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影の記  作者: 水鳥川 陸
第二章 東京へ
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第一話

目覚めたのは、朝日が昇り始めたころだった。

布団から起き上がると、晃の腹の上で寝ていた小虎が渋々といった感じで下りて行く。

障子を通して差し込む光で、室内には微かな影ができていた。


「あの・・・起きてる?」


多分、返事はないだろう。

すべて夢だったのかもしれない、いやむしろそうあってほしい。

そう思ったのだが。


『・・・起きている。というか俺は寝なくても平気だから』


若干聞き取りにくいが返事が聞こえた。

そしてそのまま続ける。


『昨日は取り乱した。済まなかったな』


予想外の言葉に、思わず晃は顔をほころばせた。

なんだ、素直なところもあるじゃないか。


「俺の方こそごめん。いきなりこんなに時代が変わってたら、そりゃ取り乱しもするよな」

『あれから一晩考えた。正直、俺はお前の話をまだ信じきれない』

「まあ、俺だってお前の話は信じきれないからな、お互い様だ」

『・・・それに、俺はやはり自分が生きる価値のある人間だとは思えない』


でも、と続く声。


『俺にはまだやらなければならないことがある。だけど今は、お前に動いてもらわなければ、俺はどこにも行けない。どうか力を貸してほしい』


        ***


小虎に魚を焼いて、ついでに自分の飯の準備をする。

影は腹がすかないのか聞いてみたが、何も感じないそうだ。

まあ、食べたいと言われたところでこちらも困るけれども。



「・・・江戸に行きたい?」


白飯を頬張りながら、晃は影の頼みを繰り返した。


『俺に剣術を指南してくれた師範がいる。今も江戸にいるかは分からないが、忍びにも詳しい人だったから、この術について何か分かるかもしれない。それに・・・』

「それに?」

『・・・いや、何でもない』

「ふぅん。・・・ま、いいよ」


至極あっさり答えた晃に、逆に影の方が面食らったようである。


『大丈夫なのか。お前の生活は』

「俺、基本ここで一人で自給自足してるだけだから、誰も迷惑はかからないんだ。東京、あ、江戸は東京って名前に変わってるんだけどね。俺も東京はいつか見てみたかったし、いい潮時かなって思うんだ」

『それは、助かるが・・・』

「まあ、何より、誰か詳しい人がいるんなら俺も早く自分の影返してもらいたいしな。今のところそんな不便はないけど」

『・・・そうだよな、本当に済まない。感謝する』



食べ盛りであろう年頃には少ない量の粗末な食事を食べ終え、晃は丁寧に箸を置いた。


「ところでさ、あんたの名前は?何て呼んだらいい?ちなみに俺は、後藤晃って言うんだけど」

『俺は・・・』


問われて彼は絶句した。

俺に名前はない、そう言っていたのはついこの間であったはずだ。

幕府のために名を捨て、”影”と呼ばれ、ついには本当の影に成り果ててしまった。

それなのにその幕府は、今はもう存在しないという。

”影”というのか、と嬉しそうに笑った刹那の顔が一瞬浮かんだ。


『俺は・・・この仕事を引き受ける時に名を捨てた。だから名は・・・無い。好きに呼べ』


晃は不思議そう首を傾げた。


「一度捨てたって、また拾えばいいだけじゃないか。もうお前を縛る幕府は無い。・・・大事な自分の名前だろ?」


晃の言葉に、はっとして顔を上げた。

それは晃には、少し影が揺れた程度にしか見えなかっただろうが。


-お前が名を捨てても、俺がお前の名を忘れることはない。だからいつかすべてが終わったら、お前は胸を張ってその名を名乗れ-


耳に残る優しい声、その姿・・・無事でいるのだろうか。



考え込んだ彼を、晃の声が引き戻す。


「まあ、無理強いはしない。いつか教えてもいいなって思ったら教えてよ。・・・あ、でも名前が無いと呼ぶとき何かと不便だよな」


何がいいかなぁ、と晃はうんうん唸って考えている。


『任務中の呼び名は”影”だった。それを聞いた忍びが、喜んでこの術をかけた。・・・影突(かげづき)と言っていたな』

「随分、悪趣味な奴だなぁ。それは却下」

『だが新しい世のために信念を持って動いていると言っていた。逆に俺はただ命に従っていただけだ。・・・結局、正しかったのはあいつの方なのかもしれないな』


バチンと影を叩かれた。

もちろん痛みはないが、水面に石を投げたように視界が波打った。


「お前、本当に頑固者だなぁ。まさか勝った方が全部正しいなんて、阿呆みたいに考えてるんじゃないだろうな。少なくとも、こんな風に人を苦しめておいて喜んでるような奴には、俺は絶対従わないぞ。それに、先に死んだっていうお前の仲間だって報われないだろう?・・・せめてお前は早く元に戻って、そいつらの分も前に進めよ」

『・・・お前、いい奴だな』


初めに話した時は随分頼りない男だと思った。

だが今は、逆にこちら驚くほどの柔軟さでこの環境を受け入れて。

更には得体のしれない自分を励ましてさえくれているではないか。

不思議な男だ、そう思った。


「俺、悪い奴にはなれないんだ。和尚様と約束したからな」


笑った顔が一瞬寂しそうに見えた。

そういえば晃の口から何度か聞いた、和尚様とは誰なのか。

尋ねようとしたところで、晃がポンと膝を打った。


「そうだ。お前の名前、頑太郎とかどう?頑固者の頑太郎。あ、それか石頭の石太郎とか・・・」

『・・・名づけの才は、無いようだな』

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