第十九節 精霊は主に似るらしい
その男は突然豹変して襲ってきた、とマオは言った。
時間は少し遡り、ミツキたちがちょうど議事堂で一悶着起こしていたころのことだ。マオの釈放の書類が通って、その引き受けにライナスが聖騎士本部の地下牢を訪れていた。
聖都の警備に割かれて人手が足りていないと言われたらしいライナスがマオの牢へやってきて鍵を開ける。
いくら人が足りなくても、部外者に鍵を渡すなんてあり得ないことがまかり通ったのは本部内で重要な尋問が行われていたかららしい。
「事務のおっさんすらいなかったのかよ」
「いましたけど、今は持ち場を離れられないからって」
普通ならその重要な尋問が終わって人手が回復するまで待たされるものだが、いかんせん、ライナスが持ってきた書類には勇者ミツキと聖騎士団団長アレクシスの著名が入っていた。
そのおかげでライナスを信頼するに足りる人物だと判断した受付が、マオの牢の鍵を渡してくれたという。
「それより、マオさん。その子猫は……?」
「ああ、こいつな」
うんざりしながら、マオは自分の頭によじ登った赤い子猫を指さす。この子猫が表れて一日と半分、嫌になるほど振り回された。
タマの子どもだと仮定すると、こんなに小さいなりにも精霊だということになる。まず、精霊が何を食べるか知らずに永遠と鳴かれ、手をがじがじと噛まれた。
体こそ小さいが、そこは精霊。普通の猫と違ってすでに歯が生えていたし、柔らかいながら爪もあった。その歯と爪とで、マオの手はすでに傷だらけのぼろぼろ。この時点で放り出さなかったのは褒められてもいいし、ライナスのご飯を三食いただきたい。
精霊はヒトの魔力を食べると教えてくれたのは、牢屋で騒ぎまくるマオを見かねた看守だ。それで子猫の空腹はどうにかなったが、マオからミツキに連絡は取れない。その看守に取次を頼んだが規則だと一蹴された。
それで収まった……、かと思いきや、満腹になったこの子猫の体力たるや。しかも、生まれたばかりの子猫だというのに、もう四肢が発達しているらしい。不思議とマオのいる牢から出ないものの、走る、跳ねる、マオによじ登る。
マオが相手にしなくても勝手気ままに遊ぶし、そうかと無視すれば「構え!」とばかりに飛びついてくる。
――なんだ、この生き物は。
「精霊つったら普通、もうちょっと賢いもんだろ」
たとえばミツキに常に寄り添うタマ。同じ赤猫でもあっちはもうちょっと利口だったはずだ。
「あー……、近所の子猫がこんな感じでしたよ」
苦労した話を交えつつライナスに訴えると、彼は半笑いでマオの頭の上に陣取る子猫に手を伸ばした。頭だかを撫でてやってるらしく、子猫はいっちょまえに喉を鳴らしている。
「なんでだよ!? 俺のときはそれなかったろ!」
散々じゃれついておきながら、一度だってこの子猫はマオに喉を鳴らしていない。
「撫で方が悪かったのかも。喉元とか、あとは耳の後ろとか――」
「ああ、くそっ!」
ライナスの言葉を遮り、マオは悪態を吐く。
「やるよ、こいつ。お前のほうがうまく世話できんだろ」
子猫の首根っこを掴んで、そのまま自分の頭から引き離す。爪が頭皮を軽く掻いたが、痛くもなかった。
「え、でも」
「うるせぇ、持っとけ」
戸惑うライナスの胸元に押し付けると、子猫が甲高い声で「ミィ」と短く声を上げた。ライナスの腕の中に納まるのが、きっと子猫もマオより都合がいいだろう。
「ほら、行くぞ」
迎えに来たのがどっちだかわからない態度で牢を出る。
