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第九話 揺れる境と、ほどける距離

 夜はなお、ひっそりと息を潜めていた。

けれどそれは、何事も起きていない夜の穏やかさではなかった。屋敷の隅々にまで張りつめた気配が薄く行き渡り、次の瞬間を待ち構えているような、そんな沈黙だった。

 自室へ戻った小夜は、襖を閉めてもしばらくその場を動けなかった。黒曜の部屋を出てきたはずなのに、まだ胸の奥にはあの部屋の空気が残っている。低い声も、月明かりに照らされた藍色の髪も、そして最後に向けられた眼差しも、ひとつ残らず胸の内へ沈んでいた。


 ――守ると決めた。


 たったそれだけの言葉が、どうしてこれほど深く残るのか、自分でも分からない。


 小夜はゆっくりと布団へ腰を下ろし、袖の内から髪紐を取り出した。薄藍の布を指先で撫でる。柔らかな感触が肌に触れるたび、胸の奥で何かが微かに揺れた。

 自分は今まで、誰かに守られることなど望んではいけないものだと思っていた。望めば、失う。期待すれば、その分深く傷つく。だから初めから何も求めず、何も求められずにいる方が楽なのだと、そう思い込んできた。

 それなのに、黒曜の言葉は、その思い込みを静かに崩していく。

 守ると決めた、と。あの人はそう言った。恩でも、罪でもなく、ただそう決めたのだと。


 小夜はそっと目を伏せた。

 その言葉を思い出すたび、胸の奥に静かな熱が灯る。怖いのに、その熱に触れている間だけは、どこにも行き場のなかった心がようやく留まる場所を得たような気がした。

 こんな感情に名前をつけてしまえば、何かが大きく変わってしまう気がして、小夜はまだそれを知らないふりをしていた。


 その時だった。

 障子の向こうで、白いものがひとつ、すっと横切った。

 はっと顔を上げる。

 ひとつではない。ふたつ、みっつ。白い欠片は音もなく夜の闇を滑り、障子へ触れては微かな震えを残していく。昼間、木立の奥で見たものと同じ気配だった。

 小夜は息を呑む。

 白いものは消えていない。ただ、息を潜めていたのだ。

 胸の奥が、強く脈打つ。

 怖い。けれど、それ以上に、あの人が一人でそれに向き合っているのだと思うと、胸の奥が掻き乱された。

 今夜はこれ以上外へ出るな、と言われた。それでも、小夜の足は前へと進んだ。



 襖を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。

 廊下は暗く、しんとしている。けれどその静けさの底には、ざらりとした異物のような気配が確かにあった。屋敷の奥から、微かな軋みが聞こえる。氷が薄くひび割れるような、そんな音だ。

 白い欠片は、廊下の先へ流れていた。導かれるように、小夜は歩き出す。


 角を一つ、二つ曲がる度、冷気は濃くなった。障子の桟には霜が浮き、足元の板の間にまで薄い白さが滲んでいる。呼吸をする度喉の奥が冷えた。


 やがて広間の前へ辿り着く。

 襖は半ば開いていた。その隙間から、白い光が滲んでいる。小夜は音を立てぬよう、その隙間から中を覗いた。

 庭は白く染まりかけていた。

 雪ではない。無数の細かな欠片が、夜の空気そのものを白く濁らせている。木立の奥には、昼間見た異形が、今はよりはっきりした輪郭を持って立っていた。人の形をしているようでいて、人ではない。霧と氷を寄せ集めたような身体が、夜気の中で静かに揺れている。

