第六話 村からの使いと、戻らない答え
襖がゆっくりと開くと、ひやりとした空気がこちらへ流れ込んできた。
屋敷の奥まった一室であるはずなのに、その場だけが外気に触れているような、張り詰めた冷たさがあった。志乃の後ろに立つ小夜は、無意識のうちに袖の内の髪紐を強く握りしめる。薄藍の布が掌の中でわずかに皺を寄せ、その感触だけが今の自分を現実につなぎとめてくれているようだった。
室内には、すでに二人の人影があった。
一人は黒曜。
もう一人は、人間の男だった。
小夜は思わず息を呑む。
男は部屋の中央に座していたが、その背筋は硬く、居心地悪そうに落ち着きなく揺れている。年は四十ほどだろうか。日に焼けた皮膚、身につけている着物は質素で、旅の急ぎをそのまま形にしたように乱れていた。顔立ちに見覚えはない。けれど、その纏う空気にはひどく覚えがあった。
村の男たちが持っていた、あの、どこか他人を値踏みするような目だ。
男は襖の開く音に顔を上げ、立っている小夜の姿を見た瞬間、はっきりと目を見開いた。
「……っ」
何か言いかけ、しかしすぐには声にならないようだった。驚きと、安堵と、ためらいとが入り混じったような表情が、ぎこちなくその顔に浮かんでいた。
黒曜が低い声で言う。
「入れ」
小夜は静かに部屋へ足を踏み入れた。畳の上へ膝をつくと、男の視線がこちらへ向いたまま固まるのを感じる。
その視線に怯えそうになって、小夜は一瞬だけ目を伏せた。けれど、すぐに顔を上げる。
もう、ただ逃げるだけではいたくなかった。
「……誰、ですか」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
黒曜は男から視線を外さぬまま答える。
「お前の村の者だ」
その一言で、胸の奥が強く鳴った。
やはり、と思うと同時に、逃げ出したいような気持ちも込み上げる。けれど視線は逸らさなかった。男の顔を改めて見ても、やはりはっきりした見覚えはない。村の中では、子どもも大人も、小夜にとっては“目を逸らす人々”としてしか記憶に残っていないのかもしれなかった。
男はようやく声を絞り出した。
「……久しいな、小夜」
小夜は答えなかった。
その声音に親しみはなく、ただ気まずさを塗り隠そうとする薄い作り笑いだけが滲んでいるように聞こえたからだ。
男は小夜が沈黙したままでいるのを見て、落ち着かなげに膝の上の手を握り直した。
「お、俺は、村長の家の手代をしている者だ。お前も、何度か顔を合わせてはいるはずだが……」
そう言われても、小夜には思い出せなかった。
村長の家に出入りする者は何人もいたし、その誰もが小夜にきちんと顔を向けることはなかった。見えていても見ていないふりをされるのに慣れすぎて、こちらもまた、一人一人を覚えようとはしなかったのだ。
「……何のために、ここへ来たのですか」
小夜がそう訊ねると、男は一瞬だけ黒曜を窺った。
その目には、露骨な怯えがあった。鬼の屋敷の中にいるのだから当然なのかもしれない。けれど、その怯えが小夜に向けられたことは一度もなかったのだと気づいた時、胸のどこかが冷たくなった。
黒曜が言う。
「用があるのは私ではない。話せ」
男はびくりと肩を揺らし、慌てて頷いた。
「む、村長様の使いで参りました」
小夜の眉がわずかに動く。
村長。
その名を聞くだけで、あの座敷の湿った空気が蘇る。行く先が決まった、と言われた時の、どこか安堵したような大人たちの目。自分一人が場違いなものとして置かれていた、あの感覚。
男は続けた。
「村長様が……いや、村の者たちが、お前のことを案じておられる」
その言葉に、小夜は思わず笑いそうになった。
案じている。
その言葉があまりにも似合わなくて、驚きの方が先に立ったのだ。
「……私を?」
小夜の声には、自分でも分かるほど温度がなかった。
男は視線を揺らしながら頷く。
「そうだ。鬼のもとへやったとはいえ、その後どうなったか知れぬままでは、村としても……」
「村としても?」
小夜が問い返すと、男は言葉に詰まった。
小夜は男を見つめたまま、ゆっくりと息を吸う。
胸の奥で、今まで押し殺していたものが、少しずつ形を持ちはじめていた。怒りと呼ぶにはまだ淡く、悲しみと呼ぶには冷たすぎる何か。それでも、それは確かに以前の自分にはなかった感情だった。
