幕間 黒い種は間引かれる
ヒース大公国東部、オルステッド伯爵領キルエシア。あいにくの大雨に見舞われたその日は、朝からどんよりとした厚い雲に天を塞がれていた。
オルステッド伯爵の私邸も例外なく強い雨音に叩かれ、手入れの行き届いた庭が雨になぶられるのを、主人であるヘイデン・オルステッドは書斎の窓から憂鬱に見ていた。
この雨で作物に影響が出なければいいが。
平年よりも雨脚が強い。長く続くようなら領民に注意を促し、避難所を提供しなければならなかった。諸々の予算を頭で軽く計算して、いつも背後に控えているはずの人間を振り向く。
「……ああ、いないんだったか」
経理を担うはずの家令は、先週、聖都で逮捕された。金に目がくらみ、他国を荒らしたのだから果たしてどれほどの刑量を食らうことになるだろう。
後ろ頭を掻いて、ヘイデンは事務机に座り直した。磨かれた木目の上に新しい紙を取り出し、予算案を書き出す。
どの貴族の領地でも、領地運用における細かな計算や書類の作成、資産管理は家令の仕事だ。家令であったロウ・エーメリーを失って、オルステッド家も早々に新しい人間を雇わなければならない。
予想できる被害額を大まかに算出して、次は国に災害後の協力と補填を要請する書類に取り掛かる。毎度家令にまかせっきりだった仕事は慣れない分時間がかかってしまう。
羽ペンが紙を掻くわずかな音と外の雨音以外に音はなく、屋敷はしんとして静かだった。普段なら女中がお茶の一杯でも持って来る頃合いにも拘わらず、書斎の扉が叩かれることもない。けれど、ヘイデンはそれに気付いていないのか、黙々と仕事をこなしている。
申請書の下書きが一段落するまで一気に書き続け、ふと彼が目を上げると。
「ただいま戻りました」
いつの間にか机の向こうに黒い影が立っていた。服と同じ黒い布で頭髪と口元を隠し、露出しているのは目元と指先だけ。平らかな胸部でかろうじて男だと判じられるが、それ以上の情報は読み取れない。
人目でカタギの人間ではないとわかる格好の男。しかし発せられた声に敵意はなく、ヘイデンもまた驚きもしなかった。
「誰にも見られなかったか」
「ええ、もちろん。みなさま、健やかに眠ってられますよ」
男が目だけで指した扉の向こう。屋敷のいたるところで使用人たちや伯爵夫人カロラインが、静かに寝息を立てていた。床に伏すもの、壁にもたれかかるもの。それぞれが今の今まで働いていた格好で意識を抜かれたように眠っている。
「ロウがむやみやたらと屋敷の人間に魔法を使い続けたお陰で、みんな睡魔の魔法に耐性ができていて苦労しましたけど」
「……怒っているのか」
「いいえ、滅相もございません」
訊いたところで、男は布の下で緩く笑うような風情を見せた。
「むしろ、ロウが愚か者であったから、背後に誰がいるのか疑うことなく素直に従ってくれたじゃないですか」
金をチラつかせただけで涎を垂らすような亡者でしたね。馬鹿にするように続けて、男はくつくつと笑った。
「ああ、そうだな」
頷いて、ヘイデンは羽ペンを置く。書類を抽斗に仕舞うと、改めて黒衣の男を見上げながら机の上で手を組んだ。
「それで、アレは盗み出せたんだろうな」
「ええ、もちろん」
男は懐から小箱を取り出して、机の上に丁寧に置いた。
「元呪術師掃討軍将軍、アドラム・マキュアスが管理していた古の呪具。炎の悪魔シャイリースを封じた赤い石」
言いながら黒衣の男が小箱の魔法鍵を外すと、中から金の指輪が現れた。太い金の輪の上に鎮座する親指の爪ほどの赤い石が、光を吸って鈍く輝く。