 その手前に、黒曜が立っていた。

 藍色の背が、冷たい白の中でひどく鮮やかに見える。

 黒曜は何も言わず、ただ異形を見据えていた。けれど、その背に宿る気配は鋭い。近づくことを許さぬ、張りつめた刃のようだった。

 小夜は思わず一歩、前へ出かけた。

 その時、異形の“目”が、ゆっくりとこちらを向いた。

「――っ」

 見つかった、と思うより先に、白い欠片が一斉に襲いかかってきた。

「小夜!」

 黒曜の声が鋭く響く。

 次の瞬間、小夜の身体は強く引かれていた。

 腕が回り、視界が反転する。気づけば黒曜の胸へ押しつけられるように抱き寄せられ、畳の上へ引き倒されていた。頭上を白いものが鋭く走り、直後、背後の襖が裂ける音が響いた。

 小夜は息を詰めたまま、黒曜の衣を掴む。

 耳元で、低く速い鼓動が鳴っていた。自分のものではないと気づくまでに、少し時間がかかった。

「動くな」

 黒曜の声が落ちる。

 低く抑えられているのに、そこにははっきりとした焦りがあった。

 こんな声を聞くのは初めてだった。

 小夜の指先が、無意識に黒曜の衣をさらに強く掴む。

 離れたくない、と身体が先に知ってしまっていた。

 外ではなお、白い欠片が荒れ狂っている。だが、その中心にある黒曜の腕の中だけが、異様なほど熱を持っていた。

「……どうして来た」

 責めるような声音だった。けれどその奥にあるのは怒りではないと、小夜には分かった。

「……すみません」

 小さく答える。

 けれど、そのまま口を閉ざすことはできなかった。

「でも……」

喉の奥が詰まる。

「黒曜様が、ひとりであれに向き合っているのだと思ったら、どうしても部屋にいられませんでした」

 言った瞬間、自分で自分の言葉に息を呑んだ。

 黒曜の腕が、わずかに強くなり、沈黙が落ちた。

 その沈黙の中で、異形の気配がゆらりと揺れる。白い欠片が再び集まり、こちらを狙うように空気を震わせた。


『巫女』


 ひび割れた声が響く。小夜の身体が強く震える。

 だがその肩へ、黒曜の手がしっかりと添えられた。

「来るな」

 低く鋭い声。

 黒曜は立ち上がると、小夜を庇うように前へ出た。その背が、今はひどく近い。遠い存在としてではなく、手を伸ばせば届く場所に立つ人として、はっきりとそこにある。

 異形がうねり、白い腕を伸ばす。

 黒曜が一歩踏み込むたび、空気が軋むように鳴り、白いものが砕け散る。冷気が爆ぜ、庭石に新たな霜が走った。

 小夜はその背を見つめたまま、動けなかった。

守られているのだと分かる。けれど今は、その背に隠れているだけではいられなかった。そうしている間にも、この人が自分の前で傷つくかもしれないと思うと、胸の奥が鋭く痛んだ。

 そう思ってしまった瞬間、自分の中で何かが音を立てて変わった気がした。

「……違う」

 小さく呟く。

 守られるだけでは足りない。

 その思いに押されるように、小夜は立ち上がっていた。

「小夜!」

 黒曜が振り返る。

 けれど小夜は止まらない。震える足を前へ出す。白い欠片が頬を掠め、指先へ触れ、皮膚を薄く裂いた。痛みが走る。それでも、小夜は異形から目を逸らさなかった。


『巫女』


 声が、頭の奥へ直接響く。

 怖い。息が苦しい。それでも、小夜は口を開いた。

「……あなたは、何ですか」

 声は震えていた。

「どうして、私を探すんですか」

 異形が大きく揺れる。

 答えは返らない。ただ、その存在が強くなるばかりだった。

 その時、背後から腕を引かれた。

 次の瞬間、小夜は再び引き寄せられ、今度は先ほどよりも逃がすまいとするような強さで抱き込まれた。

「もういい」

 黒曜の声が、すぐ近くで落ちる。

 そこには、はっきりとした怒りが混じっていた。

「それ以上、前へ出るな」

 小夜は息を呑んだ。

 だが、その腕の強さの奥にあるものを感じ取ってしまう。

 怒りではない。

 ――恐れだ。

「……黒曜様」

 名前を呼ぶと、腕がわずかに緩む。

 小夜はそのまま黒曜を見上げた。こんなに近くでその顔を見るのは初めてに近い。月明かりの下で、琥珀色の瞳は痛いほど真っ直ぐに小夜を映していた。その奥にあるものを、今なら少しだけ読み取れる気がした。

