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傾国王の王笏  作者: 根占桐守
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第4話 叔父と甥と従者の逃避行



 苦い臭気が、痛いほどに鼻の奥を突いた。それが煙の匂いだと瞬時に理解して、眠っていたルトレギナの意識が一気に覚醒する。

 ルトレギナは寝台の上で飛び起きた。すると、視界に飛び込んできたルトレギナの部屋の中は既に、見るも無残なものへと成り果てていた。

 ルトレギナは片腕の裾で鼻を覆い、思いがけず声を漏らす。


「こ、れは……!」


 床には油のようなものが至る所にぶちまけられていた。その油のようなものを伝って、赤々とした炎が瞬く間もなく燃え広がってゆく。

 このままでは、この部屋は間もなく炎の海と化するだろう。

 ルトレギナは咄嗟に立ち上がろうとするが、その身体は「ガシャン!」という金属音と共に寝台へと引き戻された。寝台を振り向いてみれば、ルトレギナの左手首には鉄枷が嵌められており、寝台へと繋がれている。


「誰が、このようなことを……」


 ルトレギナは瞠目して、呆然と独り言ちる。そんなルトレギナの虚ろな問いかけに答える声が、鉄扉の方向から聞こえてきた。


「貴方様が、〈傾国のもの〉で在らせられるからです。ルトレギナ殿下――我々は本日、確信いたしました。陛下を攻撃なさった貴方様は、紛れもない〈毒〉なのだと」


 そこに居たのは、黒獅子紋章の黒服を身に纏った男たち――ダンデリオヌス家だった。絶句したまま振り向いたルトレギナに、ダンデリオヌス家の者たちが淡々と、ルトレギナに宣告する。


「貴方様のその御力は、一国をも揺るがす〈毒〉でございます。次期皇帝で在らせられる、第一皇子殿下の手足として。我々は貴方様を排除せねばならぬのです」

「……」


 ルトレギナはまばたきも忘れて、ダンデリオヌス家の掲げる正義を聞いていた。


「ヤルンヴィド帝国のため。死んでください」


 その言葉に、ルトレギナは頭を強く殴られたかのような衝撃が走った。

 声すら発せなくなったルトレギナにも構わず。ダンデリオヌス家の一同は、一糸乱れぬ動きで恭しくルトレギナに一度だけ頭(こうべ)を垂れると蟲のように蠢き、鉄扉に鍵をかけて、塔の外へと出て行った。

 おそらくもう、この塔全体に、火の手が回っているのだろう。ルトレギナ以外の人の気配が、一切感じられなくなった。


「……」


 ルトレギナは無言でその場に両膝をつくと、炎の赤が揺らめく天井を仰ぐ。

 視線を天井に縫い留めたまま、左手に嵌められた鉄枷に魔力を込めた右手で触れると、容易く黒い鉄に窪み穴が開いた。

 何とこの世界は脆いのだろうと、ルトレギナは小さく息を吐く。


(僕は、この鉄枷を容易く外せる。塔を燃やし尽くす業火さえ、僕が嵐を呼べばいつでも消すことができる。だが……)


 ルトレギナは「じゃら」と鉄枷の鎖を鳴らして、左手で己の胸に触れると、心臓の上に強く爪を立てる。これは、ルトレギナが己の心を鎮めるための、「まじない」のようなものだった。


(今だけは。嵐よ、来ないでくれ――もうこのまま、死なせてくれ)


 ルトレギナは心から、そう祈った。

 もうルトレギナは、疲れ果てていたのだ。怪物として生きることに。怪物として生かされることに。


(ダンデリオヌス家の言う通りだ。僕という怪物はきっと、帝国の毒なのだろう。何より、皇帝たる父上を僕は……傷付けてしまった。これは重罪だ。僕は、このまま生きることなど許されない。父上はもう、僕を息子とは呼んでくれない)


