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影の記  作者: 水鳥川 陸
第四章 居場所
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第八話

”雪”の本当の名前は知らなかった。

名乗ることも尋ねることも、当時は許されていなかったから。

”雪”は自分と同じ歳で、自分より二月遅れで”裏”の一員となった。

季節は冬に変わり、雪がちらつく頃だった。


「ここでは元の名は不要。新たな呼び名を自分でつける。お前のことは何と呼べばいい?」


師範が尋ねると、彼は黙って空を見上げ、片手を差し出した。

舞い落ちる雪が、彼の掌に乗った傍から消えていく。


「雪、かな。・・・誰にも気づかれず、静かに消えていく。俺はそれでいいです」


その日から、彼は”雪”と呼ばれた。


師範はよく、”雪”の太刀筋は”影”と似ている、と評した。

確かに”雪”は、他の人間と比べて段違いに強かった。

彼と組む訓練は、無駄な言葉や動きが一切不要だった。

何もなくても呼吸で伝わる。

それは”影”にとって、むしろ心地よくすら感じられた。

向こうも同じように思ってくれていたのかもしれない。

もともと物静かな少年だった”雪”だが、”影”に対しては自ら話しかけてくることが多かった。


「”影”はどうしてその呼び名にしたんだ?」


いつかの夜、そう聞かれたのを覚えている。

その理由は誰にも言ったことが無かったけれど、何故かその時は素直に話す気になれた。


「・・・日の当たるところには、もう二度と戻れないから。でも、それで大切な人たちが幸せに暮らせるなら、俺は充分なんだ」


父や母、兄、妹の顔を思い浮かべてそう答えた。

”雪”は、そうだな、と静かに笑った。



師範は恐らく、”雪”を自分と並ぶ”裏”の核に据えようとしていた。


だが、訓練を終え、実際に任務に就くようになってから、ある重大な事実が分かった。

”雪”には、人が殺せなかった-優しすぎたのだ。


任務に向かう”雪”は、いつも震えていた。

それでも、責任感の強い彼は確実に任務を果たし、そして戻ると必ず吐いた。

どんなに辛くとも、自分たちにはもう帰る場所も逃げる場所も無かった。


「”影”は強いな。・・・俺、お前みたいになりたいよ」


泣きそうな顔でよく言っていた。


-俺だって何も感じない訳じゃない-


そう言いかけた言葉を飲み込んだ。

自分や”雪”がどう思おうと、何を感じようと、果たすべき任務が目の前にある。

それだけなんだ、と自分に言い聞かせた。


互いにいつ死ぬかも分からない。

そんな状況で、別れの挨拶も何もなく、自分は突如姿を消してしまった。


そして”雪”は-。

心を壊して、幕府が無くなった今もなお、生きているという。

会ってくれと師範には言われたが。


『・・・今更、俺に何が言えるんだろうな』


        ***


翌朝早くにその町を出た。


それほど離れていない隣町に辿り着いたのは、陽が少し傾き始めた頃。


「大きい屋敷だなぁ」


屋敷の前で顔を上げた晃は思わず声に出した。

”雪”の家はもともと裕福な武家だったようだ。

道々、”雪”については簡単に晃に話しておいた。

問題は、師範でも会えなかった彼に会えるかどうかだが。


「とりあえずは俺が言ってみるよ。でも、必要だったらいつでも出て来い」


体を貸す、ということだ。


「・・・悪いな」


出来るだけ晃に負担はかけたくない。

でも、”雪”のことも放ってはおけない。

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