第5話 夜会前特訓、開始します!
アルメイダ侯爵家の一室は、その日、たいへん華やかだった。
なにしろ、部屋いっぱいにドレスが広げられているのである。
「まあ……」
エスティバリスが、おそるおそる淡い藤色のドレスに触れる。
「こんなにたくさん、必要かしら」
「必要です!」
ルドミラは即答した。
「夜会は戦いですもの!」
「た、戦い……?」
「ええ。自分がいちばん素敵に見える色と形を見つける、華やかで優雅な真剣勝負です!」
「そんなに物騒なものだったかしら……」
エスティバリスは少し困ったように笑ったが、その表情はもう以前ほど硬くない。
夜会まであと数日。
ルドミラは、約束どおりエスティバリスの『付き添い兼相談役』として、特訓を始めていた。
ただし、礼法を本のように詰め込む気はない。
だって、ルドミラ自身がそういうのはあまり得意ではないからだ。
「まずはドレスです!」
ルドミラは鼻息も荒く、次々と布地を見比べる。
「この水色もお似合いですが、今日はもっと、お顔が明るく見えて、やわらかな印象になるものがいいです」
「やわらかく?」
「はい。ファブリシオ様の前で、エスティバリス様の魅力を最大限に引き出すために!」
「ル、ルドミラ……!」
名前を出しただけで、エスティバリスの耳が赤くなる。
たいへんわかりやすくてよろしい。
ルドミラは腕を組み、真剣に考え込んだ。
「やはり薄紅です」
「また?」
「またです。わたくし、この件に関しては一歩も引きません」
「そんなに」
「はい。上品で、でもちゃんと華やかで、エスティバリス様のやさしい雰囲気にぴったりですもの」
侍女たちが何着か候補を持ってくる。
薄紅、青みのある灰桜、乳白色に銀糸の刺繍、落ち着いた藤色。
どれも高そうだ。ものすごく高そうだ。
ルドミラは触るたびに「わあ……」と内心で少しだけ緊張したが、表には出さない。
今の自分は侍女見習いではなく、相談役なのだから。
「では、順番に合わせてみましょう!」
「い、今から?」
「はい! ほら、こちらへ!」
ルドミラに背を押され、エスティバリスは鏡の前へ立つ。
最初に薄い水色、次に藤色、そして薄紅。
最後の一着をまとった瞬間、ルドミラはびしっと指を差した。
「これです!」
侍女たちも、思わず顔を見合わせる。
「……たしかに」
「お似合いですわね」
「お顔映りがとても」
エスティバリスは鏡の中の自分を見つめ、少しだけ目を丸くした。
「わたくし……こんな色も、大丈夫かしら」
「大丈夫どころか、断然おすすめです!」
ルドミラは胸を張る。
「やさしそうで、上品で、でもちゃんと目を引きます。エスティバリス様のよさがいちばん出ます!」
「そ、そう?」
「そうです!」
断言されると、エスティバリスは少し照れたように笑った。
その笑顔が、また薄紅によく似合う。
ルドミラは満足げにうなずいた。
「よし、衣装は決まりです。次は笑顔!」
「笑顔」
「はい、鏡の前へ!」
再び鏡の前に立たされ、エスティバリスは少しだけ緊張した顔をする。
「そんなに難しいことではありません。まずはいつものように笑ってください」
「いつものように……」
エスティバリスはにこっとしてみせた。
上品だ。かわいらしい。文句なく令嬢らしい。
だが、ルドミラは慎重に言った。
「すこしだけ、がんばっている笑顔です」
「えっ」
「きれいです。でも、きれいすぎて、話しかけにくいかもしれません」
「まあ……!」
たいへんな衝撃を受けた顔をしている。
「で、では、どうすれば」
「もう少しだけ力を抜きましょう。こう、目元をやわらかくして……うれしいことを思い出す感じです」
「うれしいこと」
「ええ。たとえば、おいしいお菓子とか」
「お菓子」
「かわいい小鳥とか」
「小鳥」
「それか――」
ルドミラは、にやりと笑った。
「ファブリシオ様」
「ルドミラ!?」
ぱっとエスティバリスの表情が変わる。
頬がほんのり染まり、目元がふっとやわらかくなった。
ルドミラはすかさず鏡を指した。
「今です! 今の笑顔です!」
「えっ」
「ほら、すごく自然で素敵です!」
「そ、そんな……」
「やはり、恋は偉大ですね」
「大きな声で言わないで……!」
エスティバリスは恥ずかしそうに顔を隠した。
でも、その仕草もまた可憐で、ルドミラのやる気はますます高まる。
「よし、次は会話です!」
「まだあるの?」
「もちろんです!」
◇
午後になると、特訓は『夜会の会話練習』へと移った。