ライナスの腕で鳴いた子猫の声が忌々しい。呼ばれているわけでもないのに妙に後ろ髪を引かれるのがまた悔しかった。
――なんでこんな気持ちに。
押し付けたのはマオ自身だ。それで清々すると思ったのに。
「待ってください、マオさん」
先を行くマオをライナスが止める。
「んだよ」
「僕じゃダメです」
振り返ると、ライナスの腕の中で子猫が暴れていた。彼は子猫の脇下に手を入れてなんとか取り落さないように焦っている。
「マオさんが魔力をあげたんでしょう?」
「そりゃ、俺しかやれるやつがいなかっただけで」
「精霊は、主かそれに準じる人の魔力しか食べないんですよ」
どうやら有名な話らしい。ミツキから聞いていないのかとライナスが首を傾げている。
「あちっ」
知らない、と反発する前に子猫が飛んだ。爪でも引っかけたのか、ライナスが短く声を上げる。子猫はマオの肩を経て、また頭へと登った。
「爪でも引っかけられたか?」
「爪……、と言うより火傷ですね、これ」
言われてみると、ライナスの腕に子猫の足先ほどの火傷ができていた。みるみる内に赤く腫れあがって、放っておくと痕が残りそうだ。
「なんか、悪い……、こいつが」
悪いのはマオの頭の上ですっかり落ち着いた子猫であって、マオではないのに咄嗟に謝罪が口から出たのはなぜか。
――なんで俺が謝んなきゃならねぇんだよ。
理不尽に思いつつ子猫の小さな頭を突いて噛まれた。まだ加減を覚えていないらしく全力でがじがじしてくるが、それももう慣れた。
「いえ、これくらいならすぐ治せます」
ライナスが治癒術を唱えると火傷痕も残さず傷がすっかり消えていく。小さいとはいえ火傷の治癒は難しいと聞くから、ライナスはそれなりに治癒術がうまいのだろう。
――もしかして、魔力操作はこいつのが上?
そもそも治癒術は苦手な範囲だが、これだけきれいに火傷を治せたのだから他の分野においても上をいかれるかもしれない。
まさか、自分より後からきた弟弟子に遅れを取るなんて。
不穏に感じながらもマオはかぶりを振った。
――いや、まだわからん。他がダメかもしれねぇし。
ちくちくとプライドが刺激されている。ちょっとでもライナスに抜かれるなんてありえない。
胸がムカついて、けれど、まだ聖騎士団のお膝元で何かをやらかすわけにはいかない。ミツキが怒るのは目に見えているし、そのせいで夕食を抜かれたらせっかく牢屋を出た意味がない。今夜はライナスの飯を食うんだ。それだけはなんとしても譲れない。
魔力操作の練習をもっとしなければと密かに決めて、マオは止めていた足を再び前に出す――が、踏み出した瞬間、地上へ続く扉が勝手に開いた。
薄暗い地下にそこから四角く切り取られた光が差し込む。その刹那にピリピリとした空気が肌を刺した。
それは、殺気に近い緊張。
「行け」と短い命令が飛んで、複数の足音が地下牢に響く。
――なんだ?
ライナスと目を見合わせたが、彼はかぶりを振る。
他の囚人ならまだ刑務作業中のはずだ。この時間には帰ってこないし、それにここまで空気が張ることもない。
緊張に飲まれるようにふたりは通路の端に寄った。そのまま近づいて来る足音に耳を澄ませて待つ。
曲がり角から最初に出たのは軽装の聖騎士だ。逃走者をすぐに追えるよう最低限の防具と小回りの利く小ぶりな剣を佩刀としている。それが前にふたりと、続いて見えた囚人。その後ろにもうふたりだ。
囚人の出入りに看守が付きそうのは当然だが、ここ数日でこんなに物々しい警備は見ていない。両手を縛られたまま地下牢に入ってくる囚人もいなかった。
