第一話 終わりの村と、はじまりの夜
小夜は、誰とも目を合わせないようにして生きていた。そうしなければ、相手が先に目を逸らすからだ。
村の子どもたちは、小夜の姿を見かけると決まって足を止める。ほんの一瞬だけ視線を触れさせたあと、次の瞬間には何かを思い出したように顔を逸らし、逃げるように道を変えていった。
それまで弾んでいた笑い声は不自然なほど唐突に途切れ、代わりに背後へ残るのは押し殺された囁きだけだった。
「……あの子だ」
「目を合わせるなって言われてるだろ」
小夜は聞こえていないふりをした。
井戸の綱を引き、桶をゆっくりと持ち上げる。ぎし、と縄が軋み、水面が揺れる。汲み上げた水が縁から零れ、冷たい雫が指先を伝っていった。
その感触だけが、今ここに自分がいるのだと教えてくれる。
幼い頃から、ずっとこうだった。
両親を亡くしてからというもの、小夜は村の中で“触れてはならないもの”のように扱われるようになった。最初は理由が分からず、どうして自分だけがと問いかけたこともあったが、返ってくるのは曖昧な言葉か、露骨な拒絶ばかりだった。
やがて小夜は、何も尋ねないことを覚えた。
理由を求めても意味はなく、声を上げても届かず、期待すればするほど深く傷つくだけなのだと、小夜は早くに知ってしまった。だから胸の奥に生まれたものには名前をつけず、ただ静かに押し込めて、なかったことにするようになった。
それでも、完全に消えきらない何かが、心のどこかに残り続けていることには気づかないふりをしていた。
この村にはひとつの噂がある。
身寄りのない娘は、鬼へ嫁に出される。
それは最初、子どもを脅すための言葉に過ぎないと思っていた。だが年を重ねるにつれ、それが“都合のよい現実”として扱われていることを小夜は嫌でも理解することになった。
鬼――山の奥深くに棲む、人ならざる存在。
人と同じ言葉を話し、人と同じ姿をしていながら、人ではないもの。
村人たちは口を揃えて言う。鬼は恐ろしく、残忍で、人を喰らうのだと。
けれど、小夜はふと思うことがあった。
本当にそうなのだろうか、と。
その疑問は小さなものだったが、消えることはなかった。けれど、それを誰かに確かめることはできない。小夜には、その問いを外へ出す場所も相手もなかった。
「小夜」
呼ばれたのは、その日の夕刻だった。
振り返ると、村長の家の使いが立っている。無表情のまま、ただ用件だけを告げた。
「村長様がお呼びだ」
その一言で小夜は悟った。
胸の奥が、すう、と冷えていく。
理由など聞かなくても分かる。それでも小夜は何も言わず、ただ静かに頷いた。
座敷には村の大人たちが揃っていた。
足を踏み入れた瞬間、空気がわずかに揺れ、視線が一斉に向けられる。そこにあるのは同情ではなく、ただ“厄介事の行き先を見届ける者”の目だった。
小夜は下座に座り、静かに頭を下げる。
やがて村長が口を開いた。
「小夜。お前の行く先が決まった」
その声音には、重さと同時にどこか安堵が滲んでいた。
小夜は顔を上げなかったが、分かっていた。
「山の鬼のもとへ嫁げ」
その言葉が落ちた瞬間、座敷の空気がわずかにざわめく。
誰もが小夜の反応を待っていた。泣き崩れるか、拒むか、縋るか。だが小夜は、ただ静かに息を吸い、ゆっくりと吐いた。
(……やっぱり)
そう思っただけだった。
怖くないわけではない。胸の奥では、確かに何かが軋んでいる。だがそれ以上に、この村に居続ける未来のほうが息苦しく感じられた。
「返事は」
急かす声に小夜は深く頭を下げる。
「……承知いたしました」
ざわめきが走る。
だが、小夜はそれ以上何も言わなかった。
その夜、小夜は村を出た。
ひとりではない。鬼の屋敷から迎えが来ていた。
村外れに停められた牛車の傍らには、見慣れぬ者が静かに立っている。淡い銀色の髪に小さな角。人ではないと分かる姿でありながら、その佇まいはあまりにも穏やかだった。
「お迎えに参りました」
その者は深く頭を下げる。
「鬼の屋敷に仕える者、志乃と申します」
小夜は一瞬、言葉を失った。
鬼は恐ろしいものだと、そう教えられてきた。だが目の前の存在は、少なくともその印象とはかけ離れていた。
「……小夜です」
かろうじてそう返すと、志乃は柔らかく頷いた。
「どうぞ」
促されるまま牛車へ乗り込むと、車は静かに動き出す。村の景色がゆっくりと遠ざかっていった。
振り返ることはしなかった。もう戻る場所ではないと、分かっていたからだ。
山道に入ると空気はさらに冷え、静寂が深まる。
ふと物見の外から桜の花びらがひとひら入ってきて、小夜の頬をかすめた。
はっとして見上げると、枝先に咲いた山桜が風に揺れている。その淡い色を見た瞬間、胸の奥に封じ込めていた記憶が不意にほどけた。
赤く染まった地面。倒れ伏す父と母。喉が裂けるほど泣き叫んでいた幼い日の自分。
その時だった。
『見るな』
低く、けれど優しい声が耳の奥で蘇る。
あの日、たしかに誰かが小夜を背中から包み込んだ。着物の袖で視界を覆い、もうそれ以上見なくていいのだと守るように抱き寄せてくれた。