「私がここでどうしているか、今更知って、何になるんですか」
男は目を逸らした。
「それは……」
「鬼に嫁げと言ったのは村です」
言葉は驚くほど滑らかに出てきた。
「戻れとも言わず、行けと言ったまま、見送ったのも村です」
男の顔が強張る。
小夜は自分でも不思議なくらい静かだった。泣きそうにも、震えそうにもならない。ただ、ずっと胸の奥に押し込めてきた言葉が、今ようやく外へ出る場所を見つけたようだった。
「そんな村が、どうして今更私を案じるんですか」
部屋の空気が、しんと静まる。
男は口を開きかけて、閉じた。何か言い訳を探しているのだろう。けれど見つからないのか、視線だけが落ち着きなくさまよっている。
黒曜はそのやりとりを黙って見ていた。
その沈黙は小夜を助けも追い詰めもしない。ただ、自分の言葉を自分のものとして立たせてくれる沈黙だった。
やがて男は、ようやく小さく言った。
「……山の様子がおかしいのだ」
その言葉に、空気がわずかに変わる。
小夜が目を瞬くより先に、黒曜の瞳が鋭く細まった。
「続けろ」
低い声に、男は喉を鳴らした。
「ここ数日、山の麓で妙なことが続いている。夜になると冷え込みが異様に強くなって、畑には霜が降り、春先だというのに水桶が薄く凍ることもある。それに……家畜が怯えて、誰もいない方を見て鳴くんだ」
小夜は袖の内の髪紐を無意識に握り込む。
雪。
春の夜に降った、あの白い雪。
その話を聞いた黒曜の表情もまた、いつもとは違って見えた。
男はさらに声を潜めた。
「村では、鬼の怒りではないかと囁かれている。お前を嫁に出したことで、何かが狂ったのではないかと……」
その瞬間、小夜の胸の奥がすっと冷えた。
あまりにも村らしい考え方だと、そう思った。
自分たちの都合で差し出しておきながら、何か異変があればまたこちらへ理由を求める。そこには罪悪感も後悔もなく、ただ“都合の悪いことの原因を探す”視線だけがある。
「……それで?」
小夜の問いに、男は言いにくそうに口ごもった。
黒曜が無言で見下ろすと、男はついに言った。
「村長様は、お前に一度戻ってきてほしいと……」
言い終わる前に、小夜の中で何かがはっきりと音を立てた。
戻る。
その言葉が、今の自分には奇妙なほど遠く感じられる。
数日前までいたはずの場所なのに、もうそこは自分の帰る先ではないと、胸のどこかで分かっていた。
「……嫌です」
気づけば、そう口にしていた。
男が目を見開く。
自分でも驚くほど、迷いのない声だった。
「私は、戻りません」
それは、初めて自分の意志で口にした拒絶だった。
村にいた頃の小夜なら、きっと黙ってうつむいただろう。相手の言葉が理不尽でも、正面から否定することなどできなかったはずだ。
けれど今は違う。
黒曜に何を告げられたからでもなく、誰かに背中を押されたからでもない。ただ、自分の中に生まれた「知りたい」「選びたい」という思いが、そう言わせたのだと分かった。
男は狼狽えたように言う。
「だ、だが、小夜……お前が戻らねば、村が」
「村が困るからですか」
小夜は男の言葉を遮った。
「私が困っていた時、村は何をしましたか」
男は黙る。
「目を逸らして、いないものみたいにして、それで最後には鬼のもとへ行けと言った。それなのに今更、村のために戻れと言うんですか」
男の顔から血の気が引いていく。
部屋の中に沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、小夜は自分の胸が激しく鳴っているのを感じていた。怖くないわけではない。だが、それ以上に、自分の口で言えたことが信じられなかった。
もう、ただ従うだけではいたくない。
その思いが、はっきりと形になっていた。
やがて黒曜が口を開く。
「聞いたな」
男はびくりと顔を上げた。
「小夜は戻らぬ。話は終わりだ」
「し、しかし……!」
「それ以上は、脅しと受け取る」
淡々とした声なのに、そこに逆らえる気配はなかった。
男は口をつぐみ、やがて悔しげに視線を伏せた。
「……分かった」
立ち上がる足取りは重く、部屋を出ていく背には、来た時よりもはっきりと疲れが滲んでいた。
襖が閉じる。
途端に、小夜の全身から力が抜けそうになった。
けれど、その場に崩れはしなかった。袖の内の髪紐を握りしめ、呼吸を整える。
黒曜が静かに小夜を見る。
「大丈夫か」
