第十話 呼ばれるものと、応える意思
その夜、小夜は、自室へ戻ってからもしばらく眠ることができなかった。
襖を閉めて、ようやく一人きりになったはずなのに、胸の内にはなお、先ほどまでの気配が濃く残っている。白い欠片の冷たさも、異形のひび割れた声も、まだどこか遠くでこちらを窺っているように感じられた。けれど、それ以上に小夜の心を落ち着かなくさせていたのは、黒曜の腕の中にいた時の感触だった。
背中へ回された腕の強さも、耳元へ落ちた焦りを含んだ声も、あれほど近くで見た琥珀色の瞳も、思い返すたび胸の内に生々しく蘇った。
小夜は布団の上に座り込み、胸元で髪紐を握りしめた。
あの時、自分は確かに思ったのだ。守られている安心より先に、この人が傷つくことの方が嫌だ、と。
それが何を意味するのか、まだうまく言葉にはできない。けれど、もう知らないふりはできなかった。胸の奥でほどけ始めたものは、きっともう元には戻らない。
障子の向こうは静かだった。白い欠片が再び現れる気配も、今のところはない。だが、それは消えたからではない。ただ、次の時を待っているだけなのだろう。
小夜はそっと指先へ目をやった。異形へ向かって歩いた時、白い欠片に掠められた場所が、細く赤く裂けている。浅い傷だが、じんじんとした熱を持っていた。
その時、控えめに襖を叩く音がした。
小夜ははっと顔を上げる。こんな時刻に誰かが来るとは思わず、一瞬、また白いものが来たのかと身構えた。けれど、聞こえた声は低く落ち着いていた。
「……起きているか」
黒曜だった。
小夜の胸が強く脈打つ。
「は、はい」
返事をすると、わずかな間を置いて襖が開いた。
部屋へ入ってきた黒曜は、いつものように静かだった。だが、その静けさの底にはまだ先ほどの張りつめた気配が残っている。視線が小夜の顔をかすめ、次いで膝の上の手元へ落ちた。
「手を出せ」
短い言葉に、小夜はきょとんとする。
「……え」
「傷を負っただろう」
そう言われて、小夜は自分の指先へ視線を落とした。白い欠片に切られたところから、薄く血が滲んでいる。自分では大したことはないと思っていたが、黒曜の目はそれを見逃さなかったらしい。
小夜は少しだけためらったものの、そっと手を差し出した。
黒曜は小さな布を持っていた。指先を取られた瞬間、小夜は思わず息を詰めた。大きな手だった。冷たいわけではない。むしろ、驚くほど静かな温かさがあった。
黒曜は何も言わず、傷口を確かめるように指先を支え、それから手際よく布を巻いていく。
小夜はその横顔を見つめていた。灯りを受けた藍色の髪が、今夜はひどく静かに見える。こうして触れられる距離にいるのに、この人はまだどこか遠い。けれど、完全に手の届かないところへ立っているわけではないのだと、今はもう分かっていた。
「……痛むか」
黒曜が低く問う。
小夜は小さく首を振った。
「大丈夫です」
答えながら、自分の声が少しだけ掠れていることに気づく。
黒曜はそれ以上何も言わなかったが、布を結ぶ手つきは思いのほか丁寧だった。乱暴になど扱わない。壊れものに触れるような慎重さが、かえって小夜の胸を落ち着かなくさせた。
「……どうして」
思わず、小夜は呟いていた。
黒曜の手がわずかに止まる。
「何がだ」
「こんなふうに……」
うまく言葉が見つからない。
「わざわざ、来てくださって」
黒曜は結び終えた手を離さず、そのまま小夜を見た。
「怪我をしたのは、お前が勝手に前へ出たせいだ」
声は低く、いつも通り簡潔だった。 「だが、だからといって放ってはおけん」
責めるような言い方のはずなのに、小夜にはその奥にあるものの方がはっきりと伝わってきてしまう。放っておけない。それはつまり、気にかけているということだ。
黒曜はようやく手を離し、少しだけ距離を取った。だが立ち去る気配はない。どこか、言うべきことを選んでいるように見えた。
「さっき、お前が見たもののことだが」
小夜の背筋が伸びる。
「……はい」
「昼間の異形と、今夜お前が感じたものは、同じであり、同じではない」
黒曜は窓の方へ視線をやった。
「境に滲むものは、多くが形を持たぬ。ただ、強い未練や執着を抱えたまま留まったものは、時にああして輪郭を帯びる」
