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第四話 あの日の欠片と、選ぶということ

 その夜、小夜は藍色の部屋で何度も呼吸を整えていた。

 座っていても、立ち上がっても、障子の外を見ても、胸の奥で鳴り続ける鼓動だけは少しも静まらない。湯あみを済ませ、寝間着に着替え、髪を整えてもなお、時間だけが妙に遅く流れているように感じられた。


 ――今夜、ひとりで来い。


 黒曜の声が、耳の奥に残って離れない。

 あれは命令のようでいて、最後の選択だけは小夜に委ねているかのような声だった。行くか、行かないか。それすらも自分で決めろと、そう言われている気がした。

 行かなければ、まだ何も知らずにいられる。

 けれど行かなければ、きっと一生知らないままだ。


 小夜は膝の上で手を握りしめた。

 知りたい。怖い。それでも知りたい。

 その思いはもう誤魔化せないほど大きくなっていた。


 やがて、小夜は静かに立ち上がった。

 襖を開けると、夜の廊下には淡い行灯の光が落ちていた。昼よりも静かな空気の中を、小夜は一歩ずつ進んでいく。黒曜の部屋はもう分かっている。近づくにつれて胸の鼓動はますます速くなったが、足は止まらなかった。


 襖の前に立ち、ようやく声を絞り出す。

「……小夜です」

 数拍の沈黙のあと、低い声が返る。

「入れ」

 小夜は襖を開いた。

 部屋には月明かりと行灯の火が静かに溶け合い、開け放たれた窓の向こうには雪が降っていた。黒曜は窓辺に座し、藍色の髪を夜に溶け込ませるようにして、外を見ている。

「そこへ座れ」

 言われた場所に、小夜は静かに腰を下ろした。近いようで遠い距離だった。

 しばらく沈黙が落ちる。

 やがて、小夜は意を決して口を開いた。

「……何を、教えてくださるのですか」

 黒曜は雪を見たまま答えた。

「お前が知りたがっていることの、全部ではない」

 低く落ち着いた声だった。

「だが、何も知らぬままでは、お前は先へ進めないだろう」

 小夜は黙って頷いた。

 黒曜はようやくこちらを見た。琥珀色の瞳には、昼間とは違う静かな覚悟があった。

「お前の問いに答えよう」

 そこで一度だけ目を伏せる。


「……あの日、お前を抱きしめたのは私だ」


 小夜の胸が大きく鳴った。喉の奥が詰まり、何かを言おうとしても声にならなかった。

 予感はあった。だが実際にその言葉を聞くと、身体の奥が強く揺れる。

 やはり、黒曜だった。

 あの日、血に濡れた地面の前で、自分を背中から包み込み、見なくていいと言ってくれた人。

 小夜は震える声で問い返す。

「……どうして」

 黒曜はしばらく黙っていたが、やがて静かに話し始めた。

「山を見回っていた時、人の村の方から異様な気配がしたからだ。血の匂いもあった」

 小夜は息を詰める。

「私が着いた時には、もう遅かった。お前の両親は倒れていて、お前はその前で泣いていた」

 記憶の底に沈んでいた景色が、言葉に引かれて浮かび上がる。赤く濡れた地面。崩れ落ちた母の着物。動かない父の手。幼い自分の泣き声。

「お前はあまりに幼かった」

 黒曜の声が、わずかに低くなる。

「だから……見せたくなかった」

 小夜ははっと顔を上げた。

 その声音には、あの日と同じ優しさがあった。

「……あの時、どうして『また会える』と言ったのですか」

 黒曜は小さく息を吐く。

「お前が来ると、思っていたからだ」

 小夜の瞳が揺れる。

「どうして、そんなこと……」

「お前の村のことは前から知っていた」

 小夜は息を呑んだ。

「鬼に娘を差し出すという噂もな。身寄りのない娘がいずれ誰か差し出される。その時、お前が選ばれる可能性は高いと分かっていた」

 胸の奥が冷える。

 黒曜は未来を決めていたのだろうか。そう思いかけた小夜に、黒曜は静かに続けた。

「だが、決まっていたわけではない」

 小夜は顔を上げる。

「お前が別の道を選ぶこともあったかもしれん。村を出ることも、誰かに助けを求めることも」

