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影の記  作者: 水鳥川 陸
第三章 再会
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第六話

彼が家と名を捨てたあの日。

近隣住人に気付かれぬよう、出立は夜更け過ぎと決まった。

普段通りに変わらぬ朝を迎え、日中を過ごした。

なるべく周囲に異変を悟られぬように、と厳命されていたためだ。

五歳下の妹の晴子は、彼が珍しく稽古にも行かず遊んでくれることに喜び、上機嫌だった。



兄が彼を呼んだのは、既に晴子が眠った後だった。

出立まではもう間もない。

四歳離れた兄は、公務で不在がちな父よりも父に近い存在であった。

その兄が、自分を目の前に座らせて言った。


「父上には、お前は今日限り死んだと思えと言われた。お前は今日限り、佐野の人間でもないし、俺の弟でもないと」

「はい。兄上にはこれまで本当にお世話になりました」


そう言って深く頭を下げたが。


「・・・たとえ父上の命でもそれはできん」


その言葉に、驚いて顔を上げる。

いつも優しい笑顔を見せてくれた兄が、とても悲しい目をしていた。


「お前はどこにいても、どんな任務についていようと、ただ一人の俺の弟だ。この先二度と呼べずとも、お前自身が名を捨てたとしても、俺がお前の名を忘れることはない。・・・だからいつかすべてが終わったら、お前は胸を張ってその名を名乗れ。そのために、絶対に死なずに戻れ」


涙が、彼の頬を伝って畳に落ちた。

気づいて慌てて両目をこすり、再度頭を下げた。



兄の部屋を出た足で、晴子の部屋をそっと覗く。

ぐっすりと眠っていて、近づいても全く起きる気配がない。

ふっくらとした頬を軽く撫でる。

きっと母に似て美人になるだろう。

そう思うと笑みがこぼれた。

布団から出た小さな手をそっと握って祈る。


「俺の分も全部やる。だから、いっぱい幸せになれ」



迎えがきた、と知らせに来た父の声に、気を引き締めて廊下を急ぐ。

土間でわらじを履き、編み笠を深く被る。

兄は見送りはしないと言っていた。

母は優しい人だから、部屋で一人で泣いているのかもしれない。

父に深く頭を下げ、別れを告げた。

そして迎えの者とともに屋敷を出ようとした、その時。


「お待ちください」


凛とした母の声だった。

振り返り、編み笠を片手で上げる。

涙を溜めた顔のまま、両手で何かを大事そうに抱える母が見えた。


「寒い中でのお勤めもあるでしょう。体に気をつけるのですよ」


それだけ言って、ふわりとかけられたのは藍色の首巻。

父が咎めるように言った。


「首巻など・・・」


通常、首巻は高齢者や病人がするものとされていた。

だが母は頑として首を振った。


「だからこそ、きっとこの首巻はあなたの身代わりとなります。決して、決して離さぬように」


それは母の匂いがして、とても柔らかく温かかった。

自分の涙を見せないように、編み笠を被りなおして父母に改めて深く頭を下げた。


「これまで本当にお世話になりました。行ってまいります」



頭を下げて名を捨ててくれと頼んだ父。

生き残れと言ってくれた兄。

最後まで体を気遣ってくれた母。

皆自分より先に死んでしまった。


晴子だけは生きているというならば、どうか幸せでいてほしい。

あの夜祈ったように。


けれども。

自分が斬って捨てた数多の命は、それすら許さないだろうかー。


晃に言われた通り、この景色を、空気を、匂いを自分の心に焼き付けて、彼は瞳を閉じた-。

                


「もういいのか?」

『・・・ああ、大丈夫だ。ありがとうな、晃』

「妹さんは探さないの?」

『いいんだ。生きててくれてるなら、それでいい』


そうかと応じて、晃はわざと明るい声で言った。


「やっぱり思った通りだったな。こうやって、いつか術も解けるんじゃないか」

『・・・そうならいいけどな』


そして二度と振り返ることなく、懐かしい我が家を後にする。


さよなら、俺の家族。


        ***


赤井の長屋へと、互いに言葉少なく歩く東京の街。

行き交う人は先刻までの晃のようにどこか楽し気で。

相反するようにこちらは自然とうつむき加減になる。


虎丸があの場所を見た時、彼の気持ちが波のように晃の中に押し寄せてきた。

平気でいられるはずがない。

自分だけが生き残ってしまったという、絶望的な孤独。

分かるよ、と言いかけてやめた。

どんなに似た想いを背負っていたとしても、自分は彼ではないのだから。



日本橋という大きな橋の中心まで来たところで、晃はふと立ち止まった。

欄干に腕を乗せて、眼下の川を眺める。

虎丸、と呼ぶと返事があった。

いたって普通の声だ。


「あのさ、元に戻ったら虎丸はどうするつもり?」


しばらくの間があった。


『・・・何もないな。きっとそのまま年を取って、いつか死ぬ。それだけだ』

「奇遇だね、俺と一緒だ。・・・じゃあさ、よかったら一緒に日本中の旅に出ない?」

『旅?』

「そう。知らない場所や知らないものをいっぱい見よう。きっと楽しいよ。・・・そして、いつか北海道にも行ってみようよ」


なんだ、結局また心配されているんだな。

そう思って、虎丸は小さく笑った。


『・・・それもいいかもしれないな』

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