小夜は昼間の白い影を思い出す。人のようでいて人ではない、あの曖昧な形。そして今夜、頭の奥へ響いた声。
「それは……人、だったものですか」
恐る恐る問うと、黒曜はしばらく黙ったのち、静かに頷いた。
「おそらくは」
断言しないその言い方が、かえって胸の内を冷やした。
「完全には分からん」
黒曜の声は低い。
「だが、あれにはお前を探す理由がある。そしてお前もまた、あれに呼びかけられたことで、何かを感じたはずだ」
小夜は膝の上の髪紐を握る。
怖かった。けれど、それだけではなかった。あれがただ恐ろしい存在なら、なぜあんなふうに胸の奥が締めつけられたのか説明がつかない。
「……悲しかったんです」
小夜はぽつりと言った。
黒曜が目を細める。
「怖いのに、それだけじゃなくて……何か、置き去りにされたものを見ているみたいで」
自分でもうまく説明できない。
「私を探している、というより……誰かが、ずっと返してほしいものを探し続けているような」
言葉にすると、胸の奥がもう一度痛んだ。
黒曜は黙ったまま小夜を見つめていた。その眼差しには、驚きよりもむしろ確かめるような色があった。
「……やはり、お前には見えている」
ほとんど独り言のような声だった。
小夜は顔を上げる。
「何がですか」
黒曜はすぐには答えなかった。答えるべきか迷っているようにも見える。だが、以前「もう隠さない」と言った以上、誤魔化すつもりはなさそうだった。
「この山と、お前の村は、もっと前から繋がっていた」
その言葉に、小夜は息を呑む。
「お前が生まれる前から、巫女の力を持つ娘は時折現れていた」
黒曜はゆっくりと言葉を選ぶ。
「そのすべてが、守られていたわけではない」
部屋の空気が静かに冷える。
「村は、山で異変が起きるたび、境を鎮めるための娘を必要としてきた」
「……差し出していたんですか」
「そうだ」
小夜の喉が詰まる。
自分だけではなかったのだ。村はずっと前から同じことを繰り返してきた。そのことが、胸の奥へ鈍い痛みのように沈んでいく。
「じゃあ、今夜のあれは」
「その“残り”かもしれん」
黒曜はそう答えた。
「捨てられたまま、境に取り残されたものだ。だが、ただ哀れむだけでは済まん。向き合えば、お前自身の記憶もさらに開く」
小夜は息を呑む。
「それでも見るのか」
低く問われた言葉に、逃げ場はなかった。
白い異形。ひび割れた声。返せ、と繰り返した響き。それがもし、ただの怪異ではなく、かつて誰かだったものの成れの果てだとしたら――。
「……放っておけません」
気づけば、そう言っていた。
黒曜の表情がわずかに動く。
「怖いです。でも、放っておくなんて……」
小夜は自分の指先を見下ろした。布の巻かれた傷はまだ熱を持っている。
「もしあれが、本当に置き去りにされた誰かなら……私と同じように、誰にも選ばれなかったまま残されたのだとしたら」
黒曜の瞳が、静かに揺れた。
小夜は顔を上げる。
「私、会いたいです」
はっきりとした声だった。自分でも驚くほど、迷いがなかった。
「きちんと向き合いたい。怖いからこそ、ちゃんと見たいです」
そこで一度、息を整える。
「そして、できるなら……終わらせてあげたい」
言い切ったあと、部屋は深い沈黙に包まれた。
黒曜は何も言わず、ただ小夜を見ている。その視線の重さに、胸の鼓動が早まる。軽々しく口にしたわけではない。けれど、その願いがどれほど危ういものか、自分でも分かっていた。
「それがどういうことか、分かっているのか」
やがて黒曜が問う。
「分からないことの方が多いです」
小夜は正直に答えた。
「でも、分からないからやめるのではなくて……分からないからこそ、知りたいんです」
黒曜は目を伏せる。
「お前は本当に、後戻りを選ばないな」
その声音には、苦さと、どこか諦めに似た響きが混じっていた。だが小夜には、それがただ拒絶しているわけではないと分かる。
「……はい」
小夜は小さく頷く。
長い沈黙ののち、黒曜はゆっくりと息を吐いた。
「ならば、止めはしない」
小夜の胸が鳴る。
「だが、条件がある。私の側を離れるな」
黒曜の声は低く、はっきりとしていた。
「お前ひとりで向き合うことは許さない。見るのなら、私の目の届くところで見ろ」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
