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第八話 閉ざされた記憶と、知るということ

 その夜、小夜は眠ることができなかった。

 灯りを落とした藍色の部屋は、どこまでも静かだった。障子の向こうからは風の音も届かず、屋敷の中を行き交う者の気配すら、今夜はひどく遠くに感じられる。それなのに、小夜の胸の内だけは少しも落ち着かず、目を閉じるたびに昼間の光景が白く浮かび上がった。


 木立の奥に立っていた異形。

 ひび割れたような声。

 そして、頭の奥へ鋭く食い込んできた、あの言葉。


――巫女ヲ。


 小夜は布団の上でゆっくりと身を起こし、膝を抱えるようにして座った。呼吸は浅く、指先はまだ少し冷たい。袖の内へ手を入れると、薄藍の髪紐が指先に触れた。その布を取り出し、掌に載せる。月明かりを受けた刺繍の桜は、夜の中でも淡く浮かび上がり、遠い記憶の断片のように見えた。


 あの日。

 血の匂い。

 倒れた両親。

 松明の火に照らされた、村の者たちの気配。


 昼間見えたものが幻ではないのなら、あの夜、そこにいたのは賊ではなかったのだ。


 黒曜は言った。


 ――あの夜のことを、今夜、話す。


 知れば、もう戻れない気がする。だが、知らないままでは、今の自分はここに立っていられない。

 小夜は髪紐をそっと握りしめ、やがて静かに立ち上がった。

 


 黒曜の部屋の前に立つと、中から低い声が落ちてきた。

「入れ」

 その声は静かだったが、どこか張り詰めていた。

 小夜は襖へ手をかけ、ゆっくりと開く。室内には、行灯の灯りと月明かりが柔らかく溶け合っていた。窓は半ば開かれ、その向こうには夜の庭が広がっている。昼間ほどではないが、白い欠片はまだ淡く漂っていた。消えたわけではない。ただ、今は息を潜めているだけなのだと分かる。

 黒曜は窓辺に立ち、外を見ていた。藍色の髪が月明かりを受けて、夜そのもののように静かに光っている。

 小夜は部屋へ入り、少し離れた場所へ正座した。

 しばらく、お互いに口を開かなかった。沈黙は重くはあったが、不思議と耐え難いものではなかった。ただ、その先にある言葉を待つ時間として、静かにそこへ横たわっているだけだった。

 やがて黒曜が口を開く。

「昼間見えたものを、どこまで覚えている」

 小夜は唇を湿らせ、小さく答えた。

「全部ではありません。でも……村の人たちの声が聞こえました。父と母が倒れていて、その向こうに、松明を持った人影がいて……」

 言いながら、喉の奥が強く締まる。それでも小夜は続けた。

「あれが幻ではないのなら、あの夜、そこにいたのは村の人たちだったんですね」

 黒曜は振り返らない。

 その代わり、わずかに目を伏せる気配だけがあった。

「そうだ」

 落ちた声は低く、ひどく静かだった。

「お前の両親を死なせたのは、山のものではない。人だ。村の者たちは、お前を境へ捧げようとしていた」

 その言葉に、胸の奥がひやりと冷えた。

「……境へ」

「お前は、人とこちらの世の狭間に触れる力を持って生まれた」

 そこでようやく黒曜が振り返る。琥珀色の瞳が、まっすぐ小夜を映した。

「巫女だ」

 昼間、異形が呼んだその言葉を、今度は黒曜がはっきりと口にする。

 小夜は息を呑んだ。だが、不思議と取り乱しはしなかった。怖いのに、どこかでそれを知っていたような気がしたからだ。

「巫女は、境に近いものを視る。時に、こちら側へ滲み出ようとするものを鎮めることもある。だが同時に、あちら側からも見つかりやすい」

 黒曜はゆっくりと小夜へ近づき、その少し手前で足を止めた。

「お前の村は、それを恐れた。だが、恐れただけではない。利用しようとした」

 小夜は唇を噛む。

「巫女であるお前は、村にとって都合の悪い存在でもあり、同時に、都合よく差し出せる存在でもあった。鬼へ嫁がせるという形なら、厄介払いにもなる。何かあれば、鬼に奪われたと言い換えることもできる」

