第二十節 刻々と時間は過ぎていく
「アレクシスのやつ……、ふっかけたな」
桁の多い請求書を忌々し気に見ながら、ミツキは怨嗟のこもった低い声で吐き出す。
半焼した聖騎士団本部の立て直し費用、および民衆が受けた被害の賠償、そしてそれをやらかしたマオの保釈金。ついでとばかりにミツキが焼いてしまった芝生や屋根の修繕費まで細々と書き込んであった。
ミツキがベティの実家であるシーラ家に管理を頼んでいる資産だけでは若干の足が出る額で、聖都の家を売り払ってやっとというところだろうか。
民間のものはともかく、本部のほうはもうちょっと費用を抑えられなかったのかと文句のひとつでも言ってやりたいが、言ったら言ったで嫌味が倍になって返ってきそうなので胸に押しとどめる。
すべての泥を被って、それでマオを引き渡さずに済むならと決めたことだ。これで無一文になるが、手元にマオが残るならそれでいい。
マオは制御できないほどの火力でもって、堅牢なはずの聖騎士団本部を半壊にまで追いやったのだ。その罪を帳消しにできるとは思っていない。けれど、こうなった以上、アレクシス側にマオを引き渡せば徹底的に調べられるだろう。
マオは隠しておきたい秘蔵っ子だ。当人が記憶喪失のついでに忘れている自身の血については、特にアレクシスなどの軍事的権力者には知られたくない。
それに、その秘蔵っ子当人がまだ自身の魔力を制御できないのだから、他人に渡すとひたすら危うかった。しかも、あの性格なのでうっかりすると悪用まっしぐらなのも目に見えている。そこまでひっくるめてミツキが手元に置いて徹底的に教育しなければならなかった。
「うちからお出ししましょうか」
そう言ったのは、請求書を届けてくれたベティだ。シーラ家の資産ならこれくらいはさらっと払えてしまうのかもしれない。けれど、ミツキはかぶりを振った。
「友だちにこんな大金払わせるわけにいかないよ」
「でも、マオさんを守るためですから、私にも責任の一端はあります」
ベティもマオの特殊な血について知る人間で、それを隠すと決めた共犯者のひとりだ。
「ありがとう。でも、やっぱりダメ」
「どうしてですか」
「無一文だとどこへも行けないよね、普通。だから、私が無一文だってあっちが思ってるなら、そのほうが隠れて動く分にはいい」
イリシア共和国内から動けないと先入観を植え付けておけば、ある程度監視の目が弱まる。油断を突ければ国外へ出るのも楽になるし、近々その予定なので都合が良い。
「幸いにも住むところはあるしね」
言いながら、ミツキは座っているテーブルを軽く叩く。
ここは聖都の自宅の居間ではなく、聖都から北へ離れた山の中。数日前にマオたちを連れて入り、そのまま七合目に設けられた山小屋を新居とした。
「ここも懐かしいですね」
「やっぱり無暗に人の入れない禁足地は修行にはもってこいだ」
イリシア聖教会が禁足地に指定する聖域、フロリナ山。ここはかつて聖女イリシアが入滅に選んだ場所で、山頂には彼女の遺骨が納められていた。宗教的に特別な意味を持つこの山は、現在では新教皇即位時の儀式以外で人間は入れない。
けれど、ただひとつの例外として、十年前にミツキに修行場としてこの山が提供されたことがあった。
当時のイリシア聖教会と交わした制約で、ミツキとその師であるドラ婆が指名する人間だけが一時的にフロリナ山へ入れる許可を得ている。そして、魔族との戦乱のどさくさもあって、その制約は未だに解除されていない。
ミツキはその制約を利用して、アレクシスの手が及ばないこの地をマオの修行の場に選んだのだ。
「木の実に野生の獣、それに川もあるから食べ物には困んないし」
狩猟して暮らせば、数ヶ月はどうにでもなる。
「まあ、来月には出るんだけど」
「一ヶ月で足りますか?」
「間に合わせるよ」
一週間ほど前に届いたロランの手紙がミツキの脳裡によぎる。あれが来たらすぐに向かう約束だったけれど、そうも言ってられない。山に入って来れないとは言え、聖騎士団がどこで見ているかわからないので、大気を揺らしてしまう黒鳩は追加で送れなかった。
――それくらい、待ってくれるでしょ。