炎の悪魔シャイリース。古くより神話に語られる醜悪な獣。ひとたび姿を現わせば災害を招き、その地を瞬く間に焼け野原にする恐ろしい悪魔。親の言うことをきかないイタズラっ子を脅す怪物の代名詞。
黒衣の男はそのおとぎ話の悪魔がその石に封じられていると真顔で言い放った。
「思っていたより普通だな。そこらの宝石と変わらないのではないか」
「見た目は。ですが、隠し金庫にこれと一緒に保管されていましたので間違いないかと」
リュックから出てきた分厚い本に表題はない。中を開くと丁寧な筆跡が見られた。
筆者の名前は出てこないが、数頁流し見ただけで、呪術師狩りの記録だとわかる。おそらく、当時のマキュアス侯爵の手記だ。
「さすがに肝心のシャイリースの召喚方法までは書かれていませんでしたが、指輪の形は手記に出てくる通りです」
「本物か」
「でなければ困りますよ。金庫が厳重すぎて、結局屋敷ごと吹き飛ばす羽目になったんですから」
慎重に加減はしたが、吹き飛ばしたくせに中身は無事だったのだから、よっぽどの名職人が作った金庫だったのだろう。
「ああ、まったく。派手にやらかしたな」
「計画の内ですよ」
手に取ってみたものの、指輪から魔力は感じられない。それでもこれが本物だと裏付ける文章と一緒に厳重に保管されていたのだから、偽物とも考えにくかった。
ヘイデンは矯めつ眇めつ指輪を見て、けれど指にははめなかった。
子どものころ、悪さをするとシャイリースが来るぞと散々脅された悪魔がこの中にいる。大人になってから、子どものイタズラぐらいで炎の悪魔がすっ飛んでくるはずがないと一蹴したが。
けれど、たかだか空想の存在が古い時代から何世代にも渡って語り継がれ、災厄の獣と恐れられ続けるだろうか。――いや、きっと何か過去に発端となる出来事があったはずだ。
そう思うと、研究者気質のヘイデンの頭から炎の悪魔が消えなくなった。
幸いにしてヘイデンは伯爵家の生まれ。領民と違って時間もあれば、金もある。各地の細々とした史料を探し、時にはかつて炎の悪魔が焼け野原にしたという現地にまで赴いて研究し続けた。
どの書物もシャイリースの残虐さや醜悪さを強調しながらも、最後には退治され、赤い石に封じられたと締める。読み終わるたびに、またこれかと何度肩を落としたことだろう。
シャイリースを追い始めて十年を過ぎた頃だ。肩透かしの史料を漁る日々に飽いて、ある日、気まぐれに炎の悪魔を題材にした物語を手に取った。皮肉なことに、史実からシャイリースを紐解こうとしたヘイデンの求めた答えは物語の中にあった。
空想にしては具体的すぎる記述。いたるところから集めた史料と照らし合わせると、物語の運びは炎の悪魔が姿を現した地名や、破壊したものまで詳細に描かれている。
それはヘイデンと同じように炎の悪魔に憑りつかれた研究者が物語という形で残した研究成果だった。
ヘイデンが生まれるよりも五十年は昔に書かれた本は、人々に受け入れられなかったらしく、原本はこの一冊しかない。作者の行方もわからなかった。
ただ、この物語でシャイリースを封じた赤石は守護者を二転三転しながら、最後に西方の呪術師の手に渡って秘されたと締めくくられる。
五十年以上前、西方で呪術師が幅を利かせていたのはマールベイン王国だ。今でこそあらかた掃討されているが、昔はどこにでもいたらしい。
そこからあたりを付け、ヘイデンの父親であるホルキス・オルステッドに頼み込んで伯爵家に仕える“裏方”を借りた。
裏社会に通じる有能な“裏方”は即座に呪術師掃討の総責任者であったマキュアス侯爵を探し出し、当時の家令を死に追いやってこちらの手のものを滑り込ませた。
それから魔族との戦争を挟みながらも五年の歳月をかけ、策を弄したというのに。
