第七話 白い異形と、ひらかれる記憶
廊下の向こうから近づいてきた足音は、ひとつではなかった。
乾いた板敷きを打つ音が、短く、速く、途切れずに迫ってくる。小夜は自室の襖の前に立ち尽くしたまま、無意識に袖の内の髪紐を握りしめた。薄藍の布が掌の中でわずかに皺を寄せ、その感触だけが今の自分を現実につなぎとめてくれているようだった。
障子の向こうでは、白いものが音もなく横切っている。
雪でもない。花びらでもない。もっと細く、もっと鋭い、氷の欠片のような白さだった。風もないのにそれはゆっくりと庭を巡り、時折障子へ触れては、かすかな震えだけを残していく。
「小夜様!」
志乃の声と同時に、襖の向こうで足音が止まった。
小夜はすぐに襖を開ける。そこに立つ志乃は姿こそ乱れていないが、いつもより呼吸が浅かった。背後の廊下にまで冷気が流れ込み、屋敷の奥にいるはずなのに、まるで冬の戸外へ繋がっているようだった。
「ご無事ですか!」
小夜は頷き、ふと障子の向こうへ目をやる。
白い欠片は先ほどよりも増えていた。ひとひら、ふたひらではない。細かな氷片のようなそれらが、何かを探しているように揺れている。
「……あれは」
問いは自然と口をついた。
志乃は一瞬だけ視線を向け、それから小夜を見る。
「今はまだ、近くでご覧にならないでください」
「でも」
「黒曜様も、そう命じておられます」
静かながら、きっぱりとした声だった。小夜は唇を引き結ぶ。
危ないのだろう。自分が知らない何かが起きていて、黒曜も志乃も、それに備えて動いている。そのことは分かる。
けれど、ただ部屋で待てと言われるだけでは、また以前の自分へ戻ってしまう気がした。何も聞かず、何も知らず、目を逸らしたまま生きていた頃の自分へ。
それだけは、もう嫌だった。
小夜は髪紐を握り直し、顔を上げる。 「……黒曜様の元へ行きます」
志乃の目がわずかに揺れる。
「邪魔はしません。けれど、何が起きているのか知りたいんです」
屋敷のどこかで、ぱきん、と鋭い音が響いた。薄い氷にひびが入るような音。一度きりではなく、続けて二度、三度。遠いはずなのに、この屋敷の境そのものが軋んでいるように聞こえた。
やがて志乃は小さく息をつき、頷く。 「……承知いたしました。ですが、必ず私のそばを離れないでくださいませ」
「はい」
二人は廊下を早足で進んだ。
屋敷の空気は、先ほどまでとはまるで違っていた。静けさはある。だがそれは穏やかなものではなく、嵐の前のように張りつめた静けさだった。角を曲がるたび冷気が濃くなり、障子の桟にはうっすらと霜が浮いている。
「……こんなこと、今までもあったのですか」
小夜が問うと、志乃は前を向いたまま答えた。
「似たようなことはございました。ですが、ここまで露骨なのは久しくありません」
その言葉に、小夜の胸の奥がひやりとした。
久しくない、ということは、過去にもあったのだ。そして今の異変は、おそらく自分の知らない過去と繋がっている。
やがて二人は広い一間へ辿り着いた。襖は開け放たれ、その向こうには縁側と庭が広がっている。そして庭を背にして、黒曜が立っていた。
昼間は穏やかだった庭は、今や別の場所のようだった。
庭石には白い霜が走り、木々の枝には薄氷が張りつき、空気中には無数の白い欠片が漂っている。雪のように柔らかくは落ちず、刃の欠片のように鋭い光を鈍く反射していた。
黒曜が振り返る。琥珀色の瞳はまず志乃に、次いで小夜へ移り、わずかに細められた。
「なぜ連れてきた」
低い声に、押し殺した緊張が滲んでいた。
志乃が一礼する。
「小夜様ご自身が知りたいと」
黒曜の視線が小夜へ留まる。
胸の鼓動が速くなる。けれど小夜は逸らさなかった。
