第二話
思い立ったら早いほうが良い、と晃が主張し、その日のうちに出立することになった。
着替えが一式と最低限の持ち物は、結局荷袋一つで足りてしまった。
支度を済ませた晃は、最後に奥の間の小さな引き戸を開け、その前にきっちりと正座する。
そこにあったのは幼子の背丈くらいの木彫りの仏像だ。
-和尚様。俺、行くことにしたよ。これで少しは和尚様も安心できるよね。小虎も連れて行くからしばらくは寂しくなるけど、いつか必ず戻るから待っててね-。
心の中でそう呼びかけて、しばし瞑目すると、晃は大きく息を吸って立ち上がった。
そして丁寧に引き戸を閉めると、彼に呼びかける。
「さあ、行こう」
***
この日は雲も無く、朝から日の光が眩しく射しつけていた。
晃とその足元から伸びる影、そして小虎は山を下り、麓の町に向かった。
小虎は、時に晃の足元に寄り添い、時に道端の蝶を追い、ただ決して離れることなくついてくる。
『よく懐いているんだな』
「ずっと一緒にいるからね。・・・四年前、弱って草むらで鳴いてたのを介抱したら居ついちゃったんだ」
『なぜ首に下緒を巻いてるんだ?』
ずっと気になっていた。
小虎の首に結ばれている赤い紐、あれは刀の下緒だ。
「初めから巻かれてたから、理由は分からない。もともとはお侍の飼い猫だったのかもしれないね」
それより、とらまる-と晃が呼びかける。
結局、彼の名は虎丸となった。
小虎を通じて話すことができるから小虎にあやかろう。
そう晃が言い出した時、何度か却下を繰り返し疲労感を感じていた彼もようやく了承した。
頑太郎や石太郎よりはまだ幾分まし、というところだ。
晃自身は、そちらの方にかなり未練もあったようだが。
「これから町の中を通る。小虎から声がしたら相当気持ち悪がられると思うんだけど、どうしようか」
そもそもなぜ小虎から虎丸の声が聞こえるのか、その仕組みも分からないままだ。
小虎自身が嫌がっている様子もない。
むしろ一休みする際などは、喉を鳴らして虎丸の影の傍で寝そべったりしている位だ。
「虎丸って猫に好かれる人だった?」
『特別な何かがあった記憶はないな。・・・とりあえず、俺が喋らなければいいだろう』
***
町に着くと、晃は家々に声をかけて回った。
逆に彼の姿を見かけた人々から声をかけられもした。
「いつも食べ物ありがとうね。俺、しばらく旅に出ることにしたんで、その報告に来たんだ」
晃の言葉を聞いた者は、皆一応に残念がった。
「こちらこそ、いつも畑仕事手伝ってくれてありがとうね」
「うちは子守りもお願いしちゃって、本当に助かったよ」
「晃が来てくれないと、年寄りの二人暮らしは難儀だよ。いつ戻るんだい?」
問われた晃は困ったように笑った。
「ごめんね、まだ分からないんだ。でも、やるべきことが全部済んだら、きっと戻ってくるから」
晃は定期的に山を降りては村の人々の手伝いをし、そうして代わりに食材を受け取っていたようだ。
たった一人、猟をするような道具も見当たらない小屋でどうやって暮らしているのか。
という虎丸の疑問はここで一つ解消された。
なぜ、そこまでして山奥にいるのかはまだ分からないが。
そのうち、大人たちの声を聞きつけたのだろう、子供たちも集まってきた。
聞いていると、皆が彼に絵をせがんでいる。
一人が差し出した紙と筆を受け取り、晃はにっこりと笑った。
「じゃあ、しばらくお別れだから、みんなの似顔絵を描いておこうかな」
そう言ってすらすらと筆を走らせると、あっという間に描き上げた。
出来上がった紙を見た子供たちが歓声を上げている。
虎丸にも一瞬見えたが、皆の特徴を上手く捉えているように見えた。
「やっぱりあんたはいい絵描きになれるよ。和尚さんもそう望んでたからね。旅に出て、色んなもの見て、勉強しておいで」
「・・・うん、ありがとう」
見知った顔に別れを告げながら町内を歩いてきた晃が、ある場所でゆっくりと足を止めた。
比較的新しく建てられたのだろう屋敷が数軒続いている。
辺りを見回すと、ちょうど今は、運よく人通りが途切れている。
少し考えて小虎を抱き上げると、目前の屋敷から後ずさり、向かいの家の塀に影が映るように立った。
そしてできるだけ小さな声で虎丸に話しかける。
「見えるか?・・・ここが、二条様の屋敷があったところだよ。屋敷は壊されて、今は商家が住んでる」
その光景は-。
自分の中ではつい先日立ち寄ったばかりの二条邸は、丸ごと姿を消していた。
でも周りの家並みは変わっていない。
見覚えのあるこの辺りの景色に、先ほどから虎丸も気づいていた。
晃の語った幕末の終焉は嘘だと、心のどこかで思い続けていた部分が壊れていく。
やはり嘘じゃなかった。
紛れもなく今は明治という新しい時代なのだ。
「ごめんな。見たくなかったかもしれないけど・・・きっと見ないと信じ切れないだろうと思って」
『・・・そうだな』
虎丸に言えたのは一言だけ。
それ以上は、何も言えなかった。