気の短い男ではなかったはずだ。マオの魔力制御がもうちょっとマシになるくらいは待ってもらおう。
思い出した横顔は穏やかで、どことなく笑っている風情があった。エルフという種族も相まってもとからきれいな顔をしているのに、ミツキにクソと言わしめるほど性格は良くないのだが。
ため息ひとつ吐いて目を向けた窓の外で、マオとライナスがコンラッドに剣技の稽古をつけてもらっている姿が見えた。
大柄な体格のコンラッドは力に任せて剣を振るタイプで、身軽なマオとは真逆だ。打ち合いになると確実に押し負ける。
片やライナスは、身長こそあるものの筋力が足らない。こちらもやっぱり押されると負けた。
――うーん、パワータイプの盾役はナシか。
かつてはコンラッドが担ってくれていた役が、今度の旅にはない。それを危惧しなければいけないほど物騒な地域に足を踏み入れる予定は今のところないし、それならそれで戦い方は他にもある。
まあ、どうにでもなるか。そう楽天的に考えて、ミツキは弟子たちが順当に薙ぎ払われていくのを見ながら苦笑した。
大火傷を負ったライナスも、もう後遺症もなく動けている。これなら多少スパルタにやっても大丈夫そうだ。
「ライナスさんは剣よりも魔法のほうが得意のようですけど」
「もちろんそっちもやるよ。ベティ、よろしくね」
「はい」
剣技はコンラッド、魔法はベティのほうがミツキよりも断然上だ。
ふたりとも、聖騎士団副団長と聖教会高位の修道女と大層な肩書持ちで指導者の立場にあって、人に教えるのは慣れている。彼らに任せれば、ミツキが教える以上のものにしてくれるだろう。
「やばいな。私、食料調達と料理しかやることなくない?」
コンラッドとベティは朝にここまで登ってきて、夕方になる前に聖都へ帰る。立場のある身だが、元勇者一行なのでイリシア聖教会内ではいろいろと融通が利いた。
それで毎日問題なく稽古をつけてもらえたのだけど、さすがに夜は彼らの幼い娘のためを思えばここに留まってもらうわけにもいかなかった。なので、修行で忙しいライナスを除くと必然的に料理担当はミツキに回ってくるはずだが。
「大切な時期なので料理だけはやめてください」
「そんな真顔で言わなくても……」
半分冗談で言ったのに大真面目に返されてへこんだ。自覚している分ダメージは少ないが、そこまでか。
――さすがにちょっと悔しい。
その晩、ミツキはライナスに料理を習おうと思って台所に並び、ライナスの頬を盛大に引きつらせてしまったのはまた別の話だ。
こちらの暦は現代日本と違って月を数字で数えない。旧暦の睦月や師走のような、数字に依らない名称が付いていた。
フロリナ山へ居を移して三週間。暦は東雲の月が過ぎ、次の銀朱の月へ変わる。ミツキの体感で銀朱の月はだいたい日本の四月くらいの気温だ。
聖都の町中にいれば気温の変化もわかりやすかっただろうが、山の上となればまだ空気は冷たい。古い暖炉に火を入れなくても過ごせるが、まだ上着は手放せなかった。
午前中にコンラッドの稽古、午後はベティの魔法指南を繰り返しながらの三週間で、ミツキが頷くくらいマオもライナスも急ピッチで成長を遂げた。
これなら予定を切り上げて出発できる。
それに。
「勇者様、何してるんですか――!?」
「あっ、バレた」
台所で料理にいそしんでいたところを午後の稽古を終えたらしいライナスに見つかって悲鳴を上げられる。
そんな泣きそうな顔しなくてもいいのに、ライナスときたら半狂乱でミツキが持っていた器を奪っていく。
「それ、師匠にする態度じゃないよね!?」
「それとこれとは話が別です!」
料理を教わろうとしたあの夜から、ライナスはミツキが調理器具に触れるたびに顔色を変えて止めに来る。
彼の素に近い一面なのだろうが、こうやって取り乱さない限りそれをミツキが目撃する機会もない。それだけ本当にミツキを敬ってくれているのだろう。
――その敬いが取れるほどか、私の料理は。
内心でいじけて、だけどそんなこどもっぽい部分をライナスには見せたくないと思える程度には師匠としての自覚がある。
「っていうか、今、『勇者様』って呼んだでしょ」
「えっ、……あ」
「はい、腕立て十回」
