第八話 閉ざされた記憶と、知るということ
その夜、小夜は眠ることができなかった。
灯りを落とした藍色の部屋は、どこまでも静かだった。障子の向こうからは風の音も届かず、屋敷の中を行き交う者の気配すら、今夜はひどく遠くに感じられる。それなのに、小夜の胸の内だけは少しも落ち着かず、目を閉じるたびに昼間の光景が白く浮かび上がった。
木立の奥に立っていた異形。
ひび割れたような声。
そして、頭の奥へ鋭く食い込んできた、あの言葉。
――巫女ヲ。
小夜は布団の上でゆっくりと身を起こし、膝を抱えるようにして座った。呼吸は浅く、指先はまだ少し冷たい。袖の内へ手を入れると、薄藍の髪紐が指先に触れた。その布を取り出し、掌に載せる。月明かりを受けた刺繍の桜は、夜の中でも淡く浮かび上がり、遠い記憶の断片のように見えた。
あの日。
血の匂い。
倒れた両親。
松明の火に照らされた、村の者たちの気配。
昼間見えたものが幻ではないのなら、あの夜、そこにいたのは賊ではなかったのだ。
黒曜は言った。
――あの夜のことを、今夜、話す。
知れば、もう戻れない気がする。だが、知らないままでは、今の自分はここに立っていられない。
小夜は髪紐をそっと握りしめ、やがて静かに立ち上がった。
*
黒曜の部屋の前に立つと、中から低い声が落ちてきた。
「入れ」
その声は静かだったが、どこか張り詰めていた。
小夜は襖へ手をかけ、ゆっくりと開く。室内には、行灯の灯りと月明かりが柔らかく溶け合っていた。窓は半ば開かれ、その向こうには夜の庭が広がっている。昼間ほどではないが、白い欠片はまだ淡く漂っていた。消えたわけではない。ただ、今は息を潜めているだけなのだと分かる。
黒曜は窓辺に立ち、外を見ていた。藍色の髪が月明かりを受けて、夜そのもののように静かに光っている。
小夜は部屋へ入り、少し離れた場所へ正座した。
しばらく、お互いに口を開かなかった。沈黙は重くはあったが、不思議と耐え難いものではなかった。ただ、その先にある言葉を待つ時間として、静かにそこへ横たわっているだけだった。
やがて黒曜が口を開く。
「昼間見えたものを、どこまで覚えている」
小夜は唇を湿らせ、小さく答えた。
「全部ではありません。でも……村の人たちの声が聞こえました。父と母が倒れていて、その向こうに、松明を持った人影がいて……」
言いながら、喉の奥が強く締まる。それでも小夜は続けた。
「あれが幻ではないのなら、あの夜、そこにいたのは村の人たちだったんですね」
黒曜は振り返らない。
その代わり、わずかに目を伏せる気配だけがあった。
「そうだ」
落ちた声は低く、ひどく静かだった。
「お前の両親を死なせたのは、山のものではない。人だ。村の者たちは、お前を境へ捧げようとしていた」
その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。
「……境へ」
「お前は、人とこちらの世の狭間に触れる力を持って生まれた」
そこでようやく黒曜が振り返る。琥珀色の瞳が、まっすぐ小夜を映した。
「巫女だ」
昼間、異形が呼んだその言葉を、今度は黒曜がはっきりと口にする。
小夜は息を呑んだ。だが、不思議と取り乱しはしなかった。怖いのに、どこかでそれを知っていたような気がしたからだ。
「巫女は、境に近いものを視る。時に、こちら側へ滲み出ようとするものを鎮めることもある。だが同時に、あちら側からも見つかりやすい」
黒曜はゆっくりと小夜へ近づき、その少し手前で足を止めた。
「お前の村は、それを恐れた。だが、恐れただけではない。利用しようとした」
小夜は唇を噛む。
「巫女であるお前は、村にとって都合の悪い存在でもあり、同時に、都合よく差し出せる存在でもあった。鬼へ嫁がせるという形なら、厄介払いにもなる。何かあれば、鬼に奪われたと言い換えることもできる」
その一語一語が、胸へ重く落ちていく。
小夜は目を伏せ、膝の上の手を強く握りしめた。
「……父と母は」
声が、掠れる。
「知っていたんですか」