 黒曜は小夜をまっすぐ見た。

「私は、ただ……来るかもしれないと思っていた」

 その言葉は予言ではなく、願いに近かった。

「そして、来るなら私のもとへ来ればいいと思った」

 小夜の心臓が、強く脈打つ。

 運命を言い当てたのではない。ただ、そう信じていたのだと、黒曜は言っている。

「……それなのに」

 小夜は震える声で問う。

「どうして、私を遠ざけるんですか」

 黒曜の表情が、はっきりと揺れた。

「お前に選ばせるためだ」

 あまりにも真っ直ぐな答えだった。

「私が先に手を伸ばせば、お前は理由も分からぬままここへ縛られる」

 低い声が、静かに続く。

「それは、お前が選んだことにはならない」

 小夜は言葉を失った。

 冷たく見えた言葉も、距離を取る態度も、今ようやく別の意味を持ちはじめる。

「……思い出したら、私はここを選べなくなると、言っていました」

 黒曜はわずかに目を細めた。

「聞いていたのか」

「……はい」

 責めることなく、黒曜は静かに答える。

「思い出した先に、お前が私を恨むかもしれないからだ」

 その言葉に、小夜の胸が痛む。

「私はお前を救った。だが同時に……お前の人生の始まりに関わってしまった」

 黒曜は自嘲するように口元を歪めた。

「あの日、私がお前に触れたことで、お前は鬼の気配を帯びた」

 小夜は目を見開く。

「……え」

「それが村の者にどう見えたのかまでは分からん。だが、あの日以後、お前が異質なものとして扱われたのなら――私のせいでもある」

 部屋の空気が凍りつくように静まる。

 自分が村で“触れてはならないもの”のように扱われるようになった理由。そのすべてではなくても、その一端に黒曜が関わっていると、彼自身が認めたのだ。

 小夜の中で、驚きと戸惑いと痛みがぶつかり合う。

 それでも、小夜は黒曜から目を逸らせなかった。

 この人は、自分を傷つけたかもしれない人であり、同時にあの日、自分を守ってくれた人でもある。

 その矛盾の前で、簡単に答えなど出せるはずがなかった。

 長い沈黙のあと、黒曜が立ち上がる。

 窓辺へ歩き、降り始めた雪を見つめた。

「だから私は、お前に選ばせたかった」

 背を向けたまま、黒曜は言う。

「何を知っても、何を思い出しても、それでもここにいると言うなら、その時初めて私は――」

 そこで言葉が切れた。

 けれど、小夜にはその沈黙の重さが伝わった。

 黒曜はずっとひとりで抱えてきたのだ。自分を救ったことも、傷つけたかもしれないことも、そのすべてを。

 小夜はゆっくりと口を開いた。

「……私は」

 黒曜は振り返らない。

「まだ、分かりません」

 声は思ったよりもはっきり出た。

「何を知って、何を選べばいいのか……まだ、分かりません」

 それは正直な言葉だった。

「でも」

 小夜は胸元で手を握る。

「知りたいです」

 黒曜の肩が、わずかに揺れた。

「全部ではなくても……私がここにいる理由も、あなたが私を遠ざける理由も、ちゃんと知りたい」

 ようやく黒曜が振り返る。

 その瞳にあったのは、驚きではなく、痛みに近い静けさと、その奥にある微かな安堵だった。

 小夜はその目を逸らさなかった。

 怖い。けれど逃げない。

 そのことだけは、もう自分で決めていた。


 黒曜はしばらく小夜を見つめたあと、低く言った。

「……そうか」

 その一言は、どこか苦く、そしてひどく優しかった。

 やがて視線を外し、続ける。

「今夜は戻れ。これ以上話せば、お前は眠れん」

 そう言われて、小夜はようやく自分の呼吸が浅くなっていたことに気づく。

「続きは、また話す」

 その言葉に、小夜の胸が静かに揺れた。

 小夜は深く頭を下げる。

「……はい」

 それ以上何も言えず、襖の方へ向かう。手をかける直前、振り返ると、黒曜は再び雪を見ていた。その横顔は夜に溶けるように静かだったが、もう最初の頃のような遠さだけではなかった。


