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第十一話 祠のひびと、母の声

 夜が明けても、小夜はほとんど眠れなかった。

 横になって目を閉じても意識は浅いところを漂うばかりで、少し眠ったかと思えばすぐに目が覚める。障子の向こうが白みはじめる頃には、諦めて布団の上に身を起こしていた。


 藍色の部屋は静かだった。けれど、その静けさは穏やかなものではない。何かを待つような張りつめた気配が、屋敷の隅々にまで薄く満ちている気がした。

 小夜は膝の上に置いた手へ目を落とす。指先には、昨夜黒曜が巻いてくれた布がまだ残っていた。白い欠片に傷つけられた浅い傷。けれど、その布を見るたび思い出すのは痛みよりも、黒曜の低い声と、大きな手の温もりだった。


 ――お前が傷つくところを、二度と見たくない。


 その言葉を思い返すだけで、胸の奥が静かに熱を帯びる。けれど今の小夜の心にあるのは、それだけではなかった。


 ――明日、お前が見るものは、たぶん今までのどれよりも残酷だ。


 黒曜の言葉が、耳の奥に残っている。

 怖い。それでも、逃げたいとは思わなかった。

 知らないままでいることの方が、今はもっと怖い。そう思ってしまった自分が、もう昨日までの自分ではないことを、小夜ははっきりと感じていた。

 そっと袖の内へ手を入れると、薄藍の髪紐が指先に触れた。取り出して掌へ広げる。柔らかな布の感触に触れた瞬間、胸の奥で幼い日の記憶が微かに揺れた。誰かが不器用に、それでも大切そうに自分の髪を結っていた感触。まだ顔までは思い出せない。けれど、その温もりが今の黒曜へ繋がっていることだけは、もう分かっていた。


 その時、控えめに襖が叩かれた。

「小夜様。お目覚めでございますか」

 志乃の声だった。

「……はい」

 返事をすると、襖が開く。志乃はいつもと変わらぬ穏やかな表情だったが、その目元にはまだ緊張がかすかに残っていた。昨夜の異変が、まだ完全には去っていないのだと分かる。

「朝餉の支度が整っております」

 小夜は髪紐をそっと袖へしまい、立ち上がった。


 廊下へ出ると、朝の光が障子越しに柔らかく差し込んでいた。だが、空気は冷たい。廊下を進む度、柱の影や床板の隙間に夜の冷えが残っているように思えた。ふと目をやると、廊下の桟にうっすらと霜が浮いている。

「……まだ、残っているんですね」

 小夜が呟くと、志乃は静かに頷いた。

「今朝は屋敷の外縁にまで冷えが残っております」

「昨夜のもののせいですか」

「おそらくは。ですが、小夜様がお気になさるべきは、冷えそのものではございません」

 志乃は穏やかな声のまま続けた。

「何がそれを呼び寄せているのか、でございます」

 小夜は小さく息を呑む。

 昨夜の白い異形。返せ、と繰り返した声。巫女、と自分を呼んだ響き。あれはただ恐ろしいだけの怪異ではない。もっと明確な理由を持って、自分へ近づいている。そのことを、志乃もまたはっきり分かっているのだ。

 通された部屋には、すでに膳が整えられていた。けれど、そこに黒曜の姿はない。

「黒曜様は……」

 思わず訊ねると、志乃が答える。

「今朝は境の様子をご覧になっております」 「……ひとりで、ですか」

「はい」

 その一言に、小夜の胸がざわついた。自分には「私の側を離れるな」と言った人が、今はひとりで境へ向かっている。そのことが、妙に落ち着かなかった。

 だが小夜は、すぐに首を振る。今はただ、不安に呑まれているわけにはいかなかった。

 朝餉へ箸をつける。温かな汁が身体に染みる。けれど、胸の奥の張りつめたものはほどけない。

 小夜の様子を見て、志乃が小さく息をついた。

「無理に平静であろうとなさらなくてもよろしいのですよ」

「……分かりますか」

「分かりますとも」

 志乃は静かに微笑んだ。

「小夜様は怖がっておられます。けれど、それでも目を逸らさずにおられる」

「怖いです。何を知るのかも、そのあと自分がどうなるのかも、分かりません」

「はい」

「でも、見ないままでいる方が、もっと苦しいんです」

 志乃はしばらく小夜を見つめ、それから柔らかく言った。

「それでこそ、小夜様でございます」

 小夜は目を瞬く。そんなふうに、自分のあり方をそのまま肯定されたことなどなかった。

「怖れながらも進もうとなさる方は、強いのです」

「……私は、強くなんて」

「強い方ほど、ご自分をそうは仰いません」

 押しつけるのではない、ただ事実を告げるような声だった。

「今日、何を見ることになっても。そこに立つのは、小夜様ご自身の意志だということを、どうかお忘れなく」

 小夜はゆっくりと頷いた。

「……はい」



 朝餉を終えた頃、襖が開き、黒曜が入ってきた。

 その姿を見た瞬間、小夜は息を呑む。表情はいつも通り静かなのに、夜を越えてなお張りつめた気配が残っている。藍色の髪の下、琥珀色の瞳には、今朝の境を見た者だけが持つ冷たい緊張が宿っていた。

