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第五話 藍の髪紐と、戸口の向こう

 朝、小夜が目を覚ました時、部屋の中にはまだ夜の名残が薄く漂っていた。

 障子の向こうは白みはじめているのに、藍色の調度に囲まれた室内には静かな翳りが残っていて、まるで夜と朝の境目だけがこの部屋に置き去りにされたようだった。浅い眠りを何度も行き来したせいで、身体は少し重い。けれど、それ以上に胸の奥に残っているざわめきが、小夜から眠気を遠ざけていた。


 枕元に置いた髪紐が、目に入る。

 昨夜、文机の上に置かれていた小さな包み。その中から現れた、薄藍色に桜の刺繍が施された古びた髪紐は、朝のやわらかな光を受けて、夜に見た時よりもいっそうはっきりと輪郭を帯びていた。

 小夜はそれをそっと手に取った。

 指先に触れる布は驚くほど馴染みがよく、初めて触れるものとは思えない。何度も結び、何度もほどき、長く使われてきたのだと分かる柔らかさがあった。その感触が、言葉より先に「これは自分のものだった」と告げてくる。

 けれど、記憶はそこで途切れる。

 なぜこれが黒曜の手元にあったのか。どうして今、自分の部屋に置かれていたのか。その先へ進もうとすると、靄がかかったように輪郭が失われてしまう。

 小夜は髪紐を手の中で広げ、ためらいがちに自分の髪へあててみた。

 結べるかもしれない、と思ったのだ。

 指を動かす。髪をひと束すくい、髪紐を回そうとして――手が止まる。

 分からない。ほんの少し先の動きが、どうしても思い出せない。

 その瞬間、不意に胸の奥を何かが掠めた。

 風。


 舞い散る桜。

 幼い自分の視線の高さ。

 そして、背後から伸びてくる大きな手。


 誰かが、自分の髪を結っている。慣れた手つきではなく、慎重で、少しぎこちなく、それでも乱さぬようにと気を遣うような指先だった。耳元で低い声が響いている。何を言っているのかは分からない。ただ、その声音だけが不思議なほど安心をくれた。


 次の瞬間、像はほどけた。

 小夜は思わず息を呑む。

 今のは想像ではない。確かに、自分の中にあった記憶だ。けれど、あまりに短く、あまりに曖昧で、掴んだと思った途端に指の隙間から零れ落ちてしまう。

 それでも、一つだけ分かることがあった。

 自分はこの髪紐を持っていただけではなく、誰かに結んでもらった記憶を持っている。

 そして、その「誰か」は、おそらく――。

 小夜はその先の名を心の中で形にする前に、髪紐をそっと握りしめた。

 怖い、と思う。

 思い出すことが怖いのではない。思い出した先に、自分が何を知ってしまうのかが怖いのだ。

 自分は確かに「知りたい」と口にした。知ってなお選びたいのか、あるいは選べなくなるのか、それを確かめるのは自分なのだと、黒曜の言葉はそう告げていた。

 小夜はゆっくりと息を吐くと、髪紐を袖の内へしまい、身支度を整えるために立ち上がった。



 朝餉の席へ向かう廊下は、昨夜よりも少しだけ明るかった。

 障子越しの光が床に淡い四角を落とし、そこを歩くたび、小夜の足元を白く照らしていく。屋敷の中には人の気配がある。けれど、村にいた頃のように、それはすぐに視線や囁きへ変わることはなかった。すれ違う使用人たちは静かに頭を下げるだけで、それ以上のことはしない。そのことにまだ慣れないまま、それでも小夜は少しずつ、この静かな距離の取り方に救われ始めていた。


