第二十一節 真夜中の海
気持ちの良い眠りの淵で、マオはやわらかな夢を見た。レーナがいて、マオの誕生日を祝ってくれている。
彼女の顔を見るのがひどく懐かしいような気がして、そういえば、聖都を出てから会ってなかったな、とぼんやりと思う。
夢だと気付いたのは、地に足がついている感覚がないのと、現実よりも三割増しで優しくほほ笑むレーナの顔だ。現実でも笑うことには笑うが、十代後半の少女らしい年相応の笑い方で、こんな成熟したような穏やかな笑みは見たことがない。
なんて心地良い夢だ。夢の中だと自覚してなお照れが前に出て、きれいだとか、かわいいだとか褒めてやれない自分が憎い。
夢とは言え、せっかくレーナに会えたのに。目覚める前に、せめて何か言えないか。
「レーナ」
呼びかけると、彼女は「なぁに」と甘やかな声で応えた。それだけで用意していた言葉が喉に詰まる。
――言え。勇気を出して、かわいいとか言えよ。夢の中だろ。
必死に自分を鼓舞しながら、マオは口を開き、そして。
「そ、その笑い方、すごく……」
かわいい。その言葉が喉元をやっと通り過ぎようとしたところで、突然レーナの目がくわっと開いた。
「起きろこの石頭!」
――え?
一大決心して紡ごうとした言葉が遮られ、続けざまに頬に重い衝撃が走る。夢の中なのに痛い。その痛みにぽかんとして、次いで振り抜かれたらしいレーナの平手が目に入った。
全力でぶたれたらしく、夢の中なのにひりひりと痛みが残っている。
「なんでだよ!?」
叫び声を上げた瞬間、目の前の景色がすげ変わった。ふわふわとした足元は寝台の上。目の前でほほ笑んでいたはずのレーナは、ミツキになった。
ミツキは額に青筋を浮かべながら、睨むようにマオを見下ろしている。
「あんたが起きないからでしょうが」
直前の叫び声は、どうやら現実で上げていたらしい。
夜はまだ明けていないのか、部屋の中は暗い。光量を最低限まで落とした光る球体が入ったランタンがミツキの手元で揺れていた。
「まだ夜じゃねぇか。なんで起こすんだよ」
叩き起こされた理不尽さに、起き掛けにも拘らず血圧が上がる。
「出るからよ」
「出るって」
「イリシアを出るの」
「は?」
ますます意味がわからない。出てどうするんだ。金がないから、ここを出れば住む場所もない。
イリシア聖教会は無一文の人間も受け入れてくれるが、今はその聖教会からこの山に閉じ込められている状態なのに。
「出てどうすんだよ。行くアテでもあるのか」
「行かなきゃいけないところがある」
「どこだ」
「東。今はそれ以上は言えない。早く支度して」
言いながら、ミツキはリュックをマオに寄こした。目いっぱい入れれば一週間分の着替えを詰め込めるくらいの大きさだが。
「着替えは多くて四日分。あとは本当に大切なものだけ入れなさい。足が鈍るから満杯にしないこと」
早口にそれだけまくし立てると、ミツキはランタンを置いてすぐに踵を返して部屋を出て行った。
――なんだよ、それ。
聖都の家を出て、ようやくここにも慣れてきたというのに、行先も告げられず夜逃げ同然に出立なんて。
何も知らされないことに苛立って、けれど、ミツキに逆らえなかった。置いて行かれれば、この山でマオひとりでどうすればいいか見当もつかない。
渋々寝台から出て、部屋の隅に積んでいた服をリュックに詰めた。その間に起き出した子猫がマオの頭によじ登ってきたが、気にも留めず作業を続ける。
「おまえ、ここを出るの、イヤか?」
ぼそりと子猫に問いかける。
猫は人でなく家になつくと聞いた。生後一ヶ月にギリギリ満たないこの子猫は、ほとんどこの山小屋とその周りしか知らない。
主人はマオで、マオがいなければ食料となる魔力を食べられない子猫。慣れ始めた土地を離れてやっていけるのかと半分心配しながら問いかけたが、子猫からは「にぁ」と聞いているのかいないのかわからない返事が返ってくるばかりだった。
結局、人と縁を結んだ精霊は主と離れては生きられない。マオが行くのなら、子猫も行く。
