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第三話 触れられない距離と、優しさの理由

 朝餉の湯気は、なおも淡く立ちのぼっていた。

 小夜は膳の前に座ったまま、その白い揺らぎをぼんやりと見つめていた。湯気は形を持ったかと思えばすぐにほどけ、どこへともなく消えていく。まるで今の自分の思考のようだと、ふと思った。


 ――時間が来れば、あの娘も気づく。あれは、間違いなく自分のことを指していた。

(……何に、気づくの)

 問いは浮かぶのに、答えは見えない。

 けれど、見えないからといって、もう昨日までのように目を伏せていることはできなかった。ここへ来るまでの小夜なら、きっと考えること自体をやめていただろう。分からないものは分からないままにして、ただ与えられた場所に座っていたはずだ。

 けれど、今は違う。

 藍色の部屋で目覚めた朝から、胸の奥に小さくとも確かな熱が灯っていた。それは不安とも恐れとも似ていたが、それだけではない。もっと前へ向かおうとする、頼りないが消えない火種のようなものだった。

 小夜は箸を置き、ゆっくりと息を吐く。


 怖い。

 けれど、知りたい。


 そう思ってしまったこと自体が、もう昔の自分ではない証のように思えた。


 立ち上がって襖を開けると、廊下には静かな朝の空気が流れていた。遠くで、誰かが水を運ぶ気配がかすかに動く。それ以外には、何ひとつ音らしい音はない。

 小夜はしばらくその場に立っていたが、やがてそっと歩き出した。

 どこへ行こうという当てもない。ただ、じっとしていることができなかった。


 屋敷の廊下はどこもよく似ているのに、場所によって微かに匂いが違っていた。どこかの部屋からは香の香りが漂い、別の廊下には冷えた水の匂いが混じっている。障子越しに差し込む光は柔らかく、足元へ長い影を落としていた。


 村では、歩いていれば必ず誰かの視線に行き当たった。

 けれどここでは、誰も小夜を凝視しない。必要以上に声をかけることもない。ただ、すれ違えば静かに頭を下げるだけだ。そのことに安心している自分がいる一方で、どう振る舞えばよいのか分からず戸惑う自分もいた。


 やがて廊下の先に、昨夜も見た庭が現れる。

 雪はまだ、完全には消えていなかった。

 春の光を受けて淡く溶けかけながらも、白はなおそこに残っている。石畳の上、枝先、庭石の影。静かに、けれど確かに。

 小夜は縁側へ寄ると、足を止めた。

 昨夜、初めてこの雪を綺麗だと思った。今朝になって見ても、その思いは変わらない。むしろ明るい中で見ると、白はなおいっそう冴え、現実のものとは思えないほど美しかった。

 けれど同時に、この雪はどこかおかしい。

 春の雪が一晩で消えぬことも、屋敷の中だけが不自然なほど静かなことも、そして黒曜が雪を見た時のあの目も――すべてが、どこかひとつに繋がっている気がした。


「小夜様」

 背後から柔らかな声がして、小夜は振り返った。

 志乃が立っていた。手には小さな盆を持っている。湯呑みがひとつ、そこに載っていた。

「こちらにいらしたのですね」

「……すみません。勝手に歩いてしまって」

 咄嗟に謝ると、志乃は不思議そうに首を傾げた。

「なぜ謝られるのですか。屋敷の中でございましたら、ご自由になさって構いません」

 その言い方はあまりにも自然で、小夜は返す言葉を失う。

 自由、というものを、自分に向けられる日が来るなど思っていなかった。

 志乃は縁側の近くまで来ると、盆を差し出した。

「冷えますので。どうぞ」

 湯呑みからは、ほのかな湯気が立っている。小夜は受け取るべきか少し迷ったが、断る理由も見つからず、両手でそっと受け取った。

 掌に、じんわりと温もりが広がる。

「……ありがとうございます」

 湯呑みに口をつけると、ほんのり甘い香りがした。茶とも違う、優しい味わいだった。飲み込むと、冷えていた身体の内側が少しずつ温まっていく。

 志乃はその様子を見届けてから、小さく目を細めた。

「お気に召しましたか」

「はい……初めて飲む味です」

「屋敷で時折お出しするものです。黒曜様はあまり召し上がりませんが」

 さらりと言われたその言葉に、小夜はわずかに反応する。


 黒曜。


 名を聞くだけで、胸の奥が微かに揺れた。

 志乃はその変化に気づいたのか、気づかないふりをしたのか、そのまま穏やかに庭へ目を向ける。

「雪、まだ残っておりますね」

「……はい」

「昨夜よりも、少しだけ薄くなりました」

 その言葉に、小夜もまた雪を見た。

 確かに、白は夜より淡い。けれど消えたわけではない。春の日差しを受けてなお残る雪は、やはりどこか不自然だった。

 小夜は湯呑みを両手で包んだまま、思い切って口を開いた。

「……あの」

「はい」

「この雪は……」

 そこまで言って、言葉が止まる。

 何を聞きたいのか、自分でもうまく形にできなかった。ただ、知りたいと思った。これはただの雪なのか。なぜ昨夜、黒曜はあの雪を見ていたのか。なぜこの屋敷では、春なのに雪が降るのか。

