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第二話 藍の部屋と、忘れているもの

 夜の気配は深まっているはずなのに、屋敷の中には不思議な静けさが満ちていた。


 志乃に導かれて歩く廊下は長く、灯された明かりは控えめで、柱や壁に落ちる影さえも声を潜めているように見える。

 小夜は志乃の半歩後ろを歩きながら、胸の奥に残るざわめきを押し込めようとしていた。


 ――お前。


 黒曜が言いかけて、呑み込んだ言葉。

 その低い声が耳の奥に残って離れない。初めて会ったはずなのに、どこかで知っているような気がしたのは、あれが単なる思い違いではなかったからかもしれないと、考えそうになっては、慌ててその先を閉ざす。思い出せば、何かが変わってしまいそうで怖かった。


「こちらでございます」

 志乃が足を止め、目の前の襖が静かに開かれる。

 その瞬間、小夜は思わず息を止めた。


 部屋の中は、藍色に満ちていた。

 壁際に置かれた几帳も、座布団も、掛けられた布も、調度品に至るまで、色味を揃えるように深い藍で整えられている。夜空のようでいて、夜のように冷たくはない。水面の底を覗き込んだ時のような、静かで柔らかな色だった。

 小夜は無意識のうちに一歩、部屋の中へと足を踏み入れた。

 胸の奥で、ふ、と何かがほどける。

(……どうして)

 理由は分からなかった。

 けれど小夜は、この色が昔から好きだった。誰かに話したことはないし、好きだと自覚したことすらない。ただ、目にすると心が少しだけ落ち着く、その程度のこととして胸の内に置いていたことだ。

「お気に召しましたでしょうか」

 背後から、志乃の穏やかな声が届く。小夜は振り返り、少し戸惑いながら頷いた。

「……落ち着きます」

 正直にそう言うと、志乃はわずかに目を細めた。

「それは何よりでございます。今宵はこちらでお休みくださいませ」

 それ以上余計なことは言わず、志乃は一礼して下がっていった。襖が閉じられると、部屋はたちまち静寂に包まれる。


 小夜はしばらく立ち尽くしたまま、改めて室内を見渡した。

 藍色の布が柔らかく灯りを受けている。村での質素で粗末な暮らしとは、あまりにも違っていた。自分のために整えられた空間というものが、この世に本当に存在するのだと、ようやく分かった気がした。

(……私の、部屋)

 その響きが妙に現実離れしているように思える。

 何かを用意されることにも、拒まれずにそこへいてよいと言われることにも、小夜は慣れていなかった。

 だからこそ、この部屋に漂う静けさが少しだけ恐ろしかった。


 小夜は畳へ膝をつき、そっと座布団に触れた。指先に伝わる布の感触は思っていた以上に優しく、それだけで胸が詰まる。こんなふうに扱われてよいはずがないと、どこかで思ってしまう自分がいる。

 だが同時に、藍色に囲まれたこの場所にいると、張り詰めていた心が少しずつ弛んでいくのも分かった。


 窓の方へ目をやる。外にはまだ、雪が降っていた。春の夜に降るはずのない白い雪。静かに音もなく庭を覆っていくその光景を見ていると、ここが鬼の棲む場所だということすら忘れてしまいそうになる。

「……綺麗」

 先ほどと同じ言葉が、また自然と零れた。

 言ってから、小夜は自分でも少し驚いた。村にいた頃には、何かを綺麗だと思う余裕などなかったからだ。


 そのまま障子をそっと閉め、部屋の中央へ戻る。藍色の部屋は、優しく小夜を包んでいた。

 だが、落ち着いたはずの心に、また別のざわめきが浮かぶ。

 黒曜の瞳。あの一瞬の揺らぎ。

 そして、言いかけてやめた言葉。

(……あの人は、何を知っているのだろう)

 そう考えると、胸の奥が微かに熱を持つ。恐れとも違う、けれど安堵とも言い切れない感情だった。


 その夜、小夜はなかなか寝付けなかった。

 天井を見上げ、何度も寝返りを打ちながら、ふと目を閉じるたびに、過去の記憶と黒曜の横顔が重なりそうになってはほどけていく。結局、うとうとと浅い眠りに落ちたのは、夜もずいぶん更けてからのことだった。



 朝、小夜は障子越しの柔らかな光で目を覚ました。

 どこにいるのかすぐには分からず、しばらく天井を見つめる。だが、藍色の布が視界の端に入った瞬間、昨夜のことが一気に蘇った。


 鬼の屋敷。黒曜。春の雪。そして、自分に与えられた部屋。

 まだ夢の中にいるような心地のまま起き上がると、控えめに襖を叩く音がした。

「お目覚めでございますか」

 志乃の声だった。

「はい……」

 返事をすると、襖が静かに開く。志乃は昨夜と変わらぬ穏やかな表情で一礼し、小夜の顔色を確かめるように目をやった。

「朝餉の支度が整っております。こちらへどうぞ」

 促されるまま廊下へ出る。朝の屋敷もまた静かで、忙しなく立ち働く気配はあっても喧騒はない。誰もがそれぞれの役目を果たしながら、余計な音を立てぬように暮らしているのだと分かった。