小さなテーブルを挟んで、ルドミラとエスティバリスが向かい合う。
侍女たちは最初こそ少し戸惑っていたが、今では半ば面白がりながら見守っていた。
「では始めます。わたくしがファブリシオ様役をいたします」
「それは、少し恥ずかしいのだけれど」
「大丈夫です。わたくし、意外とそれっぽくできますから」
「どこから来るの、その自信は」
「勢いです」
ルドミラは喉を整え、ちょっとだけ落ち着いた声音を作る。
「こんばんは、エスティバリス嬢。本日はよい夜ですね」
「こ、こんばんは……ファブリシオ様も、お変わりなく……」
「いいですね! でも少しだけ固いです」
「もう!?」
「もっと気楽で大丈夫です。ほら、堅苦しいご挨拶のあと、一言だけ足しましょう」
「一言?」
「はい。『お会いできてうれしいです』とか」
「そんなこと、言ってしまっても……」
「言っていいに決まっています」
ルドミラは身を乗り出した。
「だって、うれしいのでしょう?」
「それは……そう、だけれど」
「では伝えるべきです」
「そんな簡単に」
「簡単ではなくても、伝わったほうが素敵です!」
勢いよく断言すると、エスティバリスは口元を押さえて笑った。
「あなた、本当にそういうところがまっすぐね」
「よく言われます」
「それで、少し羨ましくなるの」
「でしたら、今日は少しだけ真似してください」
ルドミラは、テーブルの上に指先で軽く合図を出した。
「ではもう一度。こんばんは、エスティバリス嬢」
「……こんばんは、ファブリシオ様」
「はい」
「お会いできて……うれしいです」
言い終えた瞬間、エスティバリスは顔を真っ赤にした。
だが、今度は笑顔が崩れなかった。
ルドミラは思わず拍手する。
「素敵です!」
「ほ、本当?」
「はい! とても自然でした」
「自然、だったかしら」
「少なくとも、最初よりずっと」
エスティバリスはほっと息をついた。
「少しだけ……言えそうな気がしてきたわ」
「その調子です!」
そこへ、控えめなノックが入る。
「失礼します」
低い、聞き慣れた声だった。
ルドミラが振り返ると、案の定ウリセスが立っていた。
「ウリセス様」
「また来た」
「毎回それを言うのですね」
「だって毎回いらっしゃるので」
「アルメイダ侯爵家に用がある」
「もう聞きました」
ウリセスは室内の様子を見渡した。
並べられたドレス、鏡、テーブルを挟んで向き合う令嬢二人。
その空気は、以前とはずいぶん違っていた。
「……楽しそうだな」
ぽつりと、彼が言う。
「はい!」
ルドミラはにこっと笑った。
「今、笑顔の練習と会話の特訓をしております」
「見ればわかる」
「エスティバリス様、とてもお上手になられたんですよ」
「そちらも見ればわかる」
ウリセスはそう言いながらも、どこか感心したようにエスティバリスを見た。
「たしかに、顔つきが変わった」
「え……」
エスティバリスが驚く。
「よい意味で、な」
ウリセスはぶっきらぼうに続けた。
「前より明るい」
エスティバリスは少し目を丸くし、それから恥ずかしそうに微笑んだ。
「ルドミラのおかげです」
「そうだろうな」
ウリセスの視線が、今度はルドミラに向く。
「君は妙にこういうことに向いている」
「妙、は余計です」
「褒めている」
「顔が怖いので伝わりにくいです」
「伝え方に注文をつけるな」
だが、そのやり取りをしている間にも、ルドミラはどんどん気分が乗っていた。
不思議だった。
侍女見習いのときのような「やらかしてはいけない」という息苦しさがない。
ガヴァネス見習いのときのような「ちゃんと教えなくては」という焦りもない。
ただ、目の前の人が少しでも自信を持てるように、少しでも笑えるようにと考えて動いているだけなのに、それがするすると形になっていく。
楽しい。
こんなふうに人を手伝うのは、すごく楽しい。
「ルドミラ?」
エスティバリスが首をかしげる。
「どうかなさいました?」
「いえ、なんだか」
ルドミラは少し照れくさく笑った。
「こういうの、好きなのだなあと、今さら気づきました」
「今さら」
ウリセスが呟く。
「君は本当に自分に鈍い」
「何ですか、それは」
「そのままの意味だ」
けれど、彼の声はどこかやわらかかった。
ルドミラは小さく首をかしげつつ、すぐに気を取り直す。
「では、次は立ち方です!」
「まだあるのね」
「もちろんです!」
◇
窓の前に立ち、エスティバリスは深呼吸をする。
ルドミラはその背中を見ながら言った。