ヒトの扱いが最も丁寧で慎重な聖都でこれか。看守の間にちらっと見えた短い紫色の髪の男が、いったいどんな重罪を犯したのか。
少しだけ興味を引かれたが、物音ひとつ許されないほど張りつめられた空気のお陰で萎えた。
ともかく、あれとすれ違ったらすぐに地下牢から出よう。あんなに厳重にされているのだから、きっとあの男の行き先は最奥の独房だ。
看守たちがマオとライナスを認めて睨んだが、こちらが一切動く気配がないとわかると、警戒されながらも声ひとつかけられなかった。
そうして、いざすれ違うとなった時のことだった。
「ピャァ」
間の抜けるような鳴き声。焦れたのか、子猫がマオの頭の上で空気も読まずに鳴いた。
それで刺すような鋭い視線が一瞬でマオを射る。
「あ、ちがっ」
看守たちの目に肩を竦めながら否定して――、おかしな声が耳に入った。
「むらさき」
囁くような、小さな声。
頭の上で殺気立つように子猫がフーッと威嚇する。誰に対して威嚇しているのかわからなければ、その効果もないが、そのせいで余計にマオの頭に看守たちの注目が集まる。
またぼそぼそとした小さな声が漏れたが、看守たちは目の前のマオに集中しているせいか、取るに足らないほどかすかな声を無視した。
そして、
「は――?」
後方にいた看守がふたり、ほぼ同時に倒れた。ひとり目が首から血を吹いたと理解した瞬間にもうひとり。
看守に囲まれていた男が動いたのがかろうじてわかった。だけど、いったいどうやればふたり同時に。
目で追った限りでは、この一瞬の隙をついた男が看守の剣を縛られたままの手で掴み、抜きざまに反対側の看守の首を掻き切ったように見えた。
やられたのはひとりのはずだ。そうとしか見えない。なのに、剣を抜かれた方も倒れている。
――あの瞬間に何が。
マオ自身も看守に気を取られていたせいでその瞬間を見逃した。
すぐに残りの看守が振り向いて対処しようとするが、それよりも素早く男は倒れたふたりの向こう側へ飛びのく。――なんで、距離を取った?
「下がれ、ライナス!」
魔法が来る。わざわざ倒れた看守の向こうまで距離を取ったのは詠唱時間を稼ぐためだ。
半端な魔法なら残りの看守がどうにかしてくれるだろう。腐っても聖騎士のはしくれだ。マオたちが大人しくしていればこちらが被害を受けることもない。
看守たちも魔法を予期したのだろう。すぐにひとりが発動前に男の懐へ飛び込む。
「がぁ!?」
野太い悲鳴のあと、地に伏したのは飛び込んだ看守だった。男は倒れた看守の頭をトドメとばかりに蹴り上げる。
「むらさきの、かみ」
そうつぶやく男の目は、看守とマオを越えた先。ライナスをの方を向いていた。
見ているのではない。そこへ目を向けているだけのような虚ろな目だ。なのに目の奥にほの暗い光がある。
「ころさないと。ころさないと。むらさきだ」
男は何かに憑りつかれたようにそればかりを繰り返している。
何かしらの禁断症状のように見えるが、うわ言のように吐かれる言葉からライナスを見て突然発作を起こしたように思えた。
ぶつぶつと囁かれる声は徐々に早口になり、すでに聞き取れなくなっていた。むらさきむらさき、と口の端から泡を吹く姿はもはや偏執に捕らわれた狂人にしか見えない。
「誰か来い! 三人やら――ッぐあ!!」
看守の叫び声が地下牢に木霊する。切り裂かれた両目から血を吹き出して倒れるその背中は、マオにひどい既視感を植え付けた。
――あのときのっ!