ライナスはミツキを「勇者様」ではなく「ミツキさん」と呼び改めたが、取り乱した時には「勇者様」が勝る。長年ミツキをそう呼んできたらしいのでわからないではないけれど、それも今後を考えるとどうしても矯正せざるを得なかった。
「安心して。これだけはちゃんとできるから」
その場で腕立て伏せを始めるライナスを尻目に、ミツキは取り上げられた器に手を伸ばす。
種々のドライフルーツや木の実を混ぜたパン生地が、発酵を終えて器の中で膨らんでいる。あとはこれをフライパンで焼くだけの、簡単なちぎりパンだ。料理下手なミツキが失敗しないよう、焼き時間もきっちり計る。
「ところで、マオたちは?」
「マオさん、は、川へ、水浴び、に」
「よしよし、焼く時間はあるね」
呼吸と同時に漏らす声は力強い。三週間前まではたった十回の腕立て伏せで息を荒くしていたのに、最近は余裕すら見えた。
――二十回に増やしてみるか。
弟子の成長を喜びつつもさらにキツく締めるのには余念がない。
右手の指輪に魔力を通すと、竈に火がついた。フライパンにパンを並べて弱火にかける。
「ライナス、お願いがあるんだけど」
立ち上がったライナスに詰め寄ると、彼は目を瞬いた。師匠として指示することはあっても、お願いと言って頼みごとをしたのはこれが初めてだ。
誰が聞いているわけでもないのに、ライナスの耳に唇を寄せて小声で囁いたそれに彼は目尻を緩ませる。
任せてください、と言ってライナスはさっそくミツキのお願いに取り掛かった。
気温はそうでもないのに、横っ面を撫でていく風はまだ冷たい。虫のさえずりと、遠くで野犬だか狼だかの遠吠えが聞こえる。人の気配のない山は、夜になると獣の世界だった。
帰り道もわからないほどに人の手の入らない山の中は木々がうっそうと生い茂って暗い。頭の上に乗った子猫の体がほんのり赤く光って、それがすっかり踏み均された帰り路を不安定に照らしている。
その道を、マオは重い魚籠を引っ提げて急ぐ。いつもなら夕食の下準備を終えたライナスが後から川まで来るのに、今日はそれもなく。
ベティから出された魔力操作の課題で、魔法を使って生きたまま魚を捕まえるという訓練に熱中するあまりすっかり暗くなってしまった。お陰で大漁だが、それで夕飯を食いっぱぐれては意味がない。
くそが、と心中で悪態をつきながら、ようやく家ともいえない山小屋に辿り着くと、中から笑い声が聞こえた。
こんな大声で笑うのはコンラッドだ。本来ならもうとっくに下山しているはずなのに、まだ残っているのは珍しい。灯りの漏れる窓からこっそり覗けば、ベティまで揃っている。
――なんだ?
怪訝に思いながら眺めていると、杯を手にしているミツキと不意に目が合った。その途端、ミツキはニィと擬音がつきそうなほど怪し気に笑う。
本能的に足が後ろに下がった。あの顔は、何か企んでいるに違いない。
逃げたい。――だけど、どこへ?
咄嗟に思い浮かべた先は聖都で暮らしていた自宅だったが、そこはもう売り払われてマオの家じゃなくなっている。
二の足を踏んでいるうちに小屋の戸が開いた。
「ハッピーバースデー!」
「――は?」
意味のわからない言葉で叫ばれて怯む。もしかして新しい呪文か何かか。いや、それよりも叫びながら近寄ってきたミツキに抱き付かれて一瞬、思考が停止する。
「マァオォ!! おめでとー!!」
「耳元で叫ぶなうるせぇ! しかも酒臭い!」
至近距離で吹きかけられた吐息は酒のにおいで、ミツキがすでに酔いどれているのがわかる。
――いつから呑んでたこの呑兵衛が。
エールの一、二杯で顔色も変わらないような人間がこのザマ。よほど酒精が強い酒か、大量に呑んだか。
「好い加減離れろ!」
「やだ! ママにそんなこと言うわけ!? 反抗期なの?」
「『ママ』ってなんだよ。うっとおしい」
また意味のわからない言葉が飛び出して、そういえばミツキがこちらの人間ではないことを思い出す。
日常では全く出てこない単語も、この浮かれすぎる様子も何もかも、酒が引きずり出したのか。
「おーい、そろそろ主役も中に入れてやれよー?」
コンラッドの呑気な声が中から聞こえてくる。
こっちも呑んでやがる。
「えへっ、ごめーん!」
――えへって……、えへって言ったのかこのババア。