 志乃は急かさず、静かに待っていた。

 その沈黙に背を押されるように、小夜は続ける。

「……普通では、ないのですか」

 志乃は一瞬だけ視線を伏せた。

 だが、すぐに小夜を見る。

「普通か普通でないか、と問われますと……少々答えに困ります」

 やんわりとした言い方だった。

 それが、否定ではないことは分かる。

「この屋敷では、時折このようなことがございます」

「……黒曜様と、関係があるのですか」

 問いかけた瞬間、自分でも息を呑んだ。

 踏み込みすぎた気がしたからだ。

 だが志乃は驚いた顔をせず、むしろわずかに微笑んだ。

「小夜様は、よくご覧になっておられますね」

 肯定とも否定ともつかぬ返しだった。

 けれどそれだけで十分だった。


 小夜の胸に、ひとつの答えが生まれる。

 ――やはり、雪と黒曜は無関係ではない。

 その時、ふと視線の端に藍色がかすめた。

 庭の向こう、柱の影。そこに黒曜が立っていた。

 小夜は思わず声を失う。

 いつからいたのか分からない。雪の名残る庭を背にして立つその姿は、朝の光の中でもなお静かで、どこか現実味が薄い。

 志乃が振り返り、すぐに一礼する。

「黒曜様」

 黒曜は小さく頷くだけだった。

 小夜は湯呑みを持つ手に力が入るのを感じた。

 黒曜の視線は、まず志乃に向けられ、それからゆっくりと小夜へ移る。ほんの一瞬、その琥珀色が湯呑みに触れた。

「……何をしている」

 声は低く、いつも通り簡潔だった。

「雪を見ておりました」

 志乃が答える。

 黒曜はそれ以上問わなかった。代わりに、小夜の手元へ再び目を向ける。

「冷えるぞ」

 それだけ言って、視線を外した。

 だがその一言に、小夜は小さく息を詰める。

 気にかけている。

 それは分かるのに、黒曜の口調はあまりにも淡白で、まるでそれを悟らせまいとしているようだった。

 黒曜はそのまま縁側へ近づき、雪の残る庭に目をやる。小夜と志乃からは、半歩だけ離れた位置に立つ。その距離が、どうしようもなく黒曜らしかった。

 近くに来るのに、決して近づきすぎない。

 触れられる位置へは来ない。


 小夜はその横顔を盗み見る。

 藍色の髪が光を受けて、ひどく静かな色をしていた。あの部屋の色と、どこか似ている。そう気づいた瞬間、小夜は自分で驚いた。

(……どうして)

 部屋の藍色も、黒曜の髪も、見ていると胸の奥が落ち着く。

 そんなことが、あるのだろうか。


「黒曜様」

 志乃が、控えめに口を開く。

「本日の御用向きは、午の刻よりでございましたか」

「ああ」

 短く答える声。

「では、それまでに文をまとめておきます」

 志乃がそう言うと、黒曜は再び小さく頷いた。

 そのやりとりは淡々としていたが、小夜にはひどく新鮮だった。黒曜はただ座しているだけの存在ではなく、何かの役目を担っているのだと、今さらのように思い知らされる。


 鬼の屋敷の主。

 自分の夫になる人。

 そして、どこかで自分を知っている人。


 ひとつの呼び名では言い尽くせない存在が、そこにいる。


「……小夜様」

 志乃に呼ばれ、小夜ははっと顔を上げた。

「お部屋へ戻られますか」

「……はい」

 そう答えかけたところで、黒曜の声が落ちた。

「待て」

 二人とも動きを止める。

 黒曜は少しだけ間を置き、それから小夜を見た。

「その湯は、飲み切れ」

 言葉はそれだけだった。

 けれど、小夜は一瞬返事ができなかった。

 その一言が、思っていたよりもずっと優しかったからだ。命令の形をしていながら、そこにあるのはたしかな気遣いだった。

「……はい」

 ようやく頷くと、黒曜はもう小夜を見ていなかった。まるでそれ以上近づくつもりはないと言うように、視線を再び雪へ戻している。

 志乃が小さく微笑む気配がした。


 小夜は湯呑みを見つめる。

 まだ温かい。掌に残る熱が、どういうわけか胸の奥にまで届く気がした。


 その日の午後、小夜は藍色の部屋でひとり、障子越しの光を見つめていた。

 屋敷へ来てからまだ二日目だというのに、昨日までの自分が少し遠く感じられる。もちろん、何かが大きく変わったわけではない。ここにいる理由も、これからどうすればいいのかも、まだ分からないままだ。