止めるのではなく、側に置くと言っている。危険だから遠ざけるのではなく、危険ごと引き受けるつもりなのだと、小夜には分かった。
「……はい」
小夜は静かに答えた。
黒曜はそれでもすぐには視線を外さなかった。まるで、その返事が本心かどうかを確かめるように小夜を見つめ、それからようやくわずかに表情を和らげる。
「明日、志乃にも話す。お前だけが知っていていいことではない」
小夜は頷く。
その時、ふと窓の外で白いものがひとつ揺れた。昼間や先ほどのような激しさはない。だが、それはまだ確かにそこにいて、こちらを待っている。
「黒曜様」
小夜は思わず呼びかけた。
「何だ」
「私……」
言いかけて、言葉が止まる。
言いたいことはたくさんある。怖いことも、苦しいことも、でもそれ以上に、先ほどから胸の中に満ちている熱の正体も。けれど、それを今ここで形にするには、まだ何もかもが早すぎる気がした。
黒曜は黙って待っていた。
小夜は唇を結び、それから小さく首を振る。
「……いいえ」
だが、黒曜はそこで話を終わらせようとはしなかった。
「何だ」
もう一度、今度は少しだけ柔らかい声で促される。
小夜は視線を落とした。胸元で髪紐を握る指に力が入る。
「さっき、来てくださって……嬉しかったです」
言い終えたあと、自分の頬が熱を持つのを抑えられなかった。こんなことを口にしてよかったのか分からないまま、けれど取り消したいとは思わなかった。
黒曜の気配がわずかに揺れる。
「傷のことだけじゃなくて……」
小夜は続ける。
「私が前へ出た時、怒っているように見えたのに、本当は……怖がってくださっていたでしょう」
それを口にするのには勇気がいった。だが、言わずにはいられなかった。
しばらく返事はなかった。
やがて黒曜が低く息を吐く。
「……お前は、妙なところでよく見ている」
それは肯定だった。
小夜は胸の奥がさらに熱を持つのを感じた。
「私は」
黒曜の声が落ちる。
「お前が傷つくところを、二度と見たくない」
静かで、けれど逃げ場のない言葉だった。
小夜は思わず顔を上げた。
黒曜はもう目を逸らさなかった。琥珀色の瞳は真っ直ぐ小夜を見ている。その眼差しの強さに、胸が締めつけられる。
何かを返したかった。けれど、小夜の喉から出てくるのはかすかな呼吸だけだった。
「……今日は休め」
黒曜が言う。
「夜明けまで、私が見る」
その声はいつもの静けさへ戻りつつあったが、それでも小夜には分かった。今夜、この人もまた、眠らないのだろう。
「黒曜様は……眠らないんですか?」
思わず問いかける。
「今はいい」
短い答えだった。
小夜はそれ以上何も言えなかった。心配だという言葉は、今の自分にはまだ重すぎる気がした。けれど、何も言わずにいるのも苦しかった。
「……では」
小夜は躊躇いがちに口を開く。
「せめて、無事でいてください」
黒曜の瞳が揺れる。
ほんのわずか。けれど確かに。
「お前もな」
返された言葉は低く、そしてひどく優しかった。
小夜は頷いた。
黒曜はそれ以上何も言わず、静かに立ち上がる。襖の方へ向かう背を見つめながら、小夜は胸の奥でほどけていくものを感じていた。それは痛みでもあり、温かさでもあり、もう名前のないものでは済まされなくなりつつある感情だった。
襖の前で、黒曜がふと足を止める。
「小夜」
呼ばれて、小夜は顔を上げる。
「明日、お前が見るものは、たぶん今までのどれよりも残酷だ」
黒曜は振り返らなかった。
「それでも、目を逸らすな」
その言葉に、小夜は息を呑む。
けれど次の瞬間には、しっかりと頷いていた。
「……はい」
襖が静かに閉まる。
ひとり残された部屋の中で、小夜はそっと髪紐を握りしめた。
明日が来るのが怖い。けれどその怖さの奥に、もう一つ、確かなものがあった。
黒曜の言葉。
黒曜の眼差し。
そして、自分で選びたいと思ったこの気持ち。
藍色の夜は深く、まだ明けない。
けれど、その闇の底で、何かが確かに変わり始めていた。
それは、境の向こうに取り残されたものを呼び返すための始まりであり、同時に、小夜自身の心がもう元には戻れないところまで踏み込んでしまった夜でもあった。