紺碧門の近くで目撃した、あの殺人未遂の。
違うのは、犯人が逃げずにそのままマオたちの方へと目を向けたことで。
わずか数歩の距離。男の狙いがライナスひとりなのは明らかだが、そこに至るまでの障害はすべからく排除する徹底ぶり。躊躇など微塵もなく、ただ道を塞ぐものを退けただけだと言うような感情のない顔。
最初は意表を突かれたとは言え、看守も聖騎士の末席に連なる。決して弱いわけじゃない。
口から出る言葉ももう何を言っているのか判別できないが、それを差し置いてもこの男は異常だった。少なくとも角を曲がってきた瞬間や、殺人未遂をしでかしたときはこんなではなかった。
剣を振り上げれば、鼻先に届く距離。マオに武器はなく、また看守が取り落した剣を拾い上げる時間もない。
けれど、目の前の最たる障害を取り除いた男にとってマオは眼中にないらしい。相手の目を見ても視線が合うこともなければ、マオを気にしている様子もない。
――ライナスは……、動けないか。
あれは、 “本物”の目だ。
そんな目で睨まれ続ければ体が委縮して自由にならないだろう。ライナスからいっさい動く気配がないのがその証拠だ。呼吸できているかもあやしい。
――来る。
ライナスよりも濃い紫髪の姿勢が下がった。
予想通りマオを取るに足らないと判断した男は、脇をすり抜けようとする。
――やっぱミツキより遅ぇな。
この男の動きはなんとか目で追えた。最初こそ見ていなかったものの、あとはすべて。
武器がなくても、相手が油断しているなら戦える。
男がマオの脇をすり抜けようとした瞬間、マオは拳に魔力を纏わせようとして――。
「ニャアアアァ!」
放出した魔力は拳に乗らず、「はァ!?」とマオが驚愕する間に頭にしがみついた子猫に吸われた。
――おまえ、さっきやったろ!?
ライナスが迎えに来る直前に魔力を食べさせたはずなのにまだ足りないとかぬかすかこのドラ猫。
――ッ! 違う、今そっちに構ってる暇は。
はっとして意識を男に戻したが、すでに遅かった。マオが何かする素振りを感じ取って間合いを取られた。もう不意打ちは無理だ。
「逃げろライナス!」
なりふり構わなければ、倒せなくてもライナスが上まで逃げる時間くらいは稼げる。それに最後の看守が叫んだお陰だろう、地下牢の出入り口が慌ただしく開く音がした。
「……っぁ、ご、め」
逃げろと叫んだ結果、正気を取り戻したライナスは緊迫に負けてその場にへたり込む。
――この腰抜け野郎!
それを横目に見ながら、マオは臍を噛んだ。やっぱり、こんな猫はライナスに預けておくべきだった。
子猫が放出した魔力を片っ端から食べるつもりなら、もう魔法に頼れない。かと言って、体術で正面から戦って敵うか。しかも、後ろのライナスを気にしなくてはならない。
――こいつらさえ、いなけりゃ。
子猫とライナスが、もしいなかったら。
咄嗟に浮かんだ言葉は苦い。そしてその答えを考える間はなく。
再び男の背が沈む。時間がないとわかっているのか、それすらも伺えないほど相変わらず顔に感情がなかった。
――刺されていい。
胴で剣を受け止めて、抜けさせなければライナスには届かない。
誘うように上段で拳を構える。あの速さなら、防御する前に間違いなく胴を刺す自信があるだろう。
――時間を稼げ。活路はそこだ。
数秒に満たない時間、マオはそこまで作戦を捻り出して覚悟を決める。
男の足が前に出る。それをしっかり目で捕らえ衝撃に備えて腹に力を入れた刹那。
「ピャアアアァァァ」
子猫が叫ぶ。
緊張感の欠片もない甲高い子猫特有の鳴き声。けれど、男がそれにかまけて足を止めるわけもない。
マオですら耳に入れながらも、その鳴き声の意味を理解せず反対側から抜けていく。
「うおぉ!?」
頭の上に突如として現れた重量。首が折れるかと思う間もなくマオは通路に押し倒された。
そうして、しばらく耳が聞こえなくなるほどの爆発音がマオの上で炸裂する。
爆発で男が吹き飛ばされたがその安否はわからない。近くにいたライナスがあれほどの火傷を負ったのだから、タダでは済まないだろう。
こんなことを起こしたのだ。釈放されたばかりのマオが再び捕まるのは目に見えている。しかも、今度は殺人罪も加わるかもしれなかった。
地下牢の湿気が蒸発していく中、気付けばマオは虎よりも大きくなった赤い子猫の背に乗って逃げていた。
咄嗟にライナスを連れ出していることに気付いて、医者に診せようと思ったが聖騎士団本部を出た途端に追われて逃げるしかなく。
あとはミツキが見た通り、銀鼠門を越えて逃げるしかなかったのだ、と言ってマオは話を締めた。