――あの小娘がいなければ。
最悪でも、内情を知らないロウが切られるだけで済むはずだった。
勇者さえ絡んでこなければ、チェスターまで持っていかれることもなかっただろうに。――けれど、あれも筋金入りの男だ。オルステッド家の“裏方”を臭わせることもなく、適当な裏社会の人間に罪を擦り付けて、ほとぼりが冷めたあとで脱走でもするだろう。
苛立ちを治めながら、ヘイデンは指輪を小箱に戻す。
「まあ、今はわからずとも現物が手元にあればいずれ召喚も可能だろう」
「……そのときは」
「本当に炎の悪魔が国ひとつ焼け野原にするのか見ようじゃないか」
ヘイデンの研究について半信半疑の父からは、どうせならマールベイン王国を、と言われている。
マールベインが焼け野原になれば、復興の名目でヒースの軍を送れるし、そのまま駐留軍として長く置いておくことも可能だ。その間に水面下でどんな取引が行われるかは、ヘイデンの知ったことではない。
ヘイデンとしては、自分の研究が正しかったと証明できればそれでいいのだ。ついでに父がよろこべば、研究費をはずんでくれるかもしれないし、ともすれば兄ではなくヘイデンに“裏方”を継がせてくれるやも。
「それまではただの玩具だ」
召喚の方法を探るにはさらに研究が必要だ。
いかにこの指輪に炎の悪魔が眠っていたとしても、当家で保管している宝石の類と見た目は変わらない。
最後に一瞥くれてから、ヘイデンは小箱を閉じた。
――と、そのとき。
雨音ばかりの部屋にノック音が響いた。
「……っ!」
すぐさま黒衣の男を見たが、彼は目を合わせることなくヘイデンの背後の窓へ足音もなく走った。すばやく窓が開き、雨の音が大きくなったかと思うと男の姿はすでにない。
もし彼が使用人の誰かを見落としたのだとしても、それを咎めるより“裏方”の人間を隠すほうが先だ。
ヘイデンは窓を閉め、小さくため息を吐いてから扉の向こうにいるだろう使用人に声をかけた。
「入りなさい」
屋敷の人間が眠りこけている現状について、言い訳などない。
どの使用人にも呪詛をしかけている。ヘイデンが呪文ひとつ唱えれば、相手は勝手に都合のいい解釈をするか、記憶がなくなる。
あまりに便利で、――確かに、これは禁忌の外法として狩るには十分すぎるな、と我がことながらほくそ笑んだ。
「失礼いたします、オルステッド伯爵」
男の声がして、扉が開いた。
さっさと済ませてしまおうとして、ヘイデンは小さく呪文を唱える。
「一週間ぶりですね」
「――は」
最終節まできたところで、扉の影から相手の顔が出た。
通った鼻筋に、流れるような金の髪。碧い眼差しは柔らかで、形の良い唇はゆるく友好的な笑みを浮かべている。
男は貴族を訪ねるのに標準的な正装を身に纏っているが、腰には長剣を佩していた。
「アレクシス殿……?」
先週、聖都へ行った折に顔を合わせ、同じような顔を向けられた妻がこっそり頬を染めていたのは悪い意味で強く印象に残っている。
その美貌でほほ笑めば、どんな老女も二十代まで若返る、とまことしやかに囁かれているその男が、なぜ。
「ええ。先触れも出さずに申し訳ありません。伯爵に急用があったものですから」
「イリシアの聖騎士様が、私に? 当主の父ではなく?」
「ええ、他ならないヘイデン・オルステッド伯爵にです」
浮かべた笑みは、そういう形で張り付いているんじゃないかと思うほどブレない。その顔が机を挟んで差し向かいに迫った。
「……」
いかにこの男が笑っていても、書斎に来るまでに不自然に眠る使用人のひとりくらいは見ているはずだ。
――どう説明すべきか。