 黒曜はまず志乃へ、そして小夜へ視線を向ける。その目が小夜の指先の布へ一瞬触れ、すぐに戻った。

「……眠れたか」

「少しだけ……」

「そうか」

 短いやり取りだった。だが、その声音には、ごく微かな安堵が滲んでいた。

 黒曜は二人の前に座ると、少し間を置いてから口を開いた。

「今朝、境を見てきた。昨夜のものは消えていない。むしろ、こちらへ引かれている」

「私に、ですか」

「ああ」

 その肯定に、小夜の胸がひやりとした。けれど黒曜は視線を逸らさない。怖がらせぬよう曖昧にするのではなく、知るべきこととしてそのまま伝えてくれている。

「理由の一端は、お前の記憶にある」

「村が隠していたこと、ですか」

「それだけではない」

 黒曜の声が、少し低くなる。

「お前の両親は、ただお前を守ろうとしただけではなかった」

「……どういうことですか」

 小夜の胸が強く鳴る。

「お前の母は、巫女としての力を知っていた。父もまた、それを隠したままではいられないと分かっていた」

「私に……何かをしようとしていたんですか」

「お前を、山へ逃がすつもりだった」

 その一言に、頭の奥で何かが揺れた。


 夜。

 冷たい空気。

 誰かに抱えられる感覚。

 遠くに見える石の影。


「……こちら側へ」

「ああ。お前の力が完全に目覚める前に、村から離すつもりだったのだろう。だが、村の者たちはそれを知った」

 小夜は息を呑む。

 それでは、あの夜はただ襲われたのではない。両親は自分を逃がそうとしていた。その直前に、村の者たちが来たのだ。

「その子を――」

 気づけば、小夜はそう呟いていた。

「思い出したか」

「全部ではありません。でも……私を連れていこうとしていた。そんな気がします」

 黒曜は静かに頷いた。

「お前の両親は逃がそうとし、村の者たちは渡そうとした」

「誰に、ですか」

「境だ」

 その答えに、部屋の空気がさらに冷える。

「村は、巫女を捧げれば山の異変が鎮まると考えた。……そう信じたかったのだろう」

 小夜は膝の上で手を握りしめた。自分は鬼へ嫁に出されたのではない。もっと前から、差し出されるべきものとして見られていたのだ。

 胸の奥に、痛みとも怒りともつかぬものが広がる。だが同時に、両親が最後まで自分を守ろうとしていたことも知ってしまった。

「母は……私を守ろうとしてくれていたんですね」

「そうだ」

 黒曜の返事には、一切の曖昧さがなかった。

 小夜は目を伏せる。今まで、自分が疎まれたことばかりを覚えていた。けれど、その始まりの夜に、確かに自分を守ろうとした手があったのだ。母の腕も、父の背も、そしてそのあと自分を抱きしめた黒曜の腕も。

「今日は、その続きを辿る」

 黒曜が静かに言った。

「境に残っているものと向き合うには、お前自身があの夜の先を知る必要がある」 「……どうやって」

「お前の記憶を開く」

 志乃が静かに息を呑む。小夜は黒曜を見つめた。恐ろしい言葉のはずなのに、不思議と逃げたいとは思わなかった。むしろ、ここまで来てようやく、その時が来たのだと思った。

「私が、見るんですね」

「そうだ」

「全部を?」

「全部ではない。今のお前が耐えられるところまでだ」

「もし……耐えられなかったら」

「その時は止める」

 迷いのない答えだった。無理に進ませるのではなく、見届けた上で止める。そのことが、小夜の胸に静かな安心を落とす。

「分かりました」

 小夜は、はっきりと言った。

「見ます」

 黒曜はしばらく小夜を見つめ、それから告げる。

「場所は、庭の奥だ。昨夜のものがもっとも濃く滲んでいた場所になる」



 しばらくして、三人は屋敷の奥へ向かっていた。

 廊下を進むにつれ、空気は少しずつ変わっていく。屋敷の内側の温もりが遠ざかり、外縁に近づくたびに冷気が濃くなる。障子の桟や柱の節には、細い霜が白く走っていた。


 やがて庭へ通じる広間へ辿り着く。

 昨日、白い異形が現れた場所だ。

 縁側の向こうに広がる庭は、朝の光の中でもなお異様だった。木々の枝には薄い氷が残り、庭石の縁には白い霜がこびりついている。風はないのに、そこだけが夜の続きであるかのように冷たい。

