PHASE II-15|空席
白倉は机の端の保温ボトルへ手を伸ばした。
朝に温度まで測って淹れてきた紅茶を、自前のカップへ注ぐ。湯気に混じって、茶葉の香りがふわりと立った。
「……お昼、逃したか」
午前から押し寄せた仕事に追われ、気づけば十五時を回っていた。執務室には、ほかに人影はない。
ようやくひと息つこうとしたところで、内部通達の通知音が短く鳴った。カップを持ち上げかけた手が、そのまま止まる。
【零域戦術部隊 指揮系統更新】
指揮官:桐生蓮少佐
状態:指揮権限停止
代行:冴木悠斗中尉
権限:業務統括代行
決裁案件:司令部承認系統へ上申
個別照会:禁止
白倉は表示を二度見し、瞬きを忘れたように画面を見つめた。読み違いではないかと、もう一度最初から確認する。
「……え、指揮権限、停止?」
執務室の外で感知灯が点き、廊下を進んでくる足音が近づいた。
「戻ったよ」
白倉は椅子を押し退けるようにして立ち上がった。
「あ、冴木さん。今、通知が来て……」
端末の画面を見せるように持ち上げる。
「これ、指揮権限停止、って……そういう意味ですよね」
「九條司令官から話は聞いた。軍警察が身柄を押さえたって」
「えっと、では今後の予定と決裁関係は、全部こちらで組み替えが必要ですか」
「そうだね。少なくとも今日明日って話ではなさそうだから」
「……分かりました」
白倉の表情には、どこか釈然としない色が残った。
「思ったより正直だね」
「何が、ですか」
「隊長がいない方が、気が楽なのかと思ってた」
「厳しい方だとは思っています。でも……」
白倉は思わず眼鏡の位置を直した。
「嫌ってはいません」
「そうなんだ」
冴木の口元に、ほとんど癖のような笑みが浮かんだ。
「とにかく、今は業務を回します。代行処理に必要な権限の確認と、今日以降の予定の再編、それから司令部への上申ルートの整理を──」
そこまで言いかけたところで、執務室に再び通知音が鳴った。
「優先通知?」
表示されたヘッダを見て、白倉の指の動きが止まる。
「中央戦略府から零域へ、直接発令?隊長がいないのに、……」
冴木は通知の内容を一通り追い、短く息を落とした。
「そこまでやるんだ」
「……え、副官も司令区画から離脱不可……冴木さんも、ですか?」
「……みたいだね。俺も、今知った」
「何を信じれば、いいんでしょうか……」
言葉の続きを探すように、顔を上げる。
「桐生隊長がいなくなって、通知も記録も、こちらの手を離れたところで決まっていくみたいで」
「全部を信じなくていいよ」
息を詰めたまま、白倉は冴木を見つめる。
「中央の通知も、出てきた記録も、俺のことも」
冴木は端末へ手を伸ばした。
「ブリーフィング準備しようか、白倉くん」
「……了解しました」
「班長全員に共有。会議室は指揮管制室に変更で」
*
指揮管制室には、すでに各班の主要メンバーが着席していた。戦術卓の表示には、各班の配置情報が整然と並んでいる。
一班:不動 |重装備・重火力・正面制圧
二班:阿久津|外縁警戒・遊撃制圧
三班:綾瀬 |撤収支援・救出
四班:鷹羽根|近接補助・機動戦
五班:久世 |狙撃・遠距離監視
六班:神崎 |近接主力・突入
戦術卓の正面、隊長席だけが空いている。
誰もその空席に触れないまま、待機状態の戦域図だけが淡く光っていた。
「始めようか」
冴木の短い声が、静まり返った室内に通る。
「任務要項は、事前に共有済みだと思うけど……」
誰も頷かないまま、冴木の次の言葉を待っている。
「下りてきた指示は二つ。敵支配区域に取り残された観測チームの引き上げと、回収指定物の確保」
四班班長の鷹羽根は、椅子に斜めに腰掛けたまま、長い脚をゆるく組み替えた。胸元の留め具を指先で緩め、肩にかかる金髪を後ろへ流す。
「もしかしてさ、これもΩに上がる類の任務だったりする?」
「中央戦略府発で、零域に下りてきてる」
「ほら、やっぱり」
鷹羽根は肩をすくめる。その軽い声が消えたあと、戦術卓の奥で、椅子の軋む音がした。
組んでいた腕を解いた一班班長の不動が、初めて冴木を真正面から見た。軍服の袖口が張るほど太い前腕が、戦術卓の上に重く置かれる。その重い音に、指揮管制室の空気が沈む。
「桐生隊長不在時に、出来過ぎだ」
「懸念はもっともだよ」
「推測ではない。そう見るべきだ」
「軽い任務に見えるのに、情報が少ない。だから、細かく詰めておきたいんだよね」