 部屋に入ると、志乃がすでに膳を整えていた。

「おはようございます、小夜様」

 穏やかな声に、小夜も小さく頭を下げる。

「……おはようございます」

 膳の前に座り、箸を取る。湯気の立つ汁からは柔らかな香りが立ちのぼっていた。口に運べば、昨日と同じく、身体の内側へ静かな温かさが染み込んでいく。

 美味しい、と思う。その感覚は確かなのに、今日はどこか落ち着かない。胸の奥ではずっと、何かを待っているようなざわめきが続いていた。

「お顔の色が良くありませんが、あまり眠れませんでしたか」

 志乃にそう問われ、小夜は一瞬だけ言葉に迷った。

「……少しだけ、夢を見た気がします」

「夢、でございますか」

「でも、起きたらもう思い出せませんでした」

 それは半分だけ本当だった。思い出せないのは夢だけではない。思い出しかけては崩れていく記憶そのものが、小夜の胸を落ち着かなくさせている。

 志乃は無理に続きを尋ねなかった。ただ静かに湯呑みを差し出してくる。その距離感がありがたく、小夜は礼を言って受け取った。


 その時だった。

「……来ているな」

 低い声が、部屋の入口から落ちた。

 小夜が顔を上げると、そこには黒曜が立っていた。

 朝の光の中でも、その姿は夜と同じように静かだったが、今日は空気の纏い方が違った。琥珀色の瞳の奥に、いつもより鋭い緊張が宿っている。

 志乃がすぐに立ち上がった。

「はい。先ほどより、少しずつ近づいております」

 その言葉に、小夜の背筋がわずかに強張る。

「……何が」

 問いは自然に口をついて出た。

 黒曜は一拍だけ黙り、小夜に視線を移し答えた。

「人の気配だ。山の外から、こちらへ向かっている」

 人。

 その一言が、小夜の中で重く沈む。

 村の者だろうか。そう考えた瞬間、井戸端の囁き声や、目を逸らす子ども達の顔が脳裏を掠めた。だが、あの村の誰かが自分を迎えに来るとは到底思えない。では、何のために。誰が。どうして。

「村の方でしょうか」

 小夜の声は、自分で思うより静かだった。

「まだ分からん。だが、ただの通り道ではない」

 黒曜の答えは短い。けれど、その短さの中に、はっきりとした警戒が滲んでいた。

 志乃が続ける。

「この辺りへ人が立ち入るのは稀でございます。しかも、ためらう気配がないのです」

 ためらう気配がない。

 その言葉に、小夜の胸の奥がざわつく。

 ここが鬼の屋敷だと知っていてなお、近づいてくる者がいるということだ。

 怖い。けれど同時に、どこかで確かめたいという思いも生まれる。外の世界が自分を追ってきたのか。それとも、まったく別の何かなのか。いずれにせよ、その気配はこの静かな屋敷の時間を揺らし始めている。


「外へは出るな」

 黒曜が言った。

 短い言葉だったが、その声音には命令よりも、守るための硬さがあった。

 小夜は素直に頷く。

「……はい」

 逆らう気にはなれなかった。だが、ただ従うだけではない何かが、自分の中に芽生えていることにも気づいていた。前なら、怖いことは見ないようにして、何も考えないふりをしただろう。けれど今は違う。胸の奥で、知りたいという火が消えずに残っている。


 黒曜は踵を返しかけて、ふと小夜を振り返った。

「髪は、そのままでいい」

 小夜は目を瞬かせる。

 結べなかった髪。袖に隠した髪紐。そのことに黒曜は気づいていたのだ。

 しかし、それ以上は何も言わず、黒曜は部屋を出ていった。

 小夜はしばらくその背を見送ることしかできなかった。


 そのままでいい――その言葉の意味はまだ分からない。けれど、責めるでもなく、問い詰めるでもなく、ただそれでいいと告げられたことが、なぜか小夜の胸の奥に静かに残った。



 その日の午後、屋敷の空気は朝よりも明らかに張り詰めていた。

 小夜は自室に戻っていたが、落ち着いて座っていることができず、障子のそばへ寄ってはまた文机の前へ戻ることを何度も繰り返していた。外から見える庭は変わらず静かで、春の光の中にまだ名残の雪が淡く残っている。白はところどころ薄くなっていたが、完全には消えていなかった。

 雪もまた、ここに留まり続けている。

 そう思った時、小夜はふと、自分もまた似たようなものなのではないかと感じた。村を離れ、鬼の屋敷へ来て、もう元の場所には戻れないはずなのに、心のどこかにはまだ、あの場所の冷たさが残っている。だが同時に、この屋敷の静けさや、藍色の部屋、黒曜の低い声も、少しずつ自分の中へ入り込みはじめていた。