 その一語一語が、胸へ重く落ちていく。

 小夜は目を伏せ、膝の上の手を強く握りしめた。

「……父と母は」

 声が、掠れる。

「知っていたんですか」

 黒曜はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。

「すべてではなかっただろう。だが、お前がただ疎まれているだけではないことは分かっていたはずだ」

 小夜は顔を上げる。

「お前の母は、お前を守ろうとしていた」

 その言葉と同時に、記憶の奥で、何かが揺れた。

 幼い自分を抱き寄せる腕。強く、けれど震えていた指先。耳元で何かを繰り返し言っていた声。

 思い出せない。けれど、それが優しいものだったことだけは分かる。

「村の者たちは、お前を差し出せと言った。お前の両親は拒んだ。争いになり、私はその時、異様な気配を感じて山を下りた」

 黒曜の目は、今はもう小夜を見ていなかった。もっと遠く、あの夜そのものを見つめているようだった。

「私が着いた時には、すでに遅かった」

 小夜の胸が、大きく鳴る。

「お前の父は倒れ、母も深手を負っていた。お前は、そのそばで泣いていた。村の者たちはお前を置いて逃げた」

 その一言で、景色が脳裏へ流れ込んできた。


 土の匂い。

 血の匂い。

 泣き叫ぶ自分。

 足音。

 松明の火が遠ざかっていく背中。


 そして、自分の前へ膝をつく、誰かの影。

 藍に近い色。

 低い声。

 大きな手。


 小夜は息を呑んだ。

「……やっぱり、あなただったんですね」

 黒曜はようやく小夜を見る。

「あの日、お前を抱きしめたのは私だ」

 その言葉が、静かに落ちる。

 小夜は目を閉じた。覚えているわけではない。それでも、身体のどこかがその答えを知っていた。背中から包み込まれた温もりも、視界を覆われた時の布の感触も、すべてが今の黒曜へと繋がっていく。

「どうして……」

 問いは自然と漏れた。

「どうして、私を」

 黒曜は、ほんのわずかに眉を寄せた。

「見せたくなかった」

 その声は、とても低かった。

「お前が、あれをすべて抱えたまま生きることを」

 小夜はゆっくりと目を開く。

「だから、私が思い出せないようにしたのですか」

 黒曜は沈黙した。

 だが、その沈黙だけで十分だった。

「……全部を、ですか」

「全部ではない」

 黒曜はそう答えた。

「奪ったというより、深く沈めた。お前が触れれば痛むものだけを」

 小夜の胸の奥が、じわりと熱を持つ。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からなかった。ただ、自分の知らないところで、自分の人生が決められていたのだという事実だけが、遅れて胸を刺してきた。

「私のため、ですか」

 問うた声は、思ったより静かだった。

「そうだ」

 黒曜は迷わず答える。

「だが、それが正しかったかは分からん。守ったつもりだった。だが、お前は何も知らぬまま育ち、村の冷たさの理由も、自分が何を恐れられているのかも分からぬまま、ただ疎まれて生きることになった。それが私のしたことの結果でもある」

