第七話
ふと見ると、橋の行く手側から人力車が登ってきた。
往来者が多いので、車夫が声をかけて人々に道を空けさせている。
中には身なりの良い若い女性が一人で乗っているのが見えた。
富裕層、恐らく華族なのだろう。
そんな風に考えて、晃は何気なく欄干に寄ったまま見送った。
すると。
晃から少し過ぎたあたりで急に車夫が足を止めた。
邪魔だと言わんばかりに人々が車を避けて通り過ぎていく。
そんな人々の波より高い車の上から顔を出して振り返っているのは、先程の女性だ。
車夫に止められるのも構わずに、晃をまっすぐに見据えて声をかけた。
「晃。あなた、晃でしょ?」
『誰だ?』
「え・・・あ、未華子さん?!」
「東京に来てるなら、どうして顔を出さないのよ!ほら、一緒に来なさい」
「あ、はい」
恐らく晃より年下だろうと思うが、有無を言わさぬ強い口調である。
そして晃も素直に返事をし、疑問だらけであろう虎丸に小声で告げた。
「二条未華子さん。今の二条家当主の一人娘だよ」
『二条・・・』
「虎丸。悪いけど、ちょっと付き合ってもらうから」
***
東京の二条邸は、洋風作りの建物が多い通りにあった。
いかにも華族が多く住んでいそうな界隈である。
思わぬ形で人力車に乗ることになってしまった晃は、車夫に頭を下げて車を降りた。
当然一緒に乗るわけには行かないと断ったのだが。
それを許さないのが未華子という少女なのだということもよく承知している。
結局狭い車内に二人で並んで、道中ずっと、不義理を責められていた。
「せっかくのお着物が汚れてしまいましたよ。俺、ちゃんと風呂にも入ってないし、猫もいるし」
「その卑屈な態度はやめなさいと、昔から言ってるでしょう。全く・・・父もあなたがこちらに来てると知ったら大層驚くわ。どうして知らせてくれなかったのよ」
「・・・色々と深い事情がありまして」
屋敷の中に晃を招き入れた未華子に、出迎えた使用人が小声で何かを伝える。
それを聞いた未華子は、颯爽と晃に向き直った。
「その事情とやらは後で父にきちんと説明してもらいます。帰りが遅くなるそうなので、先にお風呂に入りなさい。あなた、確かに汗臭いもの」
「あ、いやあの、別に逗留先がありますので、そんなに遅くなるわけには・・・」
未華子はきっと厳しい顔を上げて宣告した。
「このままここを返すわけには行かないわ。そちらへはひとまず手紙を書きなさい。うちの者から届けさせます」
取り付く島がない。
晃は独り言ちるように呟いた。
「・・・どうしようかなぁ」
『仕方ないだろう。このままじゃ埒が明かない。師範には当たり障りのない文を書いてくれ。・・・驚くだろうがな』
***
小虎を使用人に預けて、お言葉に甘えて。
というよりは命令に従って風呂を使わせてもらった。
確かに昨日今日とほぼ歩き回っていて体中汗と埃まみれだ。
しかも垢じみた共同風呂ではなく、二条家専用の風呂。
気持ちが良くないはずがない。
湯舟にもたれてぼんやり天井を眺めていると虎丸の声がした。
『晃は二条家と深い関係だったのか?』
風呂の時は関与しないと言っていたのは誰だよ、と晃は思う。
だが、まあ気になるのも当然だろう。
「俺じゃない。俺のいた寺だよ。未華子さんのお父さんは、お前の知ってる二条様の弟で、もともとは分家に養子に入ってた。その家が寺の近くだったのもあって、未華子さんのことは昔から知ってる。だけど、維新後すぐに二条様が亡くなってしまったんで、分家から戻って当主を継いだんだ」
『それにしては随分お前のことを気にかけてるんだな』
それを聞いた晃は、バシャバシャと音を立てて湯舟の湯で顔を洗い、頭の手ぬぐいで乱暴に顔を拭った。
「・・・責任感だよ」
『責任感?』
「そんなの、全然必要ないんだけどね」
晃はそれ以上語ろうとせず、虎丸も敢えて詮索しなかった。
後で二条直隆と対面すれば、きっと何らかは分かるだろう。
それに虎丸自身も、あの二条氏の弟だという直隆に会ってみたかった。
さっぱりとして風呂を出た晃だが、脱衣場に置かれた衣類を見て、深いため息をついた。
今まで来ていた着物は見当たらず、あるのは真新しい柔術着が一着。
『どういうことだ』
「風呂に入ったのは無駄だったってこと。・・・虎丸、ひとつお願いなんだけど」
『なんだ』
「これからしばらくの時間、俺に何があっても手を出すな。俺は大丈夫だから」
やけに強い口調で晃が言うので、虎丸は困惑した。
「守らなかったら、もう俺の体は貸さないし、元に戻る手伝いもしない」
『・・・分かったよ』
「絶対だぞ」