 袖から髪紐を取り出す。

 指で撫でると、また胸の奥が揺れた。

 小夜は文机の前に座り、今度は髪紐を結ぶのではなく、ただ膝の上に置いてじっと見つめた。

 すると、不意に脳裏に浮かぶものがあった。

 桜だけではない。

 細い自分の髪を、誰かが不器用そうに束ねている光景。その視界の片隅に、藍に近い色が見えた気がした。着物だったのか、髪だったのか、それともただの思い違いか。はっきりとは分からない。だが、胸が強く鳴る。

 黒曜の髪の色と、藍の部屋の色と、この髪紐の色。

 それらが一本の線で結ばれそうになって、また消える。

「……どうして」

 問いは、ほとんど吐息に近かった。


 その時、屋敷のどこか遠くで、低く乾いた音がした。

 小夜ははっと顔を上げる。

 何かが、変わった。空気が張る。

 目には見えないのに、遠くから押し寄せるような気配があった。人の気配。朝よりも、近い。しかも今は、明らかにこの屋敷の境へ触れようとしている。


 小夜は立ち上がった。

 外へ出るな、と黒曜は言った。分かっている。分かっているのに、足が襖の方へ向かう。

 知りたい。この屋敷へ何が近づいているのか。自分と関わりがあるのかないのか。ただ怯えて待つだけではなく、自分の目で確かめたいという気持ちが、もう抑えきれなくなっていた。

 けれど、襖に手をかける直前で、小夜は止まる。

 もし外へ出て、黒曜の言葉に背いたら。その先に何があるのか分からない。

 手の中の髪紐を、きゅっと握りしめる。柔らかな布の感触が、少しだけ心を落ち着かせた。


 その時、廊下の向こうから足音が近づいてきた。

 静かだが、ためらいのない足音だった。

 小夜が襖を開けると、そこには志乃が立っていた。いつもの穏やかな表情ではあるものの、その目元にはわずかな緊張が見て取れる。

「小夜様」

 声は落ち着いている。

 けれど、それがかえって事態のただならなさを感じさせた。

「……何か、あったのですか」

 志乃はすぐには答えなかった。小夜の手元――髪紐を握る指先へ一瞬だけ視線を落とし、それから静かに言う。

「黒曜様が、お呼びです」

 小夜の胸が強く鳴る。

「外に来ている者について、ですか」

「はい」

 短い返答だった。

 小夜は一瞬だけ迷う。

 怖い。けれど、その怖さの奥に、昨夜までとは違う熱があった。隠されていたものが、今ようやく動き始めている。そう感じるからだ。

 小夜は小さく頷いた。

「……行きます」

 その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが静かに定まるのを感じた。

 志乃は深く一礼し、小夜の前を歩き出す。

 廊下を進みながら、小夜は袖の内の髪紐をそっと握り直した。

 藍色の部屋を出て、長い廊下を渡り、屋敷の奥へ向かう。

 外の気配は、さらに近くなっている。

 それはもう、ただ「近づいている」と表現するには足りないほど、はっきりと屋敷の空気に入り込んでいた。

 小夜は一度だけ、深く息を吸う。

 怖い。けれど、もう後ろを向きたくはなかった。

 あの村で、ずっと目を伏せて生きてきた自分とは違う。

 知りたい。知って、それでも選びたいと思った。

 その思いだけが、今の小夜を前へ進ませている。


 やがて志乃が足を止めた。

 黒曜の部屋ではない。だが、屋敷の中でも空気の重さが明らかに違う場所だった。障子の向こうからは、低く押し殺したような声が微かに聞こえる。すでに誰かがそこにいるのだ。

 志乃が小夜を振り返る。

「小夜様」

 その呼びかけに、小夜は顔を上げた。

「ここから先は、どうかご自身の目でお確かめください」

 その言葉に、小夜は一瞬息を呑む。

 けれど、すぐに小さく頷いた。

 志乃が静かに襖へ手をかける。

 その向こうにいるのが誰なのか、小夜にはまだ分からない。

 けれど、確かなことがひとつだけあった。

 この襖が開けば、また何かが変わる。


 記憶も、黒曜との距離も、自分の置かれた立場も――もう、昨夜までのままではいられない。


 小夜は袖の内の髪紐を強く握りしめたまま、静かに前を向いた。

 そして、襖がゆっくりと開いた。

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