冴木は、鷹羽根の軽い探りと、不動の短い断定を、ゆるく微笑んで受け流した。
反論はすぐには返らなかった。
沈黙の中で、三班班長の綾瀬だけが穏やかに目を細めた。
隣に座る副班長の戌亥へ静かに頷いて、発言を譲る。
「慎重寄りで組むこと自体は、妥当だと思います」
冴木の提案を受けた戌亥の声には、場に似つかわしくないやわらかさがあった。
「妥当ね」
鷹羽根の隣に座る四班副班長の清水が、表情を変えないまま返す。
「少なくとも、戌亥の言葉は隊の意見には聞こえない」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味」
「はっきり言ってくださいよ」
「言わせるな。案に乗ったんじゃなくて、副官に乗ったように見えるってことだ」
「なにっ——」
椅子が鳴り、戌亥が立ち上がりかける。
白倉は思わず冴木を見た。
「ちょ、ちょっと……」
「そこまでにしろ」
六班班長の神崎が、二人の間を断つように、低く割って入る。
「ここはそういう話をする場じゃない。鷹羽根、綾瀬、自分の部下は自分達で制御しろ。揉めるなら引き摺り出せ」
立ち上がりかけていた戌亥は、綾瀬が軽く手を添えると動きを止めた。
「大丈夫。座って」
「でも、綾瀬さん」
「今は違うよ」
張りつめた空気をわざと外すように、鷹羽根が隣へ声を投げる。
「清水もそこまで。あんまり続けると、羨ましがってるみたいに見えるよ?」
「不快です」
「はいはい。座る、座る」
清水はそれ以上は返さず、椅子の背に体を預け直した。
「副官、失礼した」
神崎は短く冴木へ断りを入れてから、各班長を一巡するように顔を向けた。まだ残っていたざわつきが引く。
「副官の慎重案自体は理解できます。ですが、隊長不在のこの状況で、副官も司令区画から離脱不可。現場に出ないあなたの判断を信じて、動くわけにはいかない」
「分かった。じゃあ、その前提で詰め直そうか」
場が収まりかけたところで、そこまで黙っていた一角で、ようやく気配が動く。
二班の席にいた班長、阿久津 朔夜は、妙に静かだった。
艶のある黒髪は、肩の位置でまっすぐ切りそろえられ、血の気の薄い顔には、ほとんど動きがない。
「ねぇ、桐生隊長なんでいないの」
見た目にそぐわない幼さが、声に混じる。
「いないまま進めるの、無理」
冴木が返す前に、阿久津は唇を尖らせる。
「みんな、あんたを信用してない。隊長がいなくなったの、あんたのせいでしょ」
「阿久津、任務は下りてる」
「隊長が決めてない作戦で動きたくない」
神崎の声が、阿久津の言葉の先を止める。
「阿久津の言い方はともかく、一理ある。今回は悪いが各班長判断で動く。細部は各班で詰めてもらいたい」
「いや、この任務、何かあるかもしれない——」
阿久津の肩先で、切りそろえられた髪が静かに揺れる。
「もういいって。桐生隊長がいない零域とか、意味ない」
返事を挟む間もなく、阿久津は頬をふくらませて続ける。
「空気くらい読めるでしょ。副官ってそういう部署にいたんじゃないの」
「二班、自分の班長をこれ以上しゃべらせるな」
神崎の一言で、場の終わりが決まった。二班副班長が席を立ち、阿久津の横へ寄る。
「阿久津さん、行きましょう」
阿久津は背もたれから身を離し、対面の冴木へ顔を向けた。
「桐生隊長を連れてきてよ。この前の作戦、まだ褒めてもらってない」
「行きますよ」
「隊長に会いたい」
二班副班長に促され、阿久津は指揮管制室を出ていく。
各班の班長たちも席を立ち始めた。
最後の足音が遠ざかり、指揮管制室に静けさが戻る。
戦術卓の上には、まだ任務区画の表示が残っていた。誰もいない席の列を、淡い光だけが照らしている。
「……どうしましょう」
白倉は閉じた扉の方を見てから、小さく肩を落とした。
「思ったより、嫌われてるみたいだね」
「自分は嫌っていませんので、ご安心ください」
律儀な返答に、冴木の口元がかすかに緩む。
「歴代の副官が辞めた理由、隊長だけの問題でもなさそうだ」
「確かに、隊長への信頼が非常に強い部隊です。信頼というより、信仰に近いかもしれません」
「なるほど、神様は不在だ」
「特に阿久津班長は、その傾向が顕著かと」
冴木の視線が、空いたままの隊長席へ流れた。
「各班の動き、あとで全部拾えるようにしておこうか」
「共有フォーマット、こちらで組みます」
「ありがとう」
指先が端末に触れると、任務区画の光が静かに落ちた。