 小夜は何も言わず、部屋を出た。

 襖を閉めた瞬間、張り詰めていたものが一気にほどける。

 自室へ戻る廊下が、やけに長く感じられた。


 知ってしまった。黒曜があの日の人であること。自分が村で疎まれた理由の一端に、黒曜が関わっていること。黒曜がずっと自分の選択を守ろうとしていたこと。

 そのすべてを知った今でも、小夜の胸の奥にはまだ消えない熱があった。

(……私は、どうしたいのだろう)

 答えはまだ出ない。けれど、きっと出さなければならないのだ。


 藍色の部屋へ戻り、襖を閉める。

 その時、文机の上に、小さな包みが置かれていることに気づいた。部屋を出る前には目に入らなかったはずのそれは、まるで最初からそこにあったかのように、静かに佇んでいる。

 薄い藍色の布で包まれているそれをそっとほどくと、中から現れたのは古びた髪紐だった。

 薄藍色に、桜の刺繍。

 小夜の呼吸が止まる。見覚えがある気がした。けれど、それがいつの記憶なのか分からない。

 その色も、その手触りも、胸の奥を鋭く刺した。

 次の瞬間、頭の奥で何かが弾ける。


 ――あの日。

 桜が散る中、自分の髪を結んでいたのは、これと同じ髪紐ではなかったか。

 藍色。桜。あの声。

 小夜は思わず髪紐を握りしめた。

 これは、黒曜が置いたものだと確信した。では、なぜ、これを黒曜が持っているのだろう。

 閉じた襖の向こうで、夜の気配は深まっていく。

 小夜はゆっくりと、髪紐を手の中でほどくように撫でた。

 指先に触れる布の感触は、思っていたよりも柔らかく、どこか懐かしい。まるで遠い日の自分が、そこに確かに存在していた証のようだった。

 胸の奥で、何かが静かに揺れる。

 思い出したい、という衝動と、思い出してしまえば何かが変わってしまうのではないかという恐れが、同時にせり上がってくる。

 けれど、小夜はもう目を逸らさなかった。

 髪紐をそっと握り直し、胸元へ引き寄せる。

(……これも、私の過去)

 まだ断片でしかない記憶。けれど、それを辿ることをやめたくないと思った。

 黒曜が言った言葉が、胸の奥で静かに響く。


 ――何を知っても、それでもここにいると言うなら。


 それは、ただここに留まるかどうかの話ではない。

 自分の過去も、痛みも、すべてを含めたうえで、それでも選ぶのかという問いなのだと、今なら分かる。

 小夜はゆっくりと顔を上げた。

 障子の向こう、夜はまだ続いている。雪はやまず、静かに降り積もっていく。その白さは、すべてを覆い隠すようでいて、同時に何かを浮かび上がらせるようでもあった。


(……私は)


 まだ答えは出ない。けれど、逃げないと決めた。

 知らないままでいることより、知ることを選ぶと。それがどんな結果に繋がるとしても。

 小夜はそっと髪紐を畳み、枕元に置いた。

 まるで、今夜は眠る前に何かを決めてしまわないようにするための、小さな区切りのようだった。

 灯りを落とし、布団へ入る。

 目を閉じても、すぐには眠れなかった。

 黒曜の言葉。雪の夜。あの日の記憶。手の中に残る感触。

 すべてがゆっくりと繋がり始めている。

 やがて、小夜は静かに息を吐いた。その呼吸は、昨日までよりも少しだけ深かった。

 知らなかったものに触れた夜。

 けれど、それは終わりではなかった。

 ――まだ、何も終わっていない。


 降り続く雪の音だけが、静かに夜を満たしていた。

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