第十八節 たった一滴の血
「教皇様をお守りしろ!」
爆発音が聞こえると同時にコンラッドが怒鳴った。すぐに教皇の周りを聖騎士たちが囲んで人の壁を作る。
オルステッド夫人が短い悲鳴を上げ、伯爵が彼女を庇うように抱き寄せていた。マキュアス侯爵も爆発に驚いている様子だったが、元武官らしくすぐに表情が引き締まる。
「先に行く!」
それを確認して、ミツキは窓を開け放った。
二階。視線の位置に飛び移れるような木はないし、すぐ下にも緩衝材になるものもない。
「ミツキさん、待ってください!」
ベティの声がミツキの耳に追いすがる。それでもミツキは窓から飛び降り――。
「タマ!」
魔力を余分に与えて、指輪に宿る精霊を呼んだ。
大地に衝突する寸前、ドレスのスカートをかき分けて、股下に柔らかな感触が現れる。馬に乗るように内太ももで挟むと、毛並みの良い巨大な猫の体がしなった。
余分に魔力を与えた分はタマの四肢から炎を吹き出し、着地の衝撃を緩和した。そのまま後ろ脚を蹴って跳び上がる。タマが着地と跳躍を果たした芝生は、そこで何が起こったかわかるほど黒く焦げていた。
議事堂を囲む高い塀を駆け上がると、爆発音のした方向から黒煙が上がっているのが見えた。
――聖騎士団本部!
最初によぎったのは、マオの顔だった。
普段なら聖騎士たちが常に駐在している本部だが、マールベインとヒースから王と大公を招いている今、八割近くが警備に駆り出されている。アレクシスも議事堂か貴賓館のどちらかに行っているはずだ。
本部に残っているのは事務方と、本部警備班に地下牢の看守たちくらいで。
そこで何が起こって、どういう状況なのか。遠目ではまだわからない。
「久しぶりに飛ばすよ、タマ!」
更に魔力をタマに与える。
巨大な赤猫は低く唸り、四肢に炎を纏う。塀の縁を黒く焦がしながら大きく跳んだ。
地上では混乱した人々を轢いてしまうかもしれないから、必然と進路は屋根の上に限られる。連なる紺碧の屋根に黒い痕を残しながら最短で駆け抜けた。
鞍も鐙もない背中はタマが屋根を蹴るたびに大きく揺れる。速さを優先したので乗り心地は二の次だ。タマの首の後ろの毛を掴み、足で胴体を挟んで耐える。けれど、初めてドレスで乗ったため太ももにあたるなめらかな生地で滑って危なっかしい。
――ベティ、ごめん。
咄嗟に心の中で謝って、ミツキはドレスの裾に右手の中指を走らせた。指先から熱が伝わり、指が這った場所が黒く焦げてスリットが入る。股下から裾を引き抜くと、それが風ではためかないようにタマの毛と一緒に握り込んだ。
状況確認で一番高い屋根に止まった時、ミツキは煙の上がる正面玄関から赤い影が飛び出したのを見た。
「赤猫……!?」
今のタマと同じくらいの大きさの赤い大猫。
赤猫は鎮火を始めた人々を飛び越えてそのまま逃げて行く。それを目で追った先には北の銀鼠門がある。
北の銀鼠門から出る、とはつまり国外へ逃亡するつもりなんだろう。しかもよく見ればあちらの赤猫も背中に人を乗せている。
「追って」
指示を出すと、タマはあの赤猫が逃げて行く方向へ速やかに首を翻した。
おそらくあの赤猫の乗り手が犯人……、なのだけど。
――誰よ、あれ。
速度をさらに上げたタマの背中で、ミツキは心中でひとりごちた。
普通、精霊は師匠から弟子へと受け継がれるものだ。適正も必要だが、精霊を持つ師は自分の精霊の子どもを弟子へと分ける。
そして、赤猫はミツキの師匠、ドラ婆の精霊だった。
イリシア国内で、現在赤猫を従えているのはミツキの他にもうひとりいる。けれど、そのもうひとりが爆発の原因で、しかも逃亡するなんて考えられない。
そもそも、後ろ姿からして違った。逃亡する赤猫に屋根の上から追いついて見下ろした体躯は、ミツキが知る姿にはとうてい重ならない。しかも乗っているのはふたりだ。