黒曜はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「すべてではなかっただろう。だが、お前がただ疎まれているだけではないことは分かっていたはずだ」
小夜は顔を上げる。
「お前の母は、お前を守ろうとしていた」
その言葉と同時に、記憶の奥で、何かが揺れた。
幼い自分を抱き寄せる腕。強く、けれど震えていた指先。耳元で何かを繰り返し言っていた声。
思い出せない。けれど、それが優しいものだったことだけは分かる。
「村の者たちは、お前を差し出せと言った。お前の両親は拒んだ。争いになり、私はその時、異様な気配を感じて山を下りた」
黒曜の目は、今はもう小夜を見ていなかった。もっと遠く、あの夜そのものを見つめているようだった。
「私が着いた時には、すでに遅かった」
小夜の胸が、大きく鳴る。
「お前の父は倒れ、母も深手を負っていた。お前は、そのそばで泣いていた。村の者たちはお前を置いて逃げた」
その一言で、景色が脳裏へ流れ込んできた。
土の匂い。
血の匂い。
泣き叫ぶ自分。
足音。
松明の火が遠ざかっていく背中。
そして、自分の前へ膝をつく、誰かの影。
藍に近い色。
低い声。
大きな手。
小夜は息を呑んだ。
「……やっぱり、あなただったんですね」
黒曜はようやく小夜を見る。
「あの日、お前を抱きしめたのは私だ」
その言葉が、静かに落ちる。
小夜は目を閉じた。覚えているわけではない。それでも、身体のどこかがその答えを知っていた。背中から包み込まれた温もりも、視界を覆われた時の布の感触も、すべてが今の黒曜へと繋がっていく。
「どうして……」
問いは自然と漏れた。
「どうして、私を」
黒曜は、ほんのわずかに眉を寄せた。
「見せたくなかった」
その声は、とても低かった。
「お前が、あれをすべて抱えたまま生きることを」
小夜はゆっくりと目を開く。
「だから、私が思い出せないようにしたのですか」
黒曜は沈黙した。
だが、その沈黙だけで十分だった。
「……全部を、ですか」
「全部ではない」
黒曜はそう答えた。
「奪ったというより、深く沈めた。お前が触れれば痛むものだけを」
小夜の胸の奥が、じわりと熱を持つ。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からなかった。ただ、自分の知らないところで、自分の人生が決められていたのだという事実だけが、遅れて胸を刺してきた。
「私のため、ですか」
問うた声は、思ったより静かだった。
「そうだ」
黒曜は迷わず答える。
「だが、それが正しかったかは分からん。守ったつもりだった。だが、お前は何も知らぬまま育ち、村の冷たさの理由も、自分が何を恐れられているのかも分からぬまま、ただ疎まれて生きることになった。それが私のしたことの結果でもある」
黒曜の瞳の奥には、静かな痛みがあった。
「本当に守れたのかは、今でも分からん」
その言葉に、小夜の胸が強く揺れる。
この人は、ずっとそれを抱えていたのだ。自分を救ったことと、自分から何かを奪ったこと、その両方を。
「……だから、距離を取っていたんですか」
黒曜はすぐには答えなかった。
やがて、短く息を吐く。
「お前に選ばせたかった」
その言葉に、小夜は息を止める。
「何も知らぬまま、私のもとに縛りつけることはしたくなかった。恩でも、罪でも、お前をここへ留める理由にしたくなかった」
黒曜の声は低く、静かで、それでいて逃げ場がなかった。
「思い出せば、お前は私を恨むかもしれない。あの夜のことも、その後のことも、全て知った上で離れると言うなら、それがお前の選択だと思っていた」
小夜は、しばらく何も言えなかった。
これまでの冷たく見えた距離も、突き放すような言葉も、今になって別の輪郭を持ち始める。拒絶ではなかった。ただ、自分の意志を守るために、あえて近づかなかったのだ。
「……どうして、そこまで」
小夜の声は、かすかに震えていた。
「私に、そこまでしてくれるんですか」