誰がどういう状態で、どこで眠っているのか把握していないヘイデンには、使用人がただ居眠りしているだけだ、などと下手な言い訳は使えない。
「でしたら応接間へ行きましょう。女中にお茶を用意させます」
ヘイデンが選んだのは、屋敷の状況は一切知らないという体だった。
苦しいが、下手に取り繕うよりは自然に振る舞ったほうがいい。何者かの侵入があったが、その凶刃がヘイデンに届く前に偶然アレクシスが到着したことにすれば。
あるいは希望的ではあるが、もしかすると彼が誰の姿を見ていない可能性もある。
使用人たちにかけられた魔法も、黒衣の男が逃げ際に解いたはずだ。今頃は何事もなかったかのように働き始めているだろう。
「いいえ、すぐに済みますのでこちらで結構です。伯爵のお手を煩わせるまでもありません」
顔に焦りは上らせていないはずなのに、アレクシスはヘイデンの所業を何もかも悟っているような顔をしているように見えた。
――なんだ、この男は。
仮にも大陸一の強さを誇るイリシアの聖騎士団団長だ。ただの優男ではないにしても、これではまるで。
――聖典の……、天秤様の前にいるような。
死した後、生前の善行と罪を計ると言われる天秤。イリシア聖教会の聖典に記され、その傾きによって来世が決まると言われる、イリシア教徒が崇めつつも畏怖するもの。
背筋にぞわりと冷たいものが走った。
「本題に入っても?」
「あ、ああ」
生唾を飲み、二の句の継げないヘイデンの代わりにアレクシスが口を開く。
「――チェスター・トールボットが全て話しました」
意味深に囁かれた言葉に、思わず声が出てしまいそうになるのをすんでのところで飲み込む。
――あれが吐くはずがない。そのように訓練された人間だぞ。
かまをかけられているのかもしれない。そう思うと、焦っていた頭が急に冷えた。
大方、万策尽きた聖騎士団が無理にでも証拠を掴もうとやってきたのだろう。貴族だからこそ、叩けば埃が出る家も多い。
ヒース大公国の中でも中枢に食い込むオルステッド家もまた歴史を長く積む中で“裏方”が必要になった事実がある。
「チェスターとは、確かマキュアス侯爵家の家令でしたね。……先日捕まった」
顔色に不安を浮かべて続ける。
「もしや、当家に何かしらの脅威が迫っているとでもおっしゃったのですか? それで団長様がこちらへ?」
善意の塊であるイリシア聖教会なら、団長を派遣するのも無理なことではない。
こちらから渡す情報はない。聖騎士団の情報もないはずだ。――なのに、なぜこの男はまだほほ笑みを崩さない。
「いいえ。そのようなことは」
「では、その罪人は何と?」
促すとアレクシスはヘイデンの背後の窓へ視線を投げた。つられて振り向いたが、そこには相変わらず暗雲が垂れこめる暗く寂しい景色が広がるばかりで。
先ほどそこから逃げた“裏方”の男の痕跡は何一つない。
「ご自分で白状してくださるなら、まだ情状酌量の余地もありましたが……」
突然糾弾するような言葉に慌てて振り返る。
そこにあのほほ笑みはなく、すっと細められた碧い双眸がヘイデンに向けられていた。
「残念だ」
視線よりも冷たい声。
まるで頭から冷水をかけられたように背筋が凍った。
「……いったい何をおっしゃっているのですか」
震えないよう声を張るのが精一杯だった。アレクシスの瞳から逃げるように勝手に目が逸れる。
こんな目は、見たことがない。どんな政敵でさえ、こんなむき出しの刃のような人間はいなかった。
「チェスター・トールボットは、あなたの研究も計略も、すべてを詳らかに話した」
「ご、ご冗談を」
――そんなはずはない。そんなはずが、あるわけながない!