「緊張したときほど、胸を閉じないことです」
「胸を閉じない?」
「はい。こうして肩が内側に入ると、ますます苦しくなります」
ルドミラは自分でやってみせる。
「肩を少しだけひらいて、視線を上げて、息をゆっくり」
「こう?」
「はい、そんな感じです。とてもきれいです」
「……少しだけ、楽かも」
「でしょう?」
そのままルドミラはエスティバリスの前に立ち、にこっと笑った。
「では、想像してください。目の前にはファブリシオ様がいらっしゃいます」
「いきなり」
「いきなりです」
「心の準備が……」
「夜会は待ってくれません!」
もっともらしく言うと、エスティバリスは少し笑い、それから息を整えた。
「こんばんは、ファブリシオ様」
「はい」
「今日の夜会、とてもにぎやかですね」
「いいですね!」
「えっ、本当?」
「はい。自然ですし、続けやすいです」
「続けやすい……」
「それに、相手も答えやすいです」
ルドミラはうんうんと何度もうなずいた。
「そこから、『最近はいかがお過ごしですか』でもいいですし、『このお花、素敵ですね』でもいいです」
「そんなことでいいの?」
「いいんです。大事なのは、完璧な言葉ではなくて、話してみようと思う気持ちですから」
エスティバリスは、少しだけ黙り込んだ。
それから、ぽつりと言う。
「……わたくし、本当は」
「はい」
「ファブリシオ様に、お会いできてうれしいと伝えたいの」
「はい」
「でも、それだけで十分な気もするし、それ以上を言いたくなる自分が、少しだけこわいわ」
ルドミラはその言葉に、じっと耳を澄ませた。
この人はきっと、ずっとそうやって自分の気持ちを飲み込んできたのだろう。
言いすぎてはいけない、近づきすぎてはいけない、失礼があってはいけないと。
でも。
「言いたくなるのなら、それは大事な気持ちです」
ルドミラは、まっすぐに言った。
「全部を一度に伝えなくてもいいんです。でも、『うれしい』の一言くらいは、ちゃんと届いたほうが、きっと素敵です」
「……そう、かしら」
「はい。だって、言われた相手もきっとうれしいですもの」
エスティバリスは、ほんの少し目を潤ませて笑った。
「あなたって、本当に不思議」
「よくわかりませんけれど、褒め言葉としていただきます」
「ええ、褒めているの」
そのやり取りを、少し離れた場所で聞いていたウリセスが、ふっと息を吐いた。
「……だめだな」
「何がですか?」
ルドミラが振り返る。
「君を見ていると、ますます放っておけない」
「それ、最近よくおっしゃいますね」
「自覚はないのか」
「何のです?」
「いや、なんでもない」
言いかけてやめたその表情は、やっぱり少しだけずるい。
ルドミラは首をひねったが、今はそれよりエスティバリスだ。
「では最後に、もう一度だけ笑顔の練習をしましょう」
「また?」
「はい。今度は、『お会いできてうれしい』を思い浮かべながら」
「……わかったわ」
エスティバリスは鏡の前に立ち、そっと息を吸う。
肩をひらいて、視線を上げて、少しだけ力を抜く。
そして、ふわりと笑った。
その笑顔は、最初に見た『きれいだけれどがんばっている笑顔』ではなかった。
やわらかくて、あたたかくて、見た人まで少し安心するような笑みだった。
ルドミラは思わず、胸の前でぎゅっと拳を握る。
「素敵です」
「本当に?」
「はい。本当に」
「それなら……少しだけ、自信が持てるわ」
よかった。
心の底からそう思った。
自分のことのようにうれしい。いや、下手をすると自分のこと以上にうれしいかもしれない。
こうして誰かの背中を押すことが、自分はこんなに好きだったのだ。
夜会まであと少し。
できることは全部やろう。
ルドミラがそう決意した、そのときだった。
扉の外から侍女の声が届く。
「エスティバリス様、夜会のお支度の最終確認が整いました」
「まあ、もうそんな時間」
エスティバリスが小さく息をのむ。
ルドミラはぱっと彼女の前に立った。
「大丈夫です」
「ルドミラ」
「今日は、あなたがいちばん素敵ですから」
薄紅のドレスに身を包んだエスティバリスは、はっとしたように目を見開き、それから静かにうなずいた。
「……ええ」
その顔には、もう最初の頃の怯えた色はほとんどない。
緊張はしている。けれど、逃げたい顔ではなかった。
ちゃんと前を向こうとしている顔だ。
ルドミラは胸を張った。
よし、準備はできた。
あとは夜会本番で、この恋を少しだけ後押しするだけである。




