第九話
刹那がこの長屋に現れたのは二年前。
前日からの雨が降り続いた早朝、隻腕の男が長屋の前に倒れているのが発見された。
木戸を通ったり、無理に開けたりした様子は何も無かった。
ただ、目前の一室の主が夜中に何か重いものが落ちるような音を聞いていた。
そのこととから、集まった大人達は、彼が屋根から落ちたのだろうと考えた。
服装から見ても、普通の人間ではないのが分かったからだ。
集まった人々が恐る恐る近づいてみれば、彼の体が燃えるように熱い。
急いで、空き室となっていた部屋に運び入れた。
なぜ通報しなかったのか。
刹那には意識があったが動けなかった。
そして熱で震える片手で懇願したからだ。
-追われている。熱が下がれば必ず出ていく。今、見つかる訳にはいかないんだ-
それから一週間。
医者も呼べず、住人達の看病だけで、彼は回復した。
いや、回復したというのは正しくない。
漸く起き上がれるようになった彼は、片目の視力を失っていた。
熱にやられた、と住民たちは思った。
しかし彼は笑って言った。
反動がまだ続いているんだ、と。
誰にも意味は分からなかったが、その言葉は印象に残った。
初めのうち、刹那はほとんど無言だった。
彼を変えたのは、忍びに興味を持つ子供達。
大人たちから彼の存在を口止めされていたから、外では決して言わない。
その代わり、忍びの話を聞きに連日押しかけた。
根負けした様子で、彼は少しずつ口を開き始めた。
目を輝かせて聴き入る子供達。
そんな時、彼は何かを懐かしむような顔をしていた。
-約束通り出ていく。世話になった-
しばらくしてそう告げた刹那を、周囲が止めた。
ここの大家は余り店子の獲得に熱心ではなく、その部屋は長く空き室だった。
せめて次の住人が入るまでは隠れておいで、と。
何故か見捨てておけない気になる男だった。
子供達同様、大人たちも、彼は悪い人間ではないと感じていた。
そして二年。
刹那の表情は初めの頃と比べ物にならない程、明るくなっていた。
表立って出ていけない分、日中は子守りや家事を手伝ってくれた。
子供達は彼に懐き、彼もまた子供達の相手が苦にならないようだった。
そんな中で彼がぽつりと呟いた言葉を、住人の一人が聞いている。
-俺はどこかで、間違えてしまったんだろうか-
それからまもなく、刹那は突然姿を消した。
理由は全く分からなかった。
前日までは、確かに普通に笑っていたのに。
その後、長屋の誰も刹那を見ていない-。
「時々、ひどく思いつめた目をしてたのを覚えてます。どこかで元気でいてくれるといいんですけどね。もし会うことが出来たら・・・子供たちが心配してるって伝えてもらえますか?」
「・・・はい」
「ひとつ伺いたい。刹那が消えたのはいつか、正確に覚えておられるか?」
「あ、ええ。その日は旦那が前から頼まれてた仕事があったので・・・」
少し考えてから彼女が答えたその日は、風音が殺されるのを”網”が目撃した同日だった。
***
『刹那はきっと、ここにはもう戻らない』
「・・・そうだな」
了祐の言葉に、蒼介も同意した。
風音が死に、それから政府関係者や関係先への攻撃が始まった。
女性の話によれば、一時刹那は復讐心を捨てかけていたようにみえる。
それでもなお、復讐を始めた理由。
それはやはり、風音の死にあるのではないか。
風音と政府のつながり、そして里が滅びた本当の理由。
もしも刹那がそれを知ったとしたら-。
「でも、じゃあどうして昨日、この辺りで目撃されたんだろう」
眼眩ましの可能性も無くはない。
広く連なる長屋の中に逃げ込んだと思わせれば、追手が探すのは容易ではない。
だが、そのあとどこへ身を潜めているのか。
匿ってくれる人たちから離れた刹那は、今完全に孤立しているはずだ。
了祐は、この間眺めていた地図を思い返していた。
東京の街の周囲には、田畑や森が広がっている。
ここらの長屋は東京の北西の外れに位置し、中心部よりはそちらに近い。
『刹那は拠点を東京郊外に置いてるんじゃないか』
「・・・行ってみるか」
「ですね」
そう言って表通りを歩いていると、前方からやってくる人物が見えた。
見覚えがある、”網”の一人だった。
彼は往来の人に紛れるように近づいてくると、晃の耳元で囁いた。
「先程、元大名家の華族が二人殺されたという情報がありました」
「・・・!」
一瞬、息が止まりそうになる。
だが、次に挙げられた名前は聞いたことのないものだった。
殺された人には本当に申し訳ないけれど。
やはり心のどこかで安心してしまう自分がいる。
晃は心の中で犠牲者に詫びた。
「もし拠点が郊外だとして。日中に事件を起こし、その後そこまで戻るのは難しいだろうな」
『そうだな。却って人通りの多い街中の方が身を潜められる』
「夜になったら、そっちに戻るってこと?」
『恐らくな。・・・拠点を探すなら、陽が沈むまでの今だ。行こう』




