PHASE II-08|逸脱
砂の壁際で、冴木が何かを確かめるようにしゃがみ込んでいた。手袋の先で地面を探り、表面の砂を静かに払っている。
その動きが止まる。
立ち上がり、ゴーグルの縁を押さえたままこちらを向いた。
「隊長……」
「何をしていた」
「はぐれました。合流点へ戻ろうと」
蓮は冴木の足元に残る踏み跡を一度だけ見て、視線を戻す。
「お前は、そういう間違いはしない」
ゴーグルの奥は互いに見えず、呼吸音だけが一定のまま続く。
「戻りましょう。ここは……」
冴木が半歩寄る。
同時に、蓮が足を出す。
踏み跡の薄い場所へ体重を乗せた瞬間、互いに靴底の感触が沈んだ。
「っ、地面が……!」
「動くな!」
砂が音を立てて崩れ、足首まで埋まる。
「……っ」
蓮が反射で冴木の腕の装甲を掴む。
次の瞬間、足元の砂が崩れた。
支えていた地面そのものが抜け落ちる。視界から色が消え、足裏の感触が唐突に断ち切られた。
蓮は冴木を胸元へ引き寄せたまま、足場を失い落下した。
「くっ、──!」
落下の終わりに叩きつけられた衝撃が背中側から全身を貫き、肺の奥の空気が一気に押し出された。
蓮の喉から押し殺した声が漏れ、冴木を抱えたままの体が制御を失って跳ね上がった。
左肩の付け根に鋭い痛みが走り、息を吸おうとした動きが途中で止まる。
遅れて、天井か地面かも判別できない場所から砂が降ってくる。
蓮は歯を食いしばり、冴木の身体を胸元に引き留めたまま体勢を整える。
肩に走る痛みを悟らせないよう、腕の力をわずかに抜いた。
「……っ」
「隊長……」
耳元で小さく呼ばれ、蓮は返事をしようとして喉が詰まる。
「どうしました?」
「いや」
薄暗闇の中で、砂がまだ音を立てて落ちている。
冴木は伸ばしかけた手を止め、足元の砂を踏み固めるようにして、ゆっくりと立ち上がった。そのまま距離を取って周囲を見回す。
「地下施設、ですね」
蓮は片腕を地面につき、体を起こそうとした。
力を入れた瞬間、肩の奥に鋭い痛みが走り、思わず喉の奥で声を噛み殺す。
体勢を保てず、再び重心が落ちた。
冴木はわずかに顎を引き、ゴーグル越しに蓮の様子を追った。
「大丈夫ですか」
「問題ない」
蓮はそれだけ言って、体を支えながら身を起こした。
見上げると、切れた配線の束が頭上で揺れている。
壁際には通信機器のフレームが並び、倒れた卓上端末の画面はひび割れたまま沈黙していた。
砂は上部の裂け目から細く落ち、機器の縁に薄く積もっている。
冴木は近くの通信架台に触れ、指先で砂を払った。
「地下通信中継室でしょうか。主回線の補助区画だった場所のようですね」
「使えるか」
「回線は期待できません。かなり前に切り離されています」
冴木は手首の通信端末に触れ、周波数帯を走査する。わずかなノイズだけが返った。
「無線も駄目です。砂嵐の影響で、外部回線は完全に死んでいます」
淡々と告げながら、落下してきた裂け目を見上げた。天井まではそれなりの高さがある。崩れた縁も鋭い。
あの位置から落ちた──
にも関わらず、身体のどこにも鈍い痛みが残っていない。衝撃の名残が、まるでなかった。
落下の直前、身体が引き寄せられた感触が、遅れて繋がる。
冴木はゆっくりと顔を戻した。
「負傷、していますよね」
「動ける」
「見せてください」
「必要ない」
「隠す意味、ありますか」
柔らかい声とともに、冴木の口元に微かな笑みが滲む。
「……寄るな」
冴木は制止の言葉を待つことなく蓮の正面に立ち、装甲の固定具へ指を掛け、静かに外した。
内側に溜まっていた血が、砂の上へ滴る。
蓮の装甲を完全に外し、脇へ静かに置く。
「出血量が多い」
露出した戦闘服の左肩は、すでに広い範囲で濡れていた。繊維が血を吸い、重く沈んでいる。肩の接合部に近い位置で、生地が鋭く裂けていた。
「……深いですね」
血と汗で張り付いたアンダースーツを、刃先で慎重に切り開く。血に濡れた皮膚が現れた。
冴木の手が、そこでわずかに止まる。
鎖骨の縁に沿って、暗い線が絡みつくように刻まれたタトゥーが見えた。
蓮の身体に、こういうものがあるとは思っていなかった。
個人的な装飾を好む人物には見えなかった。
(……意外、だな)
冴木は意識を傷口へ戻した。
装甲の継ぎ目から滑り込んだらしい。鈍く光る破片が、皮膚の下に半ば埋まり、斜めに食い込んでいる。先端は完全に入り込んでおり、根元だけが外に残っていた。血はそこを伝って流れ続けている。
冴木は指先で周囲の血を拭う。傷口の縁から新しい血が滲み、手袋の上をゆっくりと伝った。
「先に止血します」
腰の装備から止血材と処置具を取り出す。
肩口に露出した破片の根元に指先を寄せ、周囲に溜まった血を拭う。
金属の縁に触れた瞬間、蓮の身体が強張る。
「……っ、」