「私……」

 言葉が自然と零れる。

「あなたが傷つく方が、嫌です」

 黒曜の呼吸が、ほんの一瞬止まった。

 小夜自身も、その言葉の意味を完全には理解していなかった。けれど、嘘ではない。

 沈黙が落ちる。

 その中で、異形の気配がわずかに後退する。白い欠片が揺らぎ、夜の中へ散り始めた。

 黒曜はしばらく何も言わなかった。

 やがて、低く呟く。

「……本当に、お前は」

 その先の言葉は、続かなかった。

 ただ、抱き寄せる腕だけが、もう一度わずかに強くなる。

 それは拒絶ではなく、離さぬための力だった。

 白い欠片は、ゆっくりと夜の中へほどけていく。異形の輪郭も、木立の奥で再び曖昧になり、やがて気配だけを残して薄れていった。

 静けさが戻る。

 だが、小夜の胸の中は少しも静まらなかった。

 守られているだけではない。守りたいと思ってしまった。

 それが何なのか、まだうまく言葉にできない。けれど、もう元の距離へは戻れない。

 黒曜の腕の中で、小夜はそっと目を伏せる。

 胸のすぐ近くで鳴る鼓動が、自分のものと重なっている。近すぎる距離に息が苦しくなるのに、離れたくはなかった。

「……戻るぞ」

 ようやく黒曜が言う。

 その声はいつもの静けさを取り戻していたが、完全ではなかった。小夜を抱く腕も、すぐには離れない。

 小夜は小さく頷く。

 黒曜はゆっくりと腕を解き、小夜を立たせた。だが、完全に距離を取ることはしなかった。白い欠片がまだわずかに漂う中、黒曜は小夜を背に庇うように歩き、広間の内側へと戻る。

 その背を見つめながら、小夜は胸元の髪紐を握った。

 白い異形の脅威は去っていない。村のことも、自分が巫女であることも、まだ終わってはいない。これから先、さらに知るべきことがあるのだろう。

 それでも今夜、小夜の中で確かに変わったものがあった。

 黒曜のために怖いと思った。黒曜が傷つくことを、嫌だと思った。そして、黒曜の腕の中が、恐ろしい夜の只中でただ一つ安心できる場所だと、知ってしまった。

 それが何を意味するのか、小夜にはまだ分からない。けれど、分からないままでも、胸の奥ではもう確かに何かが始まっていた。

 部屋へ戻る前、黒曜がふいに足を止める。

「小夜」

 呼ばれて、小夜は顔を上げた。

 黒曜は振り返らなかった。ただ、前を向いたまま低く言う。

「次からは、危険だと思った時には私を呼べ」

 その声音は、叱責にも命令にも聞こえた。けれど、その奥には押し隠しきれない何かがあった。

 小夜は小さく息を呑み、それから静かに答える。

「……はい」

 返事をした後、胸の奥がまた熱を帯びる。

 呼べ、と言われた。頼れ、と。

 それがどういう意味を持つのか、今はまだ分からない。けれど、その一言がどうしようもなく嬉しいと感じてしまう自分を、もう誤魔化せなかった。


 藍色の夜は深く、静かだった。

 けれどその静けさの底で、白いものはなお次の時を待ち、過去の真実もまた完全には語られぬまま残されている。何ひとつ終わってはいない。むしろ、ここから先こそが本当の始まりなのだと、夜そのものが告げているようだった。

 小夜は黒曜の背を見つめながら、そっと髪紐を握りしめる。

 この想いにまだ名前はつけられない。

 それでも、自分の中でほどけ始めたものは、もう二度と、元の形には戻らないのだと小夜は静かに感じていた。

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