 けれど、分からないままでもいいと、ただ受け入れていた昨日までとは違っていた。


 知りたいという気持ちが、消えない。

 雪のこと。

 黒曜のこと。

 自分の記憶のこと。


 小夜はそっと、指先で畳をなぞる。

 藍色に囲まれた部屋は静かで、外の光を柔らかく受け止めていた。なぜこの部屋がこんな色で整えられているのか、まだ聞けないままだ。

 聞けば何かが崩れてしまいそうで怖い。けれど、知らずにいるのも、もう苦しかった。


 その時、廊下の向こうから低い声が聞こえた。

 はっとして顔を上げる。黒曜の声だ、とすぐに分かった。立ち上がり、襖へ近づく。開けることはできなかった。だが、閉じた襖の向こうから届く声に、耳が自然と向いてしまう。

「……いつまで黙っているつもりですか」

 志乃の声だった。いつもの穏やかな声色ではあるが、どこかためらいを含んでいる。

 短い沈黙の後、黒曜の低い声が返った。

「まだ早い」

「ですが、小夜様はもう……」

「分かっている」

 被せるように落ちたその一言に、小夜の胸が跳ねる。

「分かっているが、今は駄目だ」

 黒曜の声は低く抑えられていたが、その奥にある張り詰めたものは、小夜にも伝わった。

「近づけば、あれは思い出す」

 志乃はしばらく黙っていた。

 やがて、そっと問いかける。

「それを恐れておられるのですか」

 返事はすぐにはなかった。

 長い、長い沈黙。

 小夜は息を詰めたまま、襖の前に立ち尽くす。

 やがて、黒曜の声が聞こえた。

「……恐れているのは、思い出すことそのものではない」

 低く、静かな声。

「思い出したあとで、あれが自分でここを選べなくなることだ」

 小夜の指先が、ぴくりと震えた。

 息をするのを忘れる。

 今、何と言ったのか。

 ――自分でここを選べなくなる。

 それは、どういう意味なのだろう。自分は、何かを知れば、ここを選べなくなるのか。

 けれど同時に、それを知ってなお選ぶのでなければ意味がない、と、黒曜は言っているようにも聞こえた。

 志乃の声が、さらに小さくなる。

「……黒曜様は、それでも小夜様が来ると信じておられたのでしょう」

 今度こそ、黒曜はすぐに答えなかった。

 沈黙が落ちる。

 その重さに、小夜の胸が苦しくなる。

 やがて、掠れるような低い声が届いた。

「ああ」

 たった一言だった。

 けれど、その一言に込められたものの大きさに、小夜は動けなくなる。


 ――来ると、信じていた。

 誰が。

 誰を。

 なぜ。


 問いは次々に浮かぶのに、どれも形を持たない。ただ、その一言だけが、胸の奥深くへ沈んでいく。

 思い出しかけていた過去の声が、微かに揺れる。


『また会える』


 あの言葉。

 あれは――

 ただの慰めではなかったのかもしれない。

 そう思った瞬間、襖の向こうで足音が動いた。小夜ははっとして、その場から離れようとする。

 けれど間に合わない。

 次の瞬間、襖が音もなく開いた。

 目の前には、黒曜が立っていた。

 思わず息が止まる。

 黒曜の瞳は、驚いてはいなかった。まるで、小夜がそこにいることを最初から分かっていたかのように、静かにこちらを見ている。

 視線が、真正面からぶつかった。

 逃げることができない。だが、逃げたくもなかった。

 黒曜は何も言わない。ただ、その瞳の奥に、いつもの距離の冷たさとは違うものが揺れていた。

 小夜は唇を開く。

 問いはひとつしかなかった。

「……あなたは」

 喉が乾く。けれど、続けた。

「……あの日の人、なのですか」

 黒曜の瞳が、はっきりと揺れた。

 それはこれまで見たどんな揺らぎよりも大きく、隠しきれないほどだった。

 けれど黒曜は、肯定も否定もしなかった。ただ、ほんのわずかに目を伏せる。

 その沈黙が、かえって答えのようにも思えた。

 小夜の胸が激しく脈打つ。

 もう一歩、踏み込めばすべてが変わる。そんな予感がした。

 だからこそ、小夜は次の言葉を呑み込めなかった。

「だったら、どうして――」

 そこまで口にした、その時だった。

 黒曜が、ゆっくりと顔を上げる。

 その瞳は、まっすぐ小夜を見ていた。

「それ以上を知りたいなら」

 低い声が、静かに落ちる。

 小夜は息を呑む。

 黒曜は、少しだけ間を置いて言った。

「今夜、ひとりで来い」

 それだけ言い残し、黒曜は小夜の脇をすり抜けていった。

 藍色の気配だけが、後に残る。

 小夜はその場に立ち尽くしたまま、振り返ることもできなかった。


 今夜。

 ひとりで。


 それは、何を意味しているのか。

 怖い。

 けれど、行かないという選択肢は、もう胸の中になかった。

 廊下の向こうへ消えていく黒曜の足音を聞きながら、小夜は自分の胸元にそっと手を当てた。鼓動が、早い。

 それはきっと、恐れだけではなかった。

 夜が来れば、何かが変わる。そのことだけは、はっきりと分かった。

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