喉の奥で押し殺した声が漏れ、上体が前へ崩れる。
冴木は反射的に肩を支えた。
「……神経に触れていますね」
破片は神経の走行に沿う位置で停止し、肩口の筋肉は硬く収縮した状態のまま動かない。
「このまま動けば、神経を裂きます」
蓮は冴木の腕を払い、体勢を戻す。
「大丈夫だ」
「ダメです。破片を抜きます」
冴木は小型の金属ボトルを取り出した。
本来は重機の機器の清掃と消毒に使うためのアルコールだった。
「飲んでください。反射を抑えます」
「不要だ」
冴木は蓮の呼吸を一度だけ確かめ、露出した破片の根元を爪先で弾く。
「……ぐ、」
蓮の背中が強張る。息が詰まり、喉の奥で潰れた音が漏れた。肩の奥を焼くような痛みが走り、指先まで痺れが広がる。
「……くそっ、今のはわざとだろ」
「わざとです。耐えられる状態ではありません」
「ふざけるな」
「続けますか」
蓮は小さく舌打ちし、ボトルを掴んだ。
強い刺激が喉から食道を焼きながら落ちていき、わずかに目を細める。
アルコールの熱が遅れて回り、肩口の感覚がわずかに鈍る。刺さった破片が発していた痛みが、先ほどよりも確実に和らぐのを感じた。
空になったボトルを握ったまま、蓮は処置を受け入れるために身体の力を抜いた。
その変化を確認した冴木が、再び傷口へ手を伸ばした。
「抜きます」
「……ああ」
冴木は破片を指で挟み、周囲の皮膚を押さえる。動きを固定し、ためらわずに引き抜いた。
崩れかけた蓮の肩を支え、傷口に布を当てる。
溢れた血が指先を濡らし、布へと吸われていく。
「そのまま」
押さえたまま、もう一方の手で小型の器具を取り出す。傷口の両端を指で寄せ、先端を当てた。
小さな音が連続して、皮膚が固定されていく。
「……意外です」
「何がだ」
左胸に刻まれたタトゥーが、血と汗に濡れた皮膚の上で、その輪郭をより明瞭にしていた。
「こういうものを入れる人だとは、思いませんでした」
「……それか。自分で入れたわけじゃない」
冴木は止血パッドを当て、その上から包帯を引き出す。背後へ回し、胸を横切るように巻き上げていく。
「同じものを入れられた。対になるように」
「誰、ですか」
「兄がいる。双子の」
包帯で傷口を固定しながら、冴木の腕が蓮の胸元を通る。距離が近いまま、その手当ては正確に続いていた。
「向こうが、残りを持ってる」
冴木の指先が止まる。
「……馬鹿みたいだろ」
「いいえ」
蓮がかすかに笑った。痛みを堪えたまま、息だけが漏れる
「笑うんですね」
「お前のせいだ」
蓮の呼吸が乱れていた。額に浮いた汗が、頬を伝って落ちる。
「さっきのアルコールが、効いてきてますね」
蓮は息を整えようとした。
肺が空気を受け入れるたび、胸の奥で鈍い熱が広がる。
「普段は、飲まない。お前は……強いのか」
「強い方です。前の部署では、それも業務でした」
「……なるほど。そういう仕事だったな」
蓮の顔が近い。普段と変わらないはずの輪郭が、わずかに違って見える。
前髪の隙間から覗く漆黒の深い瞳。
その奥を、こんな距離で見たことはなかった。
「……隊長」
なぜ呼んだのか、冴木自身にも分からなかった。
蓮の瞳が、冴木を捉えたまま動かない。
視線だけで押さえ込まれているような感覚が、皮膚の表面をなぞる。
砂の落ちる微かな音だけが、遅れて耳に届いた。
「……意識は、はっきりしていますか」
冴木の指先が、わずかに動く。ただ、そこにある距離を確かめるように。
「後悔しますよ」
「さぁな」
蓮の喉が、わずかに動く。低く、掠れた声だった。
「……判断を誤りそうだ」
次の瞬間、視界が揺れた。
蓮の手が冴木の腕を掴み、そのまま引き寄せる。
互いの呼吸が、触れるほど近い。
淡い色の髪が額にかかり、隙間から覗く瞳がわずかに見開かれていた。
整いすぎた輪郭。細い首筋が、無防備に晒されている。
アルコールの熱が、身体の奥に濃く残っている。
それが何を鈍らせているのか、蓮には分かっていた。
距離が消える。
冴木の吐息が、唇に触れる。
次の瞬間、思考より先に、触れていた。
冴木の指先の力が、わずかに緩む。蓮の指が、それを追うように強く絡む。
どちらが先だったのか、分からない。
残っている熱が、何を鈍らせているのか、互いに分かっていた。
それでも、その先を止める理由は残っていなかった。
装甲の隙間に指が掛かり、留め具が外れる。
閉ざされた空間に、掠れた呼吸だけが重なっていく。
蓮の指先が、静かに触れる。
冴木の身体が、わずかに強張った。その反応を追うように、蓮の腕に力がこもる。
名を呼んだのかどうかも、もう判別できなかった。
やがて、互いに触れている境界が曖昧になり、ただ体温だけが、確かなものとして残った。
地上では、砂の流れがやむことなく続いていた。