短い問いだった。
小夜はほんの少しだけ目を伏せ、それから頷いた。
「……はい」
喉の奥がまだ少し熱い。けれど、嫌な熱ではなかった。
黒曜はそれ以上踏み込まず、ただ低く言う。
「よく言った」
その一言が、思いがけず胸の奥へ深く落ちた。
村で誰かにそう言われたことは、一度もなかった。
小夜は顔を上げる。
黒曜の表情は変わらず静かだったが、その瞳の奥には昨夜見たのと同じ、痛みに似た優しさがあった。
その時、不意に屋敷の外で風が鳴った。
次いで、遠くで何かが軋むような音がする。
黒曜の視線がすっと外へ向く。
志乃が襖の向こうから声をかけた。
「黒曜様」
「入れ」
志乃が入ってきた時、その穏やかな顔にもはっきりと緊張があった。
「山の境に、別の気配がございます」
黒曜の眉がわずかに寄る。
「人ではありません」
その一言に、小夜の背筋が冷えた。
さきほどまでの村の使いのことではない。別の何かが、この屋敷へ近づいている。
黒曜が立ち上がる。
「小夜は部屋へ戻れ」
その声音に迷いはなかった。
小夜もまた、問い返しかけて言葉を飲み込む。今ここで何を言っても、黒曜がそれを譲らないことが分かったからだ。
けれど、ただ従うだけで終わりたくない思いもあった。
「……これは、村とは関係のないことなんですか」
黒曜は一瞬だけ黙り、それから小夜を見た。
「まだ分からん」
その答えは、かえって不安を大きくした。
分からない。
つまり、自分の過去も、村の異変も、今近づいているものも、どこかで繋がっているかもしれないということだ。
小夜は袖の内で髪紐を強く握りしめた。
黒曜はその仕草に気づいたように目を細めたが、何も言わなかった。ただ、低く、はっきりと言う。
「今は下がれ。お前に見せるべき時ではない」
その言葉に、小夜は唇を引き結ぶ。
以前の自分なら、それで黙って従っただろう。
だが今は、その「見せるべき時」がいつ来るのか、自分で確かめたいと思ってしまう。
「……分かりました」
それでも、小夜は頷いた。
今ここで無理に食い下がることが、自分の望む答えに繋がらないことも分かっている。
部屋を出ようとしたその時、黒曜が背後から呼んだ。
「小夜」
小夜は振り返る。
黒曜はほんの一瞬だけ視線を落とし、それから静かに言った。
「さっきの返事は、お前が選んだものだ」
村へ戻らないと告げた、あの言葉のことだとすぐに分かった。
「忘れるな」
小夜は息を呑む。
それは褒めるでも慰めるでもない。けれど、確かに自分の言葉を、自分の選択として受け止めてくれる響きがあった。
小夜は小さく頷く。
「……はい」
そして、部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、屋敷の空気はさっきまでとは違う張り詰め方をしていた。遠くで風が鳴り、どこかで戸が軋むような音がする。人ではない別の何かが、確かにこの屋敷へ近づいている。
小夜は自室へ戻りながら、袖の内の髪紐をそっと握りしめた。
村へ戻らないと、自分の意志で言った。
その事実だけが、胸の奥で静かな熱を持っている。
けれど同時に、黒曜の言った「見せるべき時ではない」という言葉も、重く残っていた。
まだ自分は、知らされていないことがある。
まだ見ていないものがある。
そしてそれは、たぶんもうすぐ、否応なく目の前に現れる。
自室の襖を閉めた時、外でふっと風が強まった。
障子がかすかに揺れ、藍色の部屋に落ちる光が揺らぐ。
小夜はそっと窓の方を見た。春のはずなのに、空気が冷たい。
次の瞬間、障子の向こうに、白いものがふわりと掠めた。
雪――ではない。
花びらでもない。
もっと小さく、もっと鋭い、氷の欠片のようなものだった。
小夜の呼吸が止まる。
その白いものは、ひとひら、ふたひらと増え、やがて障子の向こうを無音のまま横切っていく。
見たことのない気配だった。
けれど胸の奥は、なぜかそれを“初めてではない”と知っていた。
小夜は無意識に後ずさる。
その時、屋敷のどこかで、鋭く何かが割れる音が響いた。
びくりと肩が跳ねる。
音は一度きりではなかった。続けて二度、三度と響く。
まるで、何かが境を壊して中へ入ろうとしているように。
小夜は袖の内の髪紐を強く握ったまま、震える息を飲み込んだ。
次の瞬間、廊下の向こうから誰かが走る足音が近づいてきた。