ひとりは気絶しているのか、赤猫の背中にうつ伏せにぶら下がっている。うしろのもうひとりがそれを必死に支えているが、いつ二人揃って振り落とされるか、こちらが冷や冷やしてしまいそうなくらい不安定だ。
ミツキはその姿にひどい既視感を覚えた。
乗り手は相方を落とさないようにするのに必死で、赤猫が思うままに走っている。警備中の聖騎士がそれを止めようと立ちはだかれば、途端に横っ飛びに逃げて店先に置かれた商品をなぎ倒し、それに周囲の人々が巻き込まれている。すぐに聖騎士が駆け寄って治癒術をかけて大事には至っていないようだけど、それも幸運が続いているだけで。
――嫌な予感がする。いや、予感どころか。
精霊を止めるには、並みの聖騎士では無理だ。余計に被害を広げてしまうと見たのだろう、聖騎士たちは銀鼠門の前を開けた。そこから赤猫が逃げて行く。
逃がすとまずい。とんでもなく、まずい。
ミツキは聖騎士たちが開けた場所に飛び降り、驚く聖騎士たちに目もくれることもなく後を追う。
銀鼠門の外は、聖騎士団本部が近いこともあって聖騎士たちの訓練場が設置されている。訓練用の広場や厩舎を繋ぐ石畳を走り抜け、赤猫は更に逃げて行く。
今頃はアレクシスにもこの情報が入っているかもしれない。彼が出てくる前に、なんとしてもミツキが捕まえなければならなかった。
もっと速く。
タマに魔力を注ぎ込む。四肢からより高温の炎が噴き出し、石畳を焼いて走る。
体の内の魔力が一瞬で蒸発していく。もう半分を切った。脱力感で毛を掴む手が緩みそうになるのを、唇を噛んで耐える。
そうしてようやく、ミツキとタマは前を走る赤猫に追いついた。
「マオ!」
並走して叫ぶ。青みかかった灰色の頭が弾かれたように顔を上げてミツキを見た。
――なんて顔してんの、バカ!
今にも泣き出しそうなほど弱ったマオの藤色の双眸。
言いたいことはいろいろあるが、それを言う暇もなければ、この揺れの中で下手に会話を試みると舌を噛みかねない。
「魔力! 制御!」
「……っ、いま! やってる!」
短く怒鳴った途端、マオの目にいつもの生意気な光が戻る。それで、わずかにマオの乗る赤猫の速度が落ちた。
なぜマオが赤猫を操れるのかわからない。基本的に精霊は自分の主か、主に準ずるヒトの魔力しか受け付けない。それがマオにできたということは、この赤猫がマオの精霊である可能性が跳ね上がった。
だけど、それならそれで事態の収拾に少しは希望が持てる。そう思いながら、ミツキはマオが落とさないように守っていた相方を見た。
紫色の後頭部からそれがライナスだとわかる。こんな乗り心地の悪い状況でぴくりともしないところを見ると、どうやら気絶しているのか、あるいは――。
外傷を診ることもできない赤猫の上では、ミツキもどうすることもできない。
マオの赤猫が速度を緩め始めたのを確認して、ミツキもタマへ注いでいた魔力を弱めた。
そうして、銀鼠門を振り返る。門前に聖騎士たちが集結して、守りを固めながらミツキたちを見守っていた。割入ってこないところを見ると、どうやらあの中に精霊を使える聖騎士はいないらしい。
好都合だ。これなら逃げ切れる。
「付いて来なさい!」
叫びながら、ミツキはタマに方向転換を促す。向いた先は山を抱いた夕焼け。聖騎士たちの視線を切るように施設の陰に飛び込んで、その山を目指した。
ライナスには悪いけれど、ここで聖騎士たちに捕まるわけにはいけない。特にアレクシスが出てくれば最悪だ。
彼の手の届かないところに逃げなければ。その心当たりはある。
ミツキはマオがちゃんと付いてきているか確認して、速度を保ったまま走り抜ける。訓練場と農地を抜け、石畳の敷かれた街道を逸れたところに山裾が見えた。
