第八話
”雪”の本当の名前は知らなかった。
名乗ることも尋ねることも、当時は許されていなかったから。
”雪”は自分と同じ歳で、自分より二月遅れで”裏”の一員となった。
季節は冬に変わり、雪がちらつく頃だった。
「ここでは元の名は不要。新たな呼び名を自分でつける。お前のことは何と呼べばいい?」
師範が尋ねると、彼は黙って空を見上げ、片手を差し出した。
舞い落ちる雪が、彼の掌に乗った傍から消えていく。
「雪、かな。・・・誰にも気づかれず、静かに消えていく。俺はそれでいいです」
その日から、彼は”雪”と呼ばれた。
師範はよく、”雪”の太刀筋は”影”と似ている、と評した。
確かに”雪”は、他の人間と比べて段違いに強かった。
彼と組む訓練は、無駄な言葉や動きが一切不要だった。
何もなくても呼吸で伝わる。
それは”影”にとって、むしろ心地よくすら感じられた。
向こうも同じように思ってくれていたのかもしれない。
もともと物静かな少年だった”雪”だが、”影”に対しては自ら話しかけてくることが多かった。
「”影”はどうしてその呼び名にしたんだ?」
いつかの夜、そう聞かれたのを覚えている。
その理由は誰にも言ったことが無かったけれど、何故かその時は素直に話す気になれた。
「・・・日の当たるところには、もう二度と戻れないから。でも、それで大切な人たちが幸せに暮らせるなら、俺は充分なんだ」
父や母、兄、妹の顔を思い浮かべてそう答えた。
”雪”は、そうだな、と静かに笑った。
師範は恐らく、”雪”を自分と並ぶ”裏”の核に据えようとしていた。
だが、訓練を終え、実際に任務に就くようになってから、ある重大な事実が分かった。
”雪”には、人が殺せなかった-優しすぎたのだ。
任務に向かう”雪”は、いつも震えていた。
それでも、責任感の強い彼は確実に任務を果たし、そして戻ると必ず吐いた。
どんなに辛くとも、自分たちにはもう帰る場所も逃げる場所も無かった。
「”影”は強いな。・・・俺、お前みたいになりたいよ」
泣きそうな顔でよく言っていた。
-俺だって何も感じない訳じゃない-
そう言いかけた言葉を飲み込んだ。
自分や”雪”がどう思おうと、何を感じようと、果たすべき任務が目の前にある。
それだけなんだ、と自分に言い聞かせた。
互いにいつ死ぬかも分からない。
そんな状況で、別れの挨拶も何もなく、自分は突如姿を消してしまった。
そして”雪”は-。
心を壊して、幕府が無くなった今もなお、生きているという。
会ってくれと師範には言われたが。
『・・・今更、俺に何が言えるんだろうな』
***
翌朝早くにその町を出た。
それほど離れていない隣町に辿り着いたのは、陽が少し傾き始めた頃。
「大きい屋敷だなぁ」
屋敷の前で顔を上げた晃は思わず声に出した。
”雪”の家はもともと裕福な武家だったようだ。
道々、”雪”については簡単に晃に話しておいた。
問題は、師範でも会えなかった彼に会えるかどうかだが。
「とりあえずは俺が言ってみるよ。でも、必要だったらいつでも出て来い」
体を貸す、ということだ。
「・・・悪いな」
出来るだけ晃に負担はかけたくない。
でも、”雪”のことも放ってはおけない。