「……言いました」
小夜は小さく、しかしはっきりと答えた。
「ただ待っているだけではいたくありません」
数拍の沈黙ののち、黒曜は言う。
「志乃のそばを離れるな」
「はい」
「何が見えても、勝手に前へ出るな」
「……はい」
それだけ言って、黒曜は再び庭へ目を向けた。
小夜は志乃の半歩後ろに立ち、庭を見つめる。頬を撫でる空気は鋭く、呼吸をする度に喉の奥が冷えた。
「……あれが、人ではない気配なのですか」
小夜が問うと、黒曜は低く答えた。
「境に棲みついたものだ」
境……
「人の世と、こちらの世の狭間にあるもの。形を持たぬまま留まり、時にこうして滲み出る」
その言葉が落ちた時、庭の奥の木立が震えた。
風ではない。そこだけが不自然に揺れた。
まるで暗がりの中で何かが身を起こしたように。
空中を漂っていた白い欠片が、一斉にそちらへ引かれていく。渦を巻くように木立の前へ集まり、やがてその中心から、白いものが現れた。
人の形をしているようでいて、定まらない。氷と霧を寄せ集めて無理に形を作ったような輪郭が揺れている。肩、腕、顔らしきものはある。だがどれも曖昧で、今にも崩れそうだった。顔のあるべき位置に開いた暗い穴の奥で、鈍い白が灯る。
目だ、と気づいた瞬間、小夜の背筋が凍った。それはまっすぐ、自分を見ていた。
異形が一歩、前へ出る。その度に足元の霜が伸び、庭石の表面を白く侵していく。
「止まれ」
黒曜の声が低く響く。その一言に空気が震えた。白い欠片の渦が一瞬止まる。だが次の瞬間、異形の輪郭が大きく揺らぎ、鋭い氷片がいくつも生まれて縁側へ放たれた。
小夜は息を呑む。志乃が前へ出るのと同時に、黒曜の手がわずかに上がる。放たれた氷片は縁側へ届く寸前で見えない壁にぶつかったように砕け、白い粉になって散った。
ぱらぱらと畳へ落ちたそれは、水にもならず消えていく。
怖い。それなのに、胸の奥では別の感覚が膨らんでいた。この気配を、知っている。そんなはずはないのに、身体のどこかがそう告げていた。
やがて、耳ではなく胸の内側へ直接触れるような、ひび割れた声が響く。
『返セ』
小夜の指先がびくりと跳ねた。
『返セ』
『カエセ』
『巫女ヲ』
その言葉が落ちた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
白く曇る視界。
凍るような夜気。
誰かの怒鳴り声
母の腕。
父の荒い息。
そして、聞き覚えのある村の男たちの声。
『まだ幼すぎる』
『今のうちに渡してしまえ』
『山が静まるなら、それで――』
断片が閃くように脳裏を走る。
「……っ」
小夜は思わず後ずさった。袖の内の髪紐を握る手に、力が入る。
「小夜様!」
志乃の声で我に返る。
目の前では異形がさらに膨らみ、今にも縁側へ踏み込もうとしていた。黒曜が一歩前へ出る。藍色の背が小夜の視界を半ば塞ぐ。
「下がれ」
その声が落ちた瞬間、異形の目が黒曜の肩越しに再び小夜を捉えた。
『ミツケタ』
空気が裂けたような気がした。
白い欠片が渦となって左右へ散り、その中心を抜けて異形の一部が細く尖り、小夜へ伸びてくる。
志乃が小夜の腕を引く。だがその一瞬より早く、小夜の頭の奥で景色が反転した。
夜。
桜。
血。
倒れた両親。
自分を庇う母の手。
その向こうに、松明を持った人影がいくつもあった。
賊ではない。
獣でもない。
見慣れた村の着物。
見慣れた草履。
顔までは思い出せないのに、確かに知っている声。
『早くしろ!』
『鬼が来る前に』
『その子を――!』
次の瞬間、黒曜の気配が鋭く閃いた。
異形の白い腕は途中で断ち切られ、砕けた氷のように散る。庭中へ強い冷気が走り、木々の枝がきしんだ。