 黒曜の瞳の奥には、静かな痛みがあった。

「本当に守れたのかは、今でも分からん」

 その言葉に、小夜の胸が強く揺れる。

 この人は、ずっとそれを抱えていたのだ。自分を救ったことと、自分から何かを奪ったこと、その両方を。

「……だから、距離を取っていたんですか」

 黒曜はすぐには答えなかった。

 やがて、短く息を吐く。

「お前に選ばせたかった」

 その言葉に、小夜は息を止める。

「何も知らぬまま、私のもとに縛りつけることはしたくなかった。恩でも、罪でも、お前をここへ留める理由にしたくなかった」

 黒曜の声は低く、静かで、それでいて逃げ場がなかった。

「思い出せば、お前は私を恨むかもしれない。あの夜のことも、その後のことも、全て知った上で離れると言うなら、それがお前の選択だと思っていた」

 小夜は、しばらく何も言えなかった。

 これまでの冷たく見えた距離も、突き放すような言葉も、今になって別の輪郭を持ち始める。拒絶ではなかった。ただ、自分の意志を守るために、あえて近づかなかったのだ。

「……どうして、そこまで」

 小夜の声は、かすかに震えていた。

「私に、そこまでしてくれるんですか」

 黒曜は、小夜を見つめたまま長く黙っていた。窓の外では白い欠片がひとつ、またひとつと夜の闇を横切っていく。その静かな気配の中で、黒曜の沈黙だけが重く落ちていた。


 やがて、低い声が落ちる。

「あの夜、お前を置いて去ることだけは、どうしてもできなかった」

 小夜は黙って、その先を待つ。

「お前を、そのままにしておけなかった」

 その一言に、胸が強く鳴る。

 黒曜はそこでわずかに目を伏せた。長い間胸の奥へ沈めていた言葉を、ようやく掬い上げるように。

「守ると決めた」

 小夜は、息を呑んだ。

 それは義務でも、同情でもなかった。ただ、そう決めたのだと。

 黒曜の声は静かだったが、その静けさの奥には、長い年月をかけて堆積したものの重みがあった。

「それが私の勝手だとしても、お前にとって迷惑でしかなかったとしても、あの夜のお前を前にして、見捨てるという選択はできなかった」

 小夜の喉が熱くなる。

 この人は、最初から知っていたのだ。自分が何者であるかも、自分が村でどう扱われるかも、その果てにここへ来る可能性があることも。それでも、来た時には何も強いはしなかった。ただ、選べと言った。それはどれほど苦しいことだったのだろう。

「……私は」

 小夜は胸元で髪紐を握りしめる。

 言葉が喉の奥で何度も絡まり、それでも、ようやくひとつの形になった。

「まだ、全部を受け止められたわけではありません」

 黒曜は何も言わず、ただ聞いていた。

「村のことも、父と母のことも、自分が巫女だということも……まだ、怖いです。思い出したくないと思う気持ちも、あります」

 それは正直な言葉だった。強くなったつもりでも、恐れが消えたわけでもない。

「でも」

 小夜はゆっくりと顔を上げる。

「それでも、知らないままでいることの方が、今はもっと怖いんです」

 黒曜の瞳が、わずかに揺れた。

「私は、誰かに決められたままここへ来たくありませんでした。でも、今は違います」

 膝の上で握った手に、力を込める。

「何を知っても、どう思っても、その先を自分で決めたいんです」

 言葉にすると、胸の奥で何かが静かに形を持つ。

 これまで自分は、ずっと選ばれる側だった。拒まれる側だった。差し出される側だった。だが、もうそれだけではいたくない。

 黒曜はしばらく黙っていた。やがて、ほんのわずかに目を伏せる。

「……そうか」

 その声は、どこか静かにほどけていた。

 窓の外では、白い欠片がなお淡く舞っている。だがそれは、先ほどまでのようなただの不気味さではなかった。過去の残滓であり、真実の気配であり、そしてまだ終わっていない何かの前触れだった。

 小夜は髪紐をそっと握り直す。

 この先、何を知るのかは分からない。

 村が隠していたことも、巫女としての自分のことも、昼間現れた異形のことも、まだ何ひとつ終わってはいない。


 けれど、ひとつだけ確かなことがあった。

 自分はもう、ただ守られるだけの娘ではいられない。知って、選ぶ。それがたとえ、痛みを伴う道であったとしても。


 その時、ふと、窓の外の白い欠片がひときわ強く揺れた。

 黒曜の視線がすっと庭へ向く。

 小夜もまた、つられるようにそちらを見た。夜の木立の向こうに、先ほどまでなかった気配がある。息を潜め、こちらを窺うような、冷たい視線。

 白いものは消えていない。ただ、次の時を待っている。

 黒曜が低く言う。

「今夜はこれ以上、外へは出るな」

 その声音には、先ほどまでとは別の硬さが戻っていた。

 小夜は小さく頷く。

「……はい」

「だが、お前が知るべきことは、もう隠さない」

 その言葉に、胸の奥が静かに熱を帯びた。

 黒曜は、もう一度だけ小夜を見る。その瞳の奥には、変わらぬ痛みと、それでもなお消えない何かがあった。


 小夜はその眼差しを受け止めながら、はっきりと思う。

 次に開かれるのは、記憶だけではない。

 黒曜がずっと閉ざしてきたものもまた、同じように、少しずつ開き始めているのだと。

 藍色の夜は深く、静かだった。

 けれどその静けさの底では、過去も、真実も、そしてこれから自分の手で選び取るべき未来も、すでに確かに動き始めていた。

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