黒曜は、小夜を見つめたまま長く黙っていた。窓の外では白い欠片がひとつ、またひとつと夜の闇を横切っていく。その静かな気配の中で、黒曜の沈黙だけが重く落ちていた。
やがて、低い声が落ちる。
「あの夜、お前を置いて去ることだけは、どうしてもできなかった」
小夜は黙って、その先を待つ。
「お前を、そのままにしておけなかった」
その一言に、胸が強く鳴る。
黒曜はそこでわずかに目を伏せた。長い間胸の奥へ沈めていた言葉を、ようやく掬い上げるように。
「守ると決めた」
小夜は、息を呑んだ。
それは義務でも、同情でもなかった。ただ、そう決めたのだと。
黒曜の声は静かだったが、その静けさの奥には、長い年月をかけて堆積したものの重みがあった。
「それが私の勝手だとしても、お前にとって迷惑でしかなかったとしても、あの夜のお前を前にして、見捨てるという選択はできなかった」
小夜の喉が熱くなる。
この人は、最初から知っていたのだ。自分が何者であるかも、自分が村でどう扱われるかも、その果てにここへ来る可能性があることも。それでも、来た時には何も強いはしなかった。ただ、選べと言った。それはどれほど苦しいことだったのだろう。
「……私は」
小夜は胸元で髪紐を握りしめる。
言葉が喉の奥で何度も絡まり、それでも、ようやくひとつの形になった。
「まだ、全部を受け止められたわけではありません」
黒曜は何も言わず、ただ聞いていた。
「村のことも、父と母のことも、自分が巫女だということも……まだ、怖いです。思い出したくないと思う気持ちも、あります」
それは正直な言葉だった。強くなったつもりでも、恐れが消えたわけでもない。
「でも」
小夜はゆっくりと顔を上げる。
「それでも、知らないままでいることの方が、今はもっと怖いんです」
黒曜の瞳が、わずかに揺れた。
「私は、誰かに決められたままここへ来たくありませんでした。でも、今は違います」
膝の上で握った手に、力を込める。
「何を知っても、どう思っても、その先を自分で決めたいんです」
言葉にすると、胸の奥で何かが静かに形を持つ。
これまで自分は、ずっと選ばれる側だった。拒まれる側だった。差し出される側だった。だが、もうそれだけではいたくない。
黒曜はしばらく黙っていた。やがて、ほんのわずかに目を伏せる。
「……そうか」
その声は、どこか静かにほどけていた。
窓の外では、白い欠片がなお淡く舞っている。だがそれは、先ほどまでのようなただの不気味さではなかった。過去の残滓であり、真実の気配であり、そしてまだ終わっていない何かの前触れだった。
小夜は髪紐をそっと握り直す。
この先、何を知るのかは分からない。
村が隠していたことも、巫女としての自分のことも、昼間現れた異形のことも、まだ何ひとつ終わってはいない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
自分はもう、ただ守られるだけの娘ではいられない。知って、選ぶ。それがたとえ、痛みを伴う道であったとしても。
その時、ふと、窓の外の白い欠片がひときわ強く揺れた。
黒曜の視線がすっと庭へ向く。
小夜もまた、つられるようにそちらを見た。夜の木立の向こうに、先ほどまでなかった気配がある。息を潜め、こちらを窺うような、冷たい視線。
白いものは消えていない。ただ、次の時を待っている。
黒曜が低く言う。
「今夜はこれ以上、外へは出るな」
その声音には、先ほどまでとは別の硬さが戻っていた。
小夜は小さく頷く。
「……はい」
「だが、お前が知るべきことは、もう隠さない」
その言葉に、胸の奥が静かに熱を帯びた。
黒曜は、もう一度だけ小夜を見る。その瞳の奥には、変わらぬ痛みと、それでもなお消えない何かがあった。
小夜はその眼差しを受け止めながら、はっきりと思う。
次に開かれるのは、記憶だけではない。
黒曜がずっと閉ざしてきたものもまた、同じように、少しずつ開き始めているのだと。
藍色の夜は深く、静かだった。
けれどその静けさの底では、過去も、真実も、そしてこれから自分の手で選び取るべき未来も、すでに確かに動き始めていた。