――主がいないと生きられなくて、一生縛られ続ける。……なんだか、それって。
「俺と一緒だな」
ミツキに縛られ、従わないと生きていけない。
これがいつまで続くのかもわからなくて、そして、ミツキが便利なマオを果たして手放すのだろうか。
「マオさん、終わりましたか」
ライナスの声と同時に戸を叩かれる。それでハッとしてリュックの口を閉めた。
「今行く」
言われた通り着替えは四日分。その他に詰め込むものもない。
ランタンを引っ掴んで外に出ると、すでに荷造りを終えたライナスが外へ続く扉の前で待っていた。
家の中は暗く、ライナスとマオのランタン以外に明かりはない。暗い影が横たわる部屋はまるで知らない場所のように見えて、他人行儀にマオを拒絶している。
ここはお前の居場所ではないと言われているようで、マオは砂を噛んだような心持ちで外へ出た。
ほんのり冷たい気温に、頭上に満天の星空。大きい月の隣に、たまにしか見られない小さな月が寄り添っている。夜目は悪くないほうだが、家の中よりも外のほうが明るく感じられた。
その月明かりに照らされたミツキとベティが天を見上げている。結局、あのあとベティは家に帰らなかったらしい。きっとコンラッドもその辺りにいるんだろう。
ひょっとして、このふたりも一緒に来るんだろうか。
だとしたら、娘のシェリルはどうするんだろう。まだシェリルは二歳になったばかりだ。そんな子どもを連れてこんな夜逃げまがいにしなくてもいいのに。
首を傾げながらミツキたちに近寄ると、その気配に気づいたふたりが振り返った。
「思ってたより早いじゃん」
「急かしたのはそっちだろ」
急いだ分、リュックの中は適当に丸めて放り込んだ服でぐちゃぐちゃだ。絶対、皺になっている。
「もう帰ってくると思いますよ」
誰が、と言いかけたところで、草むらから何かが飛び出した。
人でなく、四つん這いで飛び出してきた獣。人間ふたりくらいなら余裕で背中に乗せてしまえそうな巨躯に、四肢の周りの筋肉が盛り上がっている。
犬のような顔つきのくせに、嫌に精悍で鋭い眼差しがじろりとマオたちを見回した。
――狼だ。
小刻みに呼吸する口から見えた牙で、それがただの犬ではないとわかる。
月明かりに浮かぶ狼の毛並みは紺青。
「おかえりなさい」
巨大な狼に身構えたマオとライナスに対して、ベティの声は柔らかかった。
「おい、ミツキ! 食われるぞ!」
無防備に近寄るベティが今にも襲われそうで、マオは慌てて声を上げる。けれど、振り返ったミツキはぽかんと目を丸めてまるで緊張感の欠片もなかった。
「あれ? あんた、前に見たことなかったっけ」
「ねぇよ!」
そんな危ない獣と会ったら忘れられないし、そもそも無事に逃げられるかも疑問だ。
そう突っ込むがいまいちピンとこないらしい。そうだっけ、と未だに首を傾げるミツキにイライラしながら同意を求めてライナスを見ると、こちらも思案するように目を泳がせてから口を開いた。
「もしかして、コンラッドさんですか」
「――は?」
コンラッドは人間、――獣人だ。いくら犬耳と尻尾が生えていても、こんな獣になったのは見たことがない。
「教えたでしょ。獣人の中でも一部のヒトはこうして完全な獣の姿になることがあるって」
ミツキはそう言うが、そんなことを教えてもらった覚えはなかった。かぶりを振って否定するけれど、「言ったよ」とミツキも譲らない。
「今はそれどころじゃねぇだろ」
言った言わないの水掛け論になる手前でコンラッドの声が止めた。声の許を目で追うと、それは間違いなくあの大狼からだ。
本当にコンラッドらしい。言われてみれば、紺青の毛並みも、人の姿のときの彼の頭髪や尻尾の色と同じだ。もともと大きかった体躯も含めて、面影と言える面影が確かにある。
「国境はどうでしたか」
「計画通りだ。問題ねぇよ」
苦笑交じりのベティが言って、それを皮切りに大人たちが何やら確認を始めた。