 通された部屋には、すでに膳が整えられていた。

 椀から立つ湯気はほのかに香り、丁寧に盛られた菜の色も美しい。ひとつひとつに手がかかっているのが分かる朝餉だった。

 小夜はためらいながら膳の前に座り、箸を取る。一口、口に運ぶ。柔らかな温かさが、舌の上に静かに広がった。

(……美味しい)

 思わず、手が止まる。

 食べることは、ただ空腹を満たすためのものだと思っていた。こんなふうに味わったのは、いつ以来だろう。


「……食えるか」

 不意に低い声がして、小夜ははっと顔を上げた。

 いつの間にそこにいたのか、黒曜が部屋の入口に立っていた。

 村では誰かに見つめられることに慣れていたはずなのに、黒曜の視線はそれとは全く違う緊張を小夜に与える。慌てて立ち上がろうとしたが、

「そのままでいい」

 短い声に制され、動きを止めた。

 黒曜は小夜の向かいへゆっくりと腰を下ろした。昨夜と同じ藍色の髪が、朝の光の中ではまた別の色に見える。夜の底のように暗いはずなのに、どこか透けるような青みを含んでいる。

 小夜は視線を下げたまま座り直し、小さく答えた。

「……はい」

 しばらく、言葉のない時間が続く。だが、その沈黙は村で向けられてきた拒絶の沈黙とは違っていた。ただ言葉が少ないだけで、そこに棘はない。その違いに気づいてしまう自分が、少し怖い。


 黒曜はふと膳に目をやり、小夜に視線を戻した。

「部屋はどうだった」

 予想していなかった問いに、小夜はわずかに目を見開く。

「……落ち着く、部屋でした」

「そうか」

 短い返事だったが、その一言に、ほんの微かな安堵が混じったように思えた。

(……どうして)

 問いが喉元までせり上がる。

 どうして自分の好みに合うような部屋が用意されていたのか。どうして黒曜がそれを気にするのか。けれど口には出せなかった。そんなことを聞く資格が、自分にあるとは思えなかったからだ。

 すると黒曜が、ふいに視線を外して言った。

「ここにいることが嫌なら、無理に留まる必要はない」

 小夜の指先がぴくりと震えた。

 朝餉の温かさが、一瞬で遠のく。

「……え」

「お前を縛るつもりはない」

 淡々とした声音だった。優しさを含んでいるようでいて、同時にどこか拒絶にも似ている。

 小夜は言葉を失った。

 出ていける。戻ってもいい。選んでもいい。そんなことを言われたのは、たぶん初めてだった。

 今までの人生で、自分の行き先を自分で決める余地などなかった。誰かが決めたことに従うか、黙って受け入れるか、そのどちらかしかなかったからだ。だからこそ、選べと言われても分からない。選ぶことは、怖い。

 黒曜は、小夜が返事をできずにいるのを見ても、急かさなかった。ただ静かに立ち上がる。

「……ゆっくり考えろ」

 そう言い残し、部屋を出ていこうとする。その背を、小夜は思わず目で追った。拒まれているわけではない。だが、近づこうとするものを押し返すような、そんな距離の取り方だった。

 黒曜が襖に手をかける。


 その時、部屋の外から志乃の声がした。

「黒曜様」

 呼び止められた黒曜は、足を止める。

 襖の向こうで、低く抑えた声が交わされる。小夜にははっきり聞こえない。けれど、ほんの数言だけ、風に運ばれるように耳に届いた。

「……急がずとも」

「時間が来れば、あの娘も気づく」

 その最後の言葉に、小夜の胸が強く跳ねた。

 黒曜の沈黙が、ひとつ落ちる。

 それきり、二人の声は途切れた。足音が遠ざかり、部屋には再び静けさだけが残った。

 小夜は膳の前に座ったまま、動けなかった。

 何を。誰が。なぜ。問いは次々と浮かぶのに、どれひとつ、はっきりとした形にならない。けれど、ひとつだけ確かなことがあった。黒曜は、自分が何かを忘れていると知っている。そのうえで、距離を取ろうとしている。

 小夜はそっと胸元に手を当てた。鼓動が速い。それは恐怖だけではなかった。むしろ、何かがすぐそこまで来ているような、そんな予感に近い。


 藍色の部屋。春の雪。あの日の声。そして、黒曜の言葉。すべてが繋がりかけているのに、あと一歩のところで霧の向こうに隠れてしまう。

 それでも、小夜は初めて思った。


 ――知りたい、と。


 怖いのに、知ってしまえばもう後戻りできない気がするのに、それでも知りたかった。黒曜が何を知っているのか。自分が何を忘れているのか。あの日、自分を抱きしめたのは、本当は誰だったのか。


 朝餉の湯気は、まだ淡く立ちのぼっていた。その向こうに視線を落としながら、小夜は胸の奥に生まれた問いの熱を静かに確かめていた。

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