 ルトレギナは薄く自嘲の笑みを浮かべる。肌が業火の熱に炙られようとも、煙の毒に肺が蝕まれようとも。そんな苦痛は、どうでもよかった。

 何故ならルトレギナは、それらよりももっと、辛い苦痛を知っているからだ。


(とこしえに思えた孤独の苦痛より、刹那の死の苦痛の方がよっぽど良い。僕にはもう、生きる意味などない。僕はきっと――生まれてきては、いけないものだったのだろう)


 そう祈りを捧げながら、ルトレギナは固く目を閉じようとした。

 しかし、それは「ゴォン!」と頑強な鉄扉が吹き飛んだ重い音で、遮られる。ルトレギナは思いがけず目を見開いて、鉄扉が飛んできた方を見やる。


「おや、失敬。見かけによらず、脆い扉ですね」


 低くとも、柔らかな男の声が聞こえてくる。そこには、一人の青年が長い片脚を高く持ち上げて、立っていた。

 もしや、あの長い足で鉄扉を蹴破ったのだろうか。大男が二人がかりで開けるような重厚な鉄扉を、軽々と、たった一人で。人間にしては、ルトレギナに近しいものを感じる怪力だ。

 そんな驚愕と困惑で、上手く思考ができないルトレギナの目の前に、青年が燃え盛る業火をものともせず、涼しげな顔をして歩いてくる。

 青年はルトレギナの前に跪くと、片手を胸に当てて、恭しく頭(こうべ)を垂れた。


「先刻はご挨拶もせず、大変失礼いたしました。私はレイジーナ・ヘリアントス・デックアールヴ殿下にお仕えしております。イグナジア・フレイと申します」


 ルトレギナと殆ど同じくらいの、人並み外れた長身。白髪ではあるが、毛先にかけて黒に侵食されている不思議な髪色。人好きするような微笑みを浮かべた血のような赤い目。

 青年――イグナジアは確かに、昼間に会ったレイジーナの傍に控えていた従者だった。

 イグナジアは、現況の把握に追いついていないルトレギナを知ってか知らずか、頭を垂れたまま、物腰柔らかな口調で提案してくる。


「ルトレギナ殿下。主の命により、貴方をお迎えに上がりました。この場は危険です。私と共に参りましょう」

「……」


 困惑のあまり声も出せずにいるルトレギナ。

 しばらくルトレギナの返事を待っている様子だったイグナジアは、恭しい姿勢は崩さぬまま、その場に再び立ち上がる。そして、左手を背中に回し、右手を胸に当てると、柔らかい微笑みを浮かべたまま、小首を傾げた。


「……やはり面倒臭い皇子ですね、貴方は。これだから私は、貴方なんぞのためにこのような業火の中に飛び込むことなど、反対したのです。我が主の変人ぶりには困ったものですねぇ」

「おい、陰口が駄々洩れだぞ。わざとやってんのか?」


 不意に、遠くから別の男の声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だった。その声にイグナジアが「おや」と飄々と声を返す。男の声は、鉄扉があった部屋の外からこちらへと、徐々に近づいてくる。


「仕事の早いてめぇが、まだ仕事を終えていないとは。そんなにそいつが気に入らねぇか。なァ? イグナジア」

「ええ、気に入らないどころではございません。とっても嫌いですし、嫌です。なのでサボっていました」

「堂々とサボり宣言してんじゃねぇ」


 その人は――レイジーナは、業火に赤く照らされて、現れた。今は女王の礼装ではなく、軍服にも似た服装で、長いマントを片方だけに肩掛けしている。

 ルトレギナは炎の熱も、煙の痛みも忘れて、金色(こんじき)の目を大きく見開いてレイジーナを見つめる。

 イグナジアとレイジーナは、変わらず淡々と会話を交わしていた。


「ダンデリオヌス家とのお話はいかがでした?」

「さぁな。奴らが素直にこっちの話を聞き入れるとは思えねぇ。しばらくは様子見だ」

「成程。承知いたしました」


 イグナジアが腰を折って頭を垂れると、ルトレギナの前から退いてレイジーナへと道を開ける。

 レイジーナが、膝立ちしているルトレギナのもとへ歩み