酔っているとはいえ、常とは違うミツキの様子に鳥肌が立つ。
いったい、中で何が起こってるんだ。マオはいつも通りに過ごして、ちょっと家に帰りつくのが遅くなっただけなのにこの変わり様。
自分以外の全員がなにか悪いものでも拾い食いしたかと疑いながら、ミツキに手を引かれて小屋に入ると食卓に所狭しとマオの好物が並べられていた。
――なんだ、これ。
こんな好待遇を受ける謂れは、残念ながら心当たりがない。
怪訝な顔のまま部屋を見回すと、ミツキにライナス、それにコンラッドとベティが勢ぞろいだ。それが計ったように全員一斉に口を開いた。
「お誕生日、おめでとう!」
それぞれの口から、祝いの言葉が放たれる。
お誕生日、おめでとう。
咀嚼するのに数秒要して、ようやく合点がいった。
「……ミツキ」
呼んだ相手は相変わらずの浮かれ顔で、「あ、うれしすぎて言葉もない?」と能天気に近寄ってくる。
「明日だ」
「――え?」
「俺の誕生日は、明日だ」
いくらマオでも自分の誕生日くらい忘れない。
そう告げると、ミツキはわかりやすく目を逸らした。
「細かいことは気にするな」
「細かくねぇだろうが!」
人の誕生日を。しかもミツキが決めた日付だろうと睨めば、彼女は更に言葉を詰まらせた。
ミツキとマオが初めて出会ったこの日が、きみの誕生日。そう言って初めて祝ってくれたのは三年前だ。
「……どうすんだ、これ」
「さあ……」
食卓の向こうでベティとコンラッドの夫婦が小さく言う。
どうするのかなんて、マオが聞きたい。
「でも良かったじゃないですか」
微妙な空気を割った声はライナスのものだった。
なにが、とそちらに視線を向ければ、怯むわけでもなくライナスが続ける。
「だって、明日もマオさんの好きな献立にできるんですよ。僕、マオさんの好物覚えましたし」
「おまえ……」
良いやつかよ。
それを言葉にするには少し恥ずかしくて、マオは口を噤んだ。
「よし、じゃあ、今日は誕生日の前祝いってことで!」
「お前が言うな! ライナスに謝れ!!」
マオが黙ったのをいいことに、ミツキが盛り返したのは面白くなくて釘を刺す。けれど、酒の入ったミツキにそれは通用することもなく。結局、マオが帰ってくるまで手を付けられていなかった料理を食べながら、本番さながらに祝われることになった。
食卓の真ん中を、ドライフルーツが練り込まれたパンが陣取っている。一端をちぎって口に運ぶと、干しぶどうの甘酸っぱい味が口に広がった。芳ばしい木の実が食感にアクセントを加えて、それがまたおいしい。
頭上の子猫のがせがむようにマオの頭を掻いたが、興味を示すだけ示しても、精霊は魔力以外は食べられない。
あんまりにもうるさいので匂いだけ嗅がせると、それでようやく食べられないと理解したのか催促をやめた。そのあとは宴自体に興味を失ったのか、子猫はうるさい居間から逃げるようにマオの部屋に引っ込んだ。
――うまいものを食えねぇのも、ちょっと可哀想だな。
これは、マオがまだ素直に感情を口に出せたころ、ミツキに感想を聞かれて「おいしい」と言った食べ物だ。記憶の最初のほうにしまってある、大切な思い出の味。
こんなにおいしいパンを作れるのだから、きっとミツキは料理上手なのだろうと期待して、心底裏切られるというオチまでついているけれど。
誕生日の日付は間違えても、これだけは忘れなかったらしい。
――ババアのくせに。
日頃から憎まれ口を叩いてしまうせいで、感謝の言葉はうまく出てこなかった。
スパイスワインでへべれけ状態のミツキはよく笑う。それで許されているような気がするのは、なぜか。
言えないうちに夜が更けて、酔っぱらった大人ふたりは居間のソファーで舟を漕ぎはじめた。ここは任せて、とベティに言われて部屋に引っ込むと急激に眠気がきて、マオはそのまま寝台に倒れ込んだ。
先に寝台を占領していた子猫が抗議にマオの手を齧ったが、甘噛みを覚えてくれたおかげで最初のころと比べて優しい。
――疲れた。
修行で限界まで体力も魔力も使い果たして泥のように寝る毎日だが、今日は特別ひどい。
胸がなんだかこそばゆい。誕生日を祝われるのは四度目なのに、毎年これだけがまだ慣れなかった。