黒曜が振り返る。その瞳は、異形へ向けていた時よりも激しく揺れていた。
「小夜!」
初めてだった。黒曜が、あそこまで露わな声で自分の名を呼んだのは。
小夜は震える息の合間に、ようやく言葉を絞り出す。
「……見えた、のです」
声は掠れていた。
「今……少しだけ」
異形は一度大きく揺らぎ、庭の奥へと下がっていく。消えたわけではない。木立の影でなお蠢き、こちらを窺っている。
黒曜が近づく。
「何を見た」
低い声の奥に、張り詰めたものがある。
小夜は唇を震わせた。
「村の……人たち、です」
自分でも信じられない言葉だった。 「私、ずっと賊か何かだと思って……でも、違う」
うまく息が吸えない。
「父と母が倒れていたあの夜、いたのは……」
喉が締まる。それでも、小夜は髪紐を握った手を胸元へ押し当て、震える声で、それでもはっきりと言った。
「――あの夜、いたのは賊なんかじゃない」
黒曜の瞳が揺れる。小夜はその目を見たまま続けた。
「村の人たちだったんですね」
その瞬間、庭の奥で異形が大きくうねった。まるで小夜の言葉に応じるように、白い欠片が一斉に舞い上がる。
両親の死。
村が隠していること。
自分が“触れてはならないもの”として扱われた理由。
すべてが、ようやくひとつに繋がりかけていた。
異形の声が再びひび割れたように落ちる。
『ミツケタ』
『ヤット……ミツケタ』
小夜は息を呑む。それは自分へ向けられた言葉のはずなのに、どこか別の意味も含んでいるように思えた。
黒曜の低い声が落ちる。
「志乃、小夜を下がらせろ」
だが、小夜は動かなかった。
「……嫌です」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
黒曜が振り返る。志乃も目を見開く。
小夜は胸元の髪紐を握ったまま、一歩だけ前へ出た。隠れるためではなく、見るための一歩だった。
「もう、見ないふりはしたくありません」
喉はまだ震えていた。
「怖いです。でも、私に関わることなら……知りたいんです」
黒曜はしばらく何も言わなかった。その瞳の奥には、止めたいのに止めきれないような苦さが揺れている。
やがて、ほとんど呟くような声が落ちた。 「……もう、そこまで来たか」
小夜はその意味を問いたかった。だがその前に、黒曜は視線を異形へ戻し、低く続ける。
「ならば、隠してはおけん」
志乃が小さく息を呑む。今の言葉は異形へ向けたものではない。自分へ向けられたものだと、小夜には分かった。
黒曜は振り返らぬまま告げる。
「小夜」
「……はい」
「あの夜のことを、今夜、話す」
小夜の指先が震える。
今夜。
その言葉が重く胸へ落ちた。
異形は木立の奥でなおこちらを見ていたが、その輪郭は少しずつ薄れ始めていた。消えたわけではない。再び現れると誰の目にも分かる形で、気配だけをそこに残している。
小夜は黒曜の背を見つめる。その背は相変わらず遠く、静かで、どこか痛々しいほど一人きりに見えた。けれど、もうただ遠いだけではない。
自分は今、その背の向こうにある真実へ手を伸ばそうとしている。
血に濡れた夜。
村人たちの声。
そして、自分へ向けられたあの言葉。
――その子を。
あれは何を意味していたのか。
なぜ自分は狙われたのか。
なぜ今、“巫女”と呼ばれたのか。
すべてを知れば、もう元の自分には戻れない。けれど、知らないままでいることも、もうできなかった。
白い欠片が最後にひとひら、縁側の先へ落ちる。それは溶けることなく、ただ静かに消えた。
小夜はその消える様を見つめながら、胸の内で確かに思った。
次に開かれるのは、屋敷の襖ではない。
自分の過去そのものなのだと。