どうやら、本当に夜逃げになるらしい。漏れ聞こえてくる話から、国境警備の目を掻い潜って秘密裏に出国させられるみたいだ。
――イリシアを出る。
寝起きに言われた言葉が、にわかに現実味を帯びた。
イリシア共和国に住みついて三年。頭にある限りの記憶は、すべてこの国の中で経験したものだ。ほとんど故郷とも言っていいこの国を出るのは、なんだか胸に穴が開いたみたいに落ち着かない。
「なあ、ライナス」
「なんですか?」
「旅って、どんなだ」
故郷を離れる不安からか、ついそんな言葉が口を突いて出た。
「そうですね……、つらいし、大変です。長く歩くから足も痛いし、運よく乗合馬車に乗れたとしても、治安の悪い国だと追剥に気を付けないといけません。ちゃんとした宿にありつけるまでゆっくり眠れないですし」
マオが想像できる範囲を考えてくれているのだろうか、ライナスは言葉を選びながらゆっくりと語った。
「お金がなくなりそうになったら聖教会へ行って働き口を紹介してもらったり、とにかく働いては次の町へって感じでしたね」
「そんなにつらいなら、なんでお前はミツキんとこに来たんだよ」
ミツキの弟子になることに、そんなに意味があるのか。
危険を犯してまでつらい旅をする意味なんて。それで手に入れた弟子の肩書きだって、大したものじゃない。毎日こき使われて、手に豆を作りながら修行して。
結局、旅も修行もつらいじゃないか。
「どうしたってもう一度お会いしたかったんです」
「ミツキにか?」
「はい」
四年前に命を救われて、平和になった後にもう一度会いたい一心で旅に出た。そうして、旅をしていくうちに欲が出て、弟子になりたくなった。
そう言いながらライナスの目はミツキを追っている。
憧れや尊敬というのは、マオにはよくわからない。ミツキは憧れるには現実の彼女をよく見てしまったあとだし、ライナスみたいに誰かに命を助けられたこともない。
「それに、つらいことばかりでもないんですよ」
つらいとき、助けてくれる人がいた。勤め先で旅の話をせがまれて、話し込むうちに打ち解けた人々。口にしたことのない料理。初めて見た朝焼けの海は想像以上に果てがなくて、陽が沈むまで一日中ぽかんと見ていた。
どれも目新しくて、忘れたくない思い出がたくさんできて。つらいことなんて、どうでもよくなる。
「イリシア共和国は素晴らしい国です。だけど、よその国や文化が劣るなんてことはないんですよ」
それぞれに良いところと悪いところがある。全部ひっくるめて、ひとつの国だ。それを経験することが、旅の醍醐味である。
「……へぇ」
ライナスが語ってくれたことに、マオの心の内が揺れた。
不安はまだある。それに、旅に出ればレーナに会えない。こんな状況だから手紙も出せるかもわからなかった。
けれどその反面、ライナスの言った“海”というものに興味はあったし、新しい食べ物も、知らない人にも。
行ってもいい、と天秤が傾いてしまうほどライナスの話は鮮やかにマオの胸を刺した。
「旅が終わったら、帰れるんだよな」
「そうですね。僕もいつかミツキさんに一人前と認めてもらえたら、故郷のヘイズミールに帰るつもりですし」
「えっ、お前も帰るのか?」
ライナスがいなくなることが想像できなくて訊き返すと、彼は小さく笑って答えた。
「いつかですよ。まだミツキさんの弟子になれたばかりですから」
いつか。
ライナスには、それがある。
「そうか……」
頷いたつもりで、その声はひどく空虚に思えた。
うらやましい。
ふっと湧いた気持ちを誤魔化すように、マオは頭上でウトウトし始めた子猫を下ろして抱いた。
まどろむ猫は呑気な顔で、されるがままにされても文句ひとつ言わない。耳の裏を掻くと心地よさそうに喉を鳴らした。
「マオ、ライナス。行くよ」
打ち合わせの確認が終わったらしいミツキたちが振り向く。
「ライナスはベティと一緒に俺の背中に乗れ」
どうやら徒歩で下山するのでなく、獣姿のコンラッドと大きくなったタマに乗って国境越えを謀るらしい。
