第六話
彼が家と名を捨てたあの日。
近隣住人に気付かれぬよう、出立は夜更け過ぎと決まった。
普段通りに変わらぬ朝を迎え、日中を過ごした。
なるべく周囲に異変を悟られぬように、と厳命されていたためだ。
五歳下の妹の晴子は、彼が珍しく稽古にも行かず遊んでくれることに喜び、上機嫌だった。
兄が彼を呼んだのは、既に晴子が眠った後だった。
出立まではもう間もない。
四歳離れた兄は、公務で不在がちな父よりも父に近い存在であった。
その兄が、自分を目の前に座らせて言った。
「父上には、お前は今日限り死んだと思えと言われた。お前は今日限り、佐野の人間でもないし、俺の弟でもないと」
「はい。兄上にはこれまで本当にお世話になりました」
そう言って深く頭を下げたが。
「・・・たとえ父上の命でもそれはできん」
その言葉に、驚いて顔を上げる。
いつも優しい笑顔を見せてくれた兄が、とても悲しい目をしていた。
「お前はどこにいても、どんな任務についていようと、ただ一人の俺の弟だ。この先二度と呼べずとも、お前自身が名を捨てたとしても、俺がお前の名を忘れることはない。・・・だからいつかすべてが終わったら、お前は胸を張ってその名を名乗れ。そのために、絶対に死なずに戻れ」
涙が、彼の頬を伝って畳に落ちた。
気づいて慌てて両目をこすり、再度頭を下げた。
兄の部屋を出た足で、晴子の部屋をそっと覗く。
ぐっすりと眠っていて、近づいても全く起きる気配がない。
ふっくらとした頬を軽く撫でる。
きっと母に似て美人になるだろう。
そう思うと笑みがこぼれた。
布団から出た小さな手をそっと握って祈る。
「俺の分も全部やる。だから、いっぱい幸せになれ」
迎えがきた、と知らせに来た父の声に、気を引き締めて廊下を急ぐ。
土間でわらじを履き、編み笠を深く被る。
兄は見送りはしないと言っていた。
母は優しい人だから、部屋で一人で泣いているのかもしれない。
父に深く頭を下げ、別れを告げた。
そして迎えの者とともに屋敷を出ようとした、その時。
「お待ちください」
凛とした母の声だった。
振り返り、編み笠を片手で上げる。
涙を溜めた顔のまま、両手で何かを大事そうに抱える母が見えた。
「寒い中でのお勤めもあるでしょう。体に気をつけるのですよ」
それだけ言って、ふわりとかけられたのは藍色の首巻。
父が咎めるように言った。
「首巻など・・・」
通常、首巻は高齢者や病人がするものとされていた。
だが母は頑として首を振った。
「だからこそ、きっとこの首巻はあなたの身代わりとなります。決して、決して離さぬように」
それは母の匂いがして、とても柔らかく温かかった。
自分の涙を見せないように、編み笠を被りなおして父母に改めて深く頭を下げた。
「これまで本当にお世話になりました。行ってまいります」
頭を下げて名を捨ててくれと頼んだ父。
生き残れと言ってくれた兄。
最後まで体を気遣ってくれた母。
皆自分より先に死んでしまった。
晴子だけは生きているというならば、どうか幸せでいてほしい。
あの夜祈ったように。
けれども。
自分が斬って捨てた数多の命は、それすら許さないだろうかー。
晃に言われた通り、この景色を、空気を、匂いを自分の心に焼き付けて、彼は瞳を閉じた-。
「もういいのか?」
『・・・ああ、大丈夫だ。ありがとうな、晃』
「妹さんは探さないの?」
『いいんだ。生きててくれてるなら、それでいい』
そうかと応じて、晃はわざと明るい声で言った。
「やっぱり思った通りだったな。こうやって、いつか術も解けるんじゃないか」
『・・・そうならいいけどな』
そして二度と振り返ることなく、懐かしい我が家を後にする。
さよなら、俺の家族。
***
赤井の長屋へと、互いに言葉少なく歩く東京の街。
行き交う人は先刻までの晃のようにどこか楽し気で。
相反するようにこちらは自然とうつむき加減になる。
虎丸があの場所を見た時、彼の気持ちが波のように晃の中に押し寄せてきた。
平気でいられるはずがない。
自分だけが生き残ってしまったという、絶望的な孤独。
分かるよ、と言いかけてやめた。
どんなに似た想いを背負っていたとしても、自分は彼ではないのだから。
日本橋という大きな橋の中心まで来たところで、晃はふと立ち止まった。
欄干に腕を乗せて、眼下の川を眺める。
虎丸、と呼ぶと返事があった。
いたって普通の声だ。
「あのさ、元に戻ったら虎丸はどうするつもり?」
しばらくの間があった。
『・・・何もないな。きっとそのまま年を取って、いつか死ぬ。それだけだ』
「奇遇だね、俺と一緒だ。・・・じゃあさ、よかったら一緒に日本中の旅に出ない?」
『旅?』
「そう。知らない場所や知らないものをいっぱい見よう。きっと楽しいよ。・・・そして、いつか北海道にも行ってみようよ」
なんだ、結局また心配されているんだな。
そう思って、虎丸は小さく笑った。
『・・・それもいいかもしれないな』