顔は見えなかった。けれど、その温もりだけは今もはっきりと覚えている。
『また会える』
あれは夢だったのか、現実だったのか。今となってはもう分からない。
けれど、その声を思い出すたび、小夜の胸は不思議と少しだけ痛んだ。そして同時に、凍えた心に小さな火が灯るようでもあった。
(また会える、なんて……)
そんなことが本当にあるのだろうか。
自嘲するように小さく息を吐き、小夜は視線を牛車の中へと戻した。
やがて牛車はゆるやかにその歩みを止めた。
志乃が静かに「着きました」と告げる。その声に、小夜ははっと顔を上げる。
簾の隙間から外を窺うと、そこには見上げるほどの大きな門がそびえていた。黒々とした木で組まれたその門は、夜の気配を纏うように静まり返り、まるで外の世界と隔てる境界のようにも見える。
ここから先が、鬼の棲む場所。
小夜は無意識のうちに指先に力を込めていた。
「どうぞ」
志乃に促され、ゆっくりと牛車を降りる。足が地面に触れた瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でた。
恐ろしい場所を想像していたはずなのに、そこには不思議と整えられた静けさがあった。荒れた気配も、血の匂いもない。ただ、音の少ない夜が深く息を潜めているだけだった。
志乃に案内され、門をくぐる。
一歩、また一歩と進む度に、今までいた世界が遠ざかっていくような感覚がした。
やがて屋敷の中へ通され、長い廊下を歩く。
足音が静かに響く。灯された明かりが揺れ、壁や柱に淡い影を落としていた。
その全てが、どこか現実離れしている。
(ここが……)
鬼の住まう場所。
けれど、小夜の中で思い描いていたものとはあまりにも違っていた。
志乃が一枚の襖の前で足を止める。
「こちらに、黒曜様がおられます」
その名を聞いた瞬間、小夜の胸がわずかに跳ねた。
理由は分からない。ただ、どこかでその名を知っているような、そんな錯覚に近い感覚があった。
「どうぞ」
静かに襖が開かれる。
小夜は一歩、部屋の中へ足を踏み入れた。
そこにいたのは、藍色の髪を持つ、一人の鬼だった。
月明かりが差し込む室内で、その姿はどこか現実のものとは思えないほど静かに佇んでいる。腕を組み、こちらを見ることなく、ただそこにいるだけで空気を支配していた。
額には二本の角。それが、人ならざる存在であることを何よりも雄弁に物語っている。
(……この人が)
これから、自分の夫となる鬼。
小夜は畳へ手をつき、深く頭を下げた。
「小夜と申します」
しばしの沈黙の後、低く落ち着いた声が落ちる。
「知らん」
あまりにも素っ気ない言葉だった。
しかし、小夜は驚かなかった。むしろ、どこかでそうなることを分かっていたような気さえした。
「顔を上げろ」
言われるまま、小夜はゆっくりと顔を上げる。
そして、初めてその瞳を見た。
琥珀色の瞳は冷たく、静かで、どこか遠くを見ているようだった。
だが、その奥にほんの一瞬だけ、揺らぎが走った。それは驚きにも、戸惑いにも見えた。
(……今のは)
気のせい、なのだろうか。そう思ったその時だった。
ふわりと、開け放たれた窓の向こうから、白いものが舞い込んできた。
「……雪?」
思わず小夜は呟く。
春のはずのこの季節に、静かに降り始める白い雪。それは音もなく、ただ静かに庭を覆い始めていた。
小夜は思わず息を呑み、窓の向こうへ目を向けた。
しんと音を失った庭に、白い雪だけが静かに降り積もっていく。その光景はあまりにも現実離れしていて、恐ろしいはずの鬼の棲み処を、まるで夢の中のように美しく見せていた。
「……綺麗」
ほとんど無意識に、言葉が零れた。
その瞬間、部屋の空気がかすかに揺れた気がして、小夜ははっと我に返る。
ふと目をやると、黒曜がこちらを見ていた。
冷たく遠いものを見るようだった琥珀色の瞳が、今はまるで何かを確かめるように、小夜をまっすぐ映している。
「……お前」
低い声が落ちる。その声音に小夜の胸が不意にざわめいた。
初めて聞くはずなのに、どこかで知っている気がした。遠い昔に耳にしたことがあるような、そんな錯覚にも似た感覚が胸の奥を掠めていく。
だが、黒曜はその先を言わなかった。
何かを呑み込むようにわずかに目を伏せると、ふっと視線を逸らし、静かな声で言う。
「……いや、何でもない」
小夜は何も言えなかった。
春の夜に降る雪と、言いかけて止まったその声だけが、胸の奥に奇妙な余韻を残していく。
あの声を、私は知っている気がする。
そう思った瞬間、遠い記憶の底であの日の声が微かに蘇った。
『見るな』
小夜は息を呑む。
けれど、その続きを確かめるより先に志乃が静かに頭を下げた。
「小夜様、お部屋へご案内いたします」
小夜はもう一度だけ、雪の降る庭を眺める黒曜を見た。
この鬼の屋敷で、自分に何が待っているのかは分からない。けれどただひとつ、確かなことがあった。
ここへ来たのは終わりではない。
そう思った時、小夜の胸の奥では、あの日確かに自分を包んだ声が、雪の冷たさとは裏腹に微かな熱を帯びて蘇っていた。