チェスターはオルステッド家が一から育て上げた裏家業専門の人間だ。たとえ舌を噛み切ってでも当家の秘密は守る。それが体に、頭に刻まれているのだ。
この男はヘイデンが自白するよう揺さぶりをかけているだけに違いない。研究のことだって、ヘイデンが炎の悪魔の史料を集めているのは調べればすぐにわかる。
証拠はない。適当に言っているだけだ。
「わたしと、あの男に何の関係があるんです? ……もしや、我が国を陥れようとするマールベインの策略かもしれませんよ」
「心配しなくても、その可能性はない」
「なぜ言い切れるのです。あのような卑劣な人間が嘘をつかないとでも本気で信じておられるのですか」
聖騎士団団長ともなれば、やはり敬虔なイリシア教徒だ。イリシアの名のもとに罪を糺しはすれども、根底は善人であるはず。
無差別に他人を信じるのは、イリシア教徒の悪癖でもある。そこを突けば。
「私は生まれてこの方より教会にお仕えする身です。イリシア様に誓って、私は嘘など申しません。どうか、もう一度罪人をお調べになってください」
せいぜい嘘に振り回されればいい。その間に父がチェスター諸共対処してくれるだろう。
「――つまらない人だ」
ところが、アレクシスは帰るどころかため息交じりにそう言った。
「は……?」
「どこで知ったのか、シャイリースに迫る手段も実行力もあったにもかかわらずこの程度の言い訳しかできない。久しぶりに手強い相手になると期待したのに。わざわざひとりで乗り込んだ私が馬鹿だったよ」
「い、いま何と言った!?」
シャイリースに迫りながら……。
この男はそう言わなかったか。
「あなたがアドラムさんから盗んだ指輪は本物だ」
この指輪が正真正銘の本物。
机の上に忘れていた小箱に咄嗟に目がいく。
イリシア聖教会の聖騎士団団長の口から出た言葉は、身内の黒衣の男よりも重くヘイデンの胸に刺さる。
伝承は、嘘ではなかった。長い年月をかけた研究は間違っていなかった。
「ええ、だけど」
足音がした。
音に目を上げると、アレクシスが剣を抜いていた。
「なにを!?」
斬られる。瞬時にその光景が目に浮かぶ。
貴族として恥ずかしくない程度には剣術の嗜みはある。しかし、そうであるからこそアレクシスの隙のない動きに敵うという想像ができない。
「もうここにシャイリースはいない」
静かな声が紡がれる。
刺すように垂直に下ろされた剣は、机の上の小箱を貫いた。
その瞬間の音はヘイデンに聞こえていない。
箱ごと打ち砕かれた金が机の上に散らばり、次いでヘイデンの目は赤い石の欠片を認めた。
「あ、ああっ、そんな……、そんなはずがない。ここにシャイリースが封じられているはずだ。これは本物だと」
「これに封じられていたのは、ね」
震える声で言いながら、散らばった石を必死にかき集めるヘイデンにアレクシスは冷ややかに返す。
「それともうひとつ、大事なことを言っておこうか」
これ以上何があるのか。
本物だと言っておきながら指輪を砕き、すでにここに炎の悪魔はいないと言う。
これ以上に屈辱的なことなど。
「呪術師を抱えているのが、自分だけだと思わないことだ」
「――……ッ」
チェスターに呪詛をかけたのか。身の根底に刻まれたものを覆すほどの呪詛を。
それほどの呪術師が、この男の――、イリシア聖教会についている。
「ははっ! 毒には毒か。“聖”騎士とはよく言ったものだ!」
自嘲の声がそら寒く部屋の中に反響する。
皮肉にも、己が駆使した術で足元をすくわれた。屈辱に屈辱を重ねられ、最早ヘイデンは言い逃れをするつもりもない。
「穢らわしいな。……ああ、穢らわしいとも。我らが信じたイリシアとは何だったのか」
代わりに呪いの言葉を投げかけて、ヘイデンは天井を仰ぎ見る。
――頃合いだ。
逃げた黒衣の男が、そろそろ戻ってきて天井裏からでも様子を伺っているはず。
「降りてこい! こいつを殺せ!」
いくら殺す術に長けた“裏方”だろうと、本気でアレクシスに敵うとは思っていない。敵わずとも、ヘイデン自身が逃げられればそれで。
首都の実家まで逃げおおせれば、家名を汚したくない父が必ず揉み消してくれるだろう。
「おい、早く来い! 何をしている」
ところが、いくら呼んでも黒衣の男は現れない。
「だから、あなたはつまらないんだ」
本当に、つまらなさすぎる。
重いため息と一緒にアレクシスが吐き捨て、ゆっくりと机をまわり込む。
「最後まで自分の手を汚さないなんて、都合が良すぎると思わないかい?」
「よ、寄るな!」
アレクシスが握った剣の上に、部屋の明かりが滑った。
悪行を糺す聖騎士の剣。それがいくど血を吸ったことか。
「やめろ。私を殺せば父が……、ヒース大公国が黙ってないぞ!!」
「残念だけど、あなたは当にお父上から切り捨てられている」
「なん、だと!?」
「こちらに来る前に、教皇様直筆の手紙を届けさせてもらった。ホルキス・オルステッド伯爵は、あなたを勘当するそうだよ」
「馬鹿なっ! その手には乗らんぞ」
「信じるも信じないも、好きにしてもらって構わない。……ただし」
切っ先が突きつけられる。鋭い剣先に、無意識のうちにヘイデンは息を飲んだ。
「これ以上、私の手を煩わせるな」
剣の先よりも、その向こうに見える碧い眼光がヘイデンの背筋を震え上がらせた。
あと一歩でも動けば……。
気付けば小刻みに浅い息を繰り返すばかりで、喉からは擦り切れたような音が出ていた。
その場にしおしおと座り込むと、二度と立ち上がれないと思うほど心が真っ二つに折れていた。
大雨の中、護送馬車がオルステッド伯爵邸を出発する。
アレクシスはひとりでオルステッド伯爵邸に乗り込んだ、と言ったが、実際には屋敷の中へひとりで乗り込んだだけで、周辺は部下の聖騎士たちが包囲していた。
手早く縄を巻かれたヘイデンは護送馬車に乗せられ、イリシア共和国へ運ばれる。マールベインとイリシア両国に被害をもたらした彼は、イリシア預かりで裁判にかけられる。
伯爵邸の使用人たちは直ちに呪詛を解かれ、イリシア聖教会が新しい職を提供するだろう。夫人がどうなるかは、オルステッド家の問題だ。
アレクシスは護送馬車と共に伯爵邸を出発し、警備を固めながらの強行軍にやや辟易していた。
昨日イリシアを出発してから一晩休んだだけで、今日はほとんど雨でぬかるんだ悪路を馬で走り続けている。これに部下たちは文句ひとつ口に上げないのだから、本当によくできた騎士だ。
――出来の悪い妹弟子とは違う。
ふと上げた首は、おおよそイリシアの北方へと向いた。
フロリナ山に半ば自らを封じるように引きこもったミツキ。一連の事件の喉元に迫りながらも、首魁は取れなかった詰めの甘い勇者様。
彼女はいつもそうだ。運に恵まれながらも詰め切らないところは昔から治っていない。
間が抜けていて、見る限り英雄的な資質はない。そのくせ、妙に放っておけなくて自然と彼女の周りに人が集まる。
何もかもがアレクシスとは正反対で、だからこそ昔は気兼ねなく話せたし、惹かれたこともあったけれど。
魔王討伐の前後でその関係は一変する。腹芸のできないミツキはわかりやすく、常にアレクシスに怒りの炎を見せつけた。
ミツキはおそらく知っている。アレクシスが魔族との戦争中に犯した罪を。
――きみはいつ私を殺しに来るのかな。
弾劾の時まで、あとどれくらい待てばいいのだろう。
その時が来れば、心置きなく……――。