 その奥に、小さな石の祠があった。

 古びた石の表面には細かなひびが走り、苔むした屋根の端にまで白い霜が張りついている。

「……あれは」

「境を鎮めるための祠だ」

 黒曜が答える。

「村の者は都合よく山の神だの鬼封じだのと呼んでいたようだが、本来は違う」

「では、何を」

「閉じ込めていた」

 小夜の胸が強く鳴る。

「何を……ですか」

「残されたものを、だ」

 その瞬間、袖の内の髪紐が、かすかに熱を持った気がした。小夜は思わず手で押さえる。同時に、頭の奥で景色が揺れる。


 白い息。

 泣き声。

 母の腕。


 そして、夜道の先に見える石の祠。

「……っ」

 気づけば足が半歩前へ出ていた。

「見えたか」

 黒曜の声に、小夜は震える息を整えた。

「少しだけ……。私、あの祠を見たことがあります。あの夜です。父と母と、あそこへ向かっていた気がする」

「やはり、そうか」

 黒曜の目が鋭く細まる。

「お前の両親は、祠を封じではなく、開こうとしたのだろう」

「開く……?」

「ああ。閉じ込められたものを鎮めるには、ただ封じるだけでは足りん。何を封じたのかを知り、結び目を解かねばならない」

 その言葉が落ちた瞬間、祠の周囲の空気がふっと揺れた。

 小夜は息を止める。白いものが、ひとひら、ふたひらと祠の上に現れる。昼の光の中だというのに、それらは冷たい光を帯びていた。

 やがて、ひび割れたような声が、ごく小さく響く。


『……ミコ』


 小夜の喉が鳴る。昨夜のような荒々しさはない。遠くから手を伸ばしてくるような、掠れた響きだった。


『……カエシテ』

『ワタシヲ』

『ミツケテ』


 胸が締めつけられる。怖いのに、目を逸らせない。

 その時、頭の奥で、もうひとつの声が蘇った。


『小夜、目を閉じては駄目』

 母の声だった。

 小夜の瞳が大きく揺れる。

『見るの』

『怖くても、見なさい』

 小夜ははっと息を呑んだ。母は守るために隠そうとしただけではなかった。最後の最後に、自分へ「見ること」を託そうとしていたのだ。


「……お母さま」

 掠れた声が零れる。

 その瞬間、祠のひびの奥から、白い光がすっと漏れた。志乃が息を呑み、黒曜の気配が鋭く張る。けれど小夜は逃げなかった。

 怖い。でも、今なら分かる。

 自分は守られるだけのためにここへ来たのではない。見つけるために来たのだ。置き去りにされたものを。隠された記憶を。ずっと閉ざされていた真実を。


「小夜。ここから先は、お前が選ぶことになる」

 黒曜の低い声が落ちる。

「祠へ触れれば、記憶はさらに開く。だが同時に、あれに近づくことになる」

「……あれに」

「境へ残されたものにな」

 小夜は息を整えた。膝が震えている。それでも足は後ろへ下がらない。母の声が、まだ胸の奥に残っている。


 ――怖くても、見なさい。


 小夜はゆっくりと顔を上げた。

「……行きます」

 その声は震えていた。けれど、確かだった。

 黒曜は何も言わず、小夜の隣へ並ぶように一歩進む。志乃もまた、その少し後ろに静かに立った。

 独りではない。

 だが、選ぶのは自分だ。

 小夜は縁側を降りる。朝の庭の冷たさが足元から這い上がる。一歩、また一歩と祠へ近づく度、胸の鼓動が速くなる。白い光は小夜を待つように揺れ、ひびの奥の闇は、何かを吐き出そうとするように震えていた。


 そして小夜は、ついに祠の前へ立つ。

 袖の内の髪紐は、今やはっきりと熱を持っていた。

 小夜は震える指先を、ゆっくりと持ち上げる。


 触れれば、何かが開く。

 記憶も。

 真実も。

 そしてきっと、自分の運命そのものも。


 黒曜の気配がすぐ隣にある。志乃の静かな息遣いも背後に感じる。けれど最後の一歩だけは、自分で踏み出さなければならないのだと分かっていた。


 小夜は小さく息を吸い、

 そして――祠へ、指先を伸ばした。

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