うっそうと生い茂る木々に雑草。人の手が入らない自然には、おおよそ入口と思える個所もなく。
「魔力弱めて! 絶対に燃やすな!」
速度を落とせば、赤猫が四肢にまとっていた炎が消えてしなやかなつま先が露わになる。マオも難しい顔をしながらなんとか炎を消した。
そのまま背の高い茂みを飛び越え、山の中へと入った。無秩序に茂る木々や背の高い雑草の間を抜ける間に更に赤猫たちの足が遅くなる。二合ほど登ったところでようやくミツキはタマを止めた。
ただ、マオがすぐに反応できるはずもなく。
後を追って来るマオをタマと一緒に振り返り、軽くタマの首を叩いた。
「ぁぅううぅ!!」
マオが乗った赤猫と向き合った瞬間、タマが地を這う声で威嚇する。
「ふぎゃっ!」
牙をむき出された赤猫が情けない声を上げながら前足で急ブレーキをかけて止まった。マオまでビビったのか魔力供給が途切れて、赤猫が小さくなる。
――子猫。
通常時のタマよりも随分小さい。生まれたてとまではいかないけれど、それでもまだ子どもと言える大きさ。
子猫に気を取られつつも、ミツキはすぐに放り出されたマオとライナスへ駆け寄った。
「痛ってぇ!!」
「マオ……、は、大丈夫か。生きてるし」
声を上げられるなら大丈夫だ。問題は突然投げ出されてなおうつ伏せで顔を上げないライナスのほう。
受け身も取らなかったところを見ると、本当に意識がないらしい。近寄ると嫌な臭いが鼻を刺した。
慌ててライナスをひっくり返すと、正面のほとんどが無残にも焼けただれている。
「……俺が、悪いんだ」
ぽつりとこぼすように言ったマオの声がわずかに震えている。
彼の足元に子猫が隠れた。それでだいたいの察しがつく。
「事情はあとで聞く。それより」
ひどい有様だが、ライナスの胸が小さく上下していた。
まだ、彼は生きている。かろうじて。
「助かるのか」
「絶対に助ける」
答えて、ミツキは素早く治癒の魔法を唱える。ベティに比べて上手くはないが、それでも今この場でそれができるのはミツキだけだ。
黒焦げになった皮膚が、ミツキの手がかざしたところからゆっくりと元の肌色に戻っていく。
普通の傷よりも、火傷の損傷の治癒は難しい。前者は切れた組織を繋げれば傷は塞がるが、後者は表皮の奥、真皮までをまるごと新しいものに蘇生しなければならない。その分、使う魔力も膨大で。
「足らない」
すでに半分以下となっていたミツキの魔力では、ライナスの火傷をすべて治すには少なすぎた。顔と胸元まではなんとかなったが、これ以上魔力を使い続ければ魔力切れでミツキ自身が昏倒する。
――だけど、火傷はダメだ。全部直さないと。
たとえ焼けた面積が少なくても、火傷は命に関わる。ライナスほど重度であれば、残された時間も多くない。
魔力摂取を求めているのか、体が飢餓を感じ始めていた。空腹で、なのに、手っ取り早く魔力を供給できるものは――。
「ミツキ!」
焦るミツキの胸に、マオの声が一石を投じる。
「俺にできることならなんでもする! アンタならできるだろ。ライナスは助かるんだよなぁ!」
最後はほとんど悲鳴に近かった。
「ベティを呼んでくればいいのか!? いや、それよりこいつを聖都の治癒術師のとこに運べば今からでも」
「マオ」
マオの言葉を切って、ミツキは彼を手招きした。
こんな状況だと言うのに、マオの顔を見ると妙に頭が冷える。
焦りの消えた冷静な頭で、ミツキは何も知らずに近寄ってきたマオの両肩を掴んだ。
そのまま予備動作なしのヘッドバッド。
「ふんっ!」
「ぎゃあ!!」
――痛ってぇ、この石頭が。
自分でやっておいて涙目になりながらも、ミツキは痛みに悶えるマオの頭に手を伸ばす。
「なにす――」
「ごめん」
短く言って、ミツキは残り少ない魔力を飛ばしてマオの意識を奪った。
魔力切れ間近もあって、不意打ちに不意打ちを重ねなければ通用しない力技。それを行使したことに罪悪感はある。――これからすることにも。
子猫が抗議するように声を上げるが、通常サイズに戻ったタマが子猫の首根っこを咥えて遠ざける。
ミツキはマオの意識がないことを確認してから、彼の左手を取った。赤猫から落ちたときにでもできたのか、手の甲が擦りむけて血が滲んでいる。
――傷つけなくて済むから、よかった。
意を決して、ミツキはその傷に舌を這わせた。
錆びた鉄を舐めたような味。血と一緒に入った砂が口内で嫌な食感を残していくのが、またどうしようもなく嫌悪感を煽った。
それでも飲み込んで、喉の奥、胃の底へマオの血が落ちると同時に、まるで炉に火を入れたかのように体が熱くなる。
「うっ……」
食物なら消化吸収してようやく魔力が回復するのに。
みるみるうちに体の内で魔力が膨れ唖上がって、暴れている。
頭の天辺からつま先まで、体中が熱い。今にも内から魔力が皮膚を突き破ってきそうな錯覚を覚えながら、ミツキはライナスの体に触れた。
魔力を与えすぎないよう、慎重に。
体の負荷に耐えながら、治療術を使うのはひどく難しい。一瞬でも手元が狂って余計なことをして、万一にでも腫瘍なんて作ってしまったらコトだ。
火傷痕を全部治療し終えた頃にはすでに疲労で目の前がくらくらした。それでもまだ魔力が増産され続けている。
――たった一滴で、ここまでか。
どうにかして治めないと、これはこれで死ぬかもしれない。
ミツキは更にマオの擦り傷や頭、それに自分の額の痛みを取り除いた。けれど、それでも落ち着かない。
「タマ、ごめん。頼める?」
呼び寄せた赤い猫は、子猫を咥えたままミツキの前に行儀よく座る。魔力を与えると一瞬で虎ほどの大きさになった。四肢から炎を放出しないように我慢してくれている。あともう少し引き受けさせたいが、それでは山火事を起こすかもしれない。
ほとんど回らなくなった頭を抱えて、適当に魔法でも、それこそ黒い鳩でも無意味に呼んでみるかと思い至ったところで子猫が「みぃ」と鳴いた。
「なに? あんたにも頼めるの?」
冗談交じりに言えば、子猫がまた鳴く。タマに首根っこを咥えられているのにも拘らず四肢をばたつかせるのでブラブラと揺れていた。
「あはは、いいよ。食べれるものならね」
タマから子猫を受け取って魔力を与える。通常ならここで弾かれるものだが。
「はぁ、マジか」
子猫はミツキの魔力を遠慮なく吸い込んで、タマと同じくらいの大きさに膨れ上がった。鋭い爪や牙に子猫のような可愛らしさはないが、顔に愛嬌が残っている。
精霊に魔力を与えられるのは、主かそれに準ずるもの。
ミツキはジト目をタマに向けた。
「この子、あんたの子ども?」
果たして、精霊の、それも猫の姿をしたものに罪悪感なんて感情があるのか。
一度だけフイと視線を逸らしたあと、タマはミツキの手にじゃれるようにすり寄った。
「……まあ、いいか」
今、それを追及するには消耗が激しすぎる。
続けて子猫に魔力を注ぎ込むが、この子猫はタマがしているように四肢から炎を出さない。賢い子だ。マオとは大違い。
それに、子猫はタマよりも多くミツキの魔力を持っていった。ひょっとすると、許容量が母親のタマより大きいのかもしれない。子猫はミツキの魔力が落ち着くまで食べ続けた。
「あっ……、なに、これ」
ようやく体の内が安定したと思ったら、急に目の前が明滅した。目の前が暗くなって、ノイズがかかったみたいに視界が乱れる。その上、誰かがミツキの頭を掴んで前後に揺らされるみたいにくわんくわんする。
まるで、嵐の中の船にいるような。
「う、っぷ」
魔力放出に急激な魔力増産、更に魔力放出を重ねた体は限界に近い。
ミツキは笑う膝をなんとか立ち上がらせて、マオたちから離れた茂みの向こうで、吐いた。