ライナスがコンラッドの背に乗ったので、マオはミツキと一緒にタマに乗るのかと近づいた。
「違う違う。マオはそっち」
首を振って、ミツキが指したのはマオの腕の中にいる子猫だ。
「魔力制御、ちょっとはマシになったでしょ」
「いいのか?」
もし何かあってフロリナ山が燃えれば今度は逮捕どころじゃ済まされないという理由で、食糧として以上の魔力を子猫に与えるのは禁止されていた。
「良いも悪いも、そもそもマオがちゃんとその子を育ててあげなきゃいけないんだよ。そのためにはまずマオが慣れないと」
「俺が育てるのか?」
「あんた以外に誰がいるの」
マオの子でしょ、と付け加えられて、改めて腕の中の子猫を見た。この雰囲気の中でも相変わらずふにゃふにゃと眠っている。
起こすのは忍びなく思えたが、そっと地面に降ろすと子猫は目をしばしばさせながらも座ってマオを見上げた。
「いけるか」
マオの言葉を理解したのか、猫は「ピャア!」と気合の入った声で叫んだ。静かな夜に、野鳥か何かかと勘違いするような奇声が響く。
その子猫の額に指を置いて魔力を込める。指先があたたかくなって、熱が子猫の中へ流れていった。
魔力放出の制限は、ベティにうんざりするほど基礎練習をさせられてなんとか身に付けている。これくらいでいいかと指を離せば、マオの猫はもう子猫と呼べないほど体が大きくなった。
前回と違って意図的に魔力を控えられたお陰か、マオを背に乗せるのがやっとなくらいの大きさ。ぼんやりした顔もそれに倣って精悍になった。
「よし、行くよ」
マオが猫に跨ったのを見て、ミツキが合図する。
太ももで挟んだ猫の体は柔らかくて、存外細い。これで走れるのかと心配したところで、猫が跳ねた。
ミツキたちの後を追おうと後ろ足を蹴った反動に思わず猫の毛を掴んだ。跳んだ一歩は思っていたよりも大きくて、すぐに草木の生い茂る獣道へ入った。
夜の山道は月明かりだけで駆け抜けられるほど優しくない。ただし、人の何倍も夜目が利く猫となれば別の話だ。
ミツキとタマが先頭に立って木々を避け、そのあとをコンラッドが続く。急な斜面を軽々と飛び降り、どこを走っているのかマオが把握できなくなってもまだ走った。
ミツキは東へ行くと言っていたので、ひとまずヒース大公国方面へ向かっているのはなんとなく察せた。
フロリナ山は高く、広げた裾も大きい。イリシア共和国の北部のほとんどはこの山が占めていた。マオたちが間借りしていた山小屋は南寄りにあったが、出発した方角はさらに北だ。
山向こうに国はない。絶壁の下に海が広がっている、とミツキが言っていた。
――海。
ライナスが言うような光る海が見えればいいのに。
小さな期待を胸に、ミツキに続くうちにかすかに生臭いにおいが鼻を掠めた。風を切る合間に、耳には軽い地鳴りのような音が聞こえてくる。
ザザン、ザザンと細切れに聞こえてくるそれが何の音かはわからない。前を行くミツキたちは一切それを気にかけないので脅威ではないようだが。
ふと、音のする方に顔を向けると、ちょうど木々が途切れた。山の斜面でなく、樹木の生えない崖際。
目の前に広がった辺り一面真っ黒な水たまりに、大小の丸い月がふたつ、親子のように映っていた。
水たまりは絶えず揺れているようで、それがあの地鳴りのような音を立てているらしい。
――これが、海。
吸い込まれそうなほど黒くて、深い。
いくら瞠目して見ても、その黒い海に浮かぶものは何一つなく。本当に、月以外のすべてがその底へと引きづり込まれたかのような恐ろしくも美しい景色だった。
マオひとりきりだったなら、迷わず崖を下っていたかもしれない。先導がいてくれなければ、好奇心にかられて海の中に引きづり込まれたものたちを見に行ったのかも。
そうしたら、どうなっただろうか。やっぱり、マオも引きづり込まれてそのまま、――そのまま、どうなるんだ。
揺れる猫の上でいくら考えてもその先は想像がつかなかった。




