第8話 怪物皇子と性悪従者
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ルトレギナが真っ先に身につけたのは、文字を読むことだった。
公用語である大陸語は、一週間のうちに読めるようになり、魔術式の言語体系に含まれる古代語も、一月の内に二種類は簡単なものは読めるようになる。
言語を教えてくれるイグナジアの授業は非常にわかりやすく、完璧だった。そのかいもあって、レイジーナから受ける魔術基礎の授業も、順調に捗った。
しかし、ルトレギナが最も苦戦することとなるのは――書くことである。
まずは、ペンを五本握りつぶしてしまった。
イグナジアからにこやかに嫌味を言われる。
「おや。貴方にとって、ペンとは折りがいのある小枝か何かなのですかねぇ」
「……すまない」
次に、予備のペンが無くなってしまったので、イグナジアからペンを借り受ける。借り受けた十本のペン、全てを折ってしまう。
にこりとしたイグナジアから呆れ混じりの嫌味を言われる。
「おやおや。私のペンまでご親切に、全て折ってくださるとは……私のペンは、貴方に処理される塵ではなかったのですがねぇ」
「すまない……本当にすまない。弁償する」
「いえ、結構です」
そうして一月が経ち。ついには、ルトレギナは集中のあまり癖で魔力が瞬間的に暴発し、インクの壺を木っ端微塵にしてしまった。
「……」
「……」
ルトレギナの顔はインク塗れになり、あろうことかイグナジアの衣服にまで飛び散って、インクで汚してしまった。
重い沈黙の中、ルトレギナは咄嗟にイグナジアへ謝罪しようと口を開きかけるが、それはイグナジアの盛大な溜め息によって遮られる。
「おやおやおや……インクでお遊びとは。流石はヤルンヴィドの皇子様。高尚なお遊びをなさるのですねぇ。授業中にもかかわらず」
「授業中にお遊び」という言葉に、ルトレギナはぴくりと眉を動かした。
確かに書き物の授業は失敗続きとはいえ、決してお遊び気分でやっているわけではない。ルトレギナは至って真剣だ。
ルトレギナは、初めてイグナジアへ反論を口にする。
「イグナジアには、いつもすまないと思っている。僕が不出来なばかりに迷惑を……だが、僕はイグナジアの授業で遊んでいるつもりは一切ない。いつだって本気だ」
「本気? 本気ですか。そうでしょうね。本気でお遊びにならなければ、ペンが二十本近くも塵にはならないでしょうし、インク壺も無残に粉々にはならないでしょう。こんなお遊びをなさる箱入り皇子様の親御様を、是非とも拝見したい限りです」
親の顔を見てみたい。
そう言ったイグナジアに、ルトレギナは思い切り眉を顰めると、イグナジアを睨みながら低い声を刺した。
「……父上を愚弄する気か?」
あからさまに怒りを滲ませたルトレギナに、イグナジアがいつも以上に柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ。といいますか、むしろ――貴方を含めた、皇帝、ヤルンヴィド皇族。その全てを、この手で殺して差し上げたいと。いつも思っておりますよ、私は」
ルトレギナは思わず「は……」と声を漏らして、息を呑んだ。イグナジアは確かに柔らかな微笑みを浮かべている。だが、その赤い目は笑っておらず、慇懃なようで明らかな殺意が込められた冷たい声は、地を這うようだった。
一瞬だけ唖然としたルトレギナだったが、流石に「皇帝を殺したい」という旨の言葉は聞き捨てならず、ルトレギナはその場に立ち上がって、イグナジアの胸倉に掴みかかった。
「なんだと……!」
「おいこら。何やってる、てめぇら」
まさに一触即発だったルトレギナとイグナジアの間に割って入ってきたのは、どこからともなく現れたレイジーナ。
ルトレギナは一瞬にして怒りを忘れると、「叔父上」と呟いてイグナジアの胸倉から手を離した。
レイジーナはイグナジアの肩を引いて、無理やりルトレギナから引き剥がす。
「イグナジア。てめぇらしくもねぇ。何をそう苛ついている。そんなにもルトが気に喰わねぇか」
「ええ、その通りです。私はレイさん以外の皇族は皆、死んでしまえばいいと思っていますから。もうままごとも飽きました。本日はこれにて、失礼させていただきます」
イグナジアは抑揚のない声で言い連ねると、丁寧な手つきで、イグナジアの肩を掴んでいたレイジーナの手を引き剥がす。
「そもそも私は――『死にたい』などと腑抜けたことをぬかす者は、大嫌いです」
「死にたい」という言葉が、痛く、ずしりとルトレギナの胸に沈んだ気がした。
そう独り言ちるように吐き捨てて、イグナジアはレイジーナに一礼すると、足早に研究室から出て行ってしまった。
イグナジアの背中を呆然と見送ったルトレギナは、ぽつりと、どうにも頭にこびりついて離れない疑問を零す。
「僕はともかく……なにゆえイグナジアは、ああも皇族を憎んでいるのか」
「……イグナジアは、ヤルンヴィド帝国に母国を滅ぼされている。てめぇと同じ、帝国に犠牲を強いられた者だ。俺を含む、皇族を恨むのは当然だろうな」
囁くようにルトレギナの疑問に答えたレイジーナは、どこか遠くを見ているようだった。
ヤルンヴィド帝国はこれまで多くの国を侵略し、その国々を自国の領地として統治することで国力を増強し、超大国として拡大してきたのだと、レイジーナの魔術基礎の授業の合間に少しだけ教わった。イグナジアの母国も、ヤルンヴィド帝国に侵略された小国の一つなのだろう。
ルトレギナは知られざるイグナジアの過去に、驚きのまま大きく目を見開く。
(そうであるならば……イグナジアはさぞ、僕と接することに、苦痛を感じていたことだろう……それでも、僕は)
イグナジアともっと話をしてみたい。
そう考えると、ルトレギナは何だか心臓の辺りがぎゅうっと苦しくなり、いつもの癖で心臓の上に片手で爪を立てた。
「僕は本当に、何も知らぬのだな……この国、世界どころか。こんなにも近くに居る、イグナジアことも……叔父上の、ことでさえ」
「まあ、そうだろうな。だが、そう自覚できただけでマシな方だぜ。これから知っていけばいいことだ」
肩を竦めて見せるレイジーナを振り向いて、ルトレギナは少し視線を泳がせながらも、おずおずとレイジーナに尋ねる。
「叔父上はそういうことも、教えてくれるか? 叔父上のことや……イグナジアのことも」
すると、レイジーナはひとつ目をしばたたかせた後、にやりと意地の悪い笑みを浮かべながら、ルトレギナの肩を叩いた。
「そうだなァ。俺のことはともかく。イグナジアのことは、イグナジアの口から聞くしかねぇな?」
「ぐ……」
レイジーナからの難題に、ルトレギナは半眼になって唸り声を上げる。レイジーナはやはり意地悪そうに「良い課題だ。気張りたまえよ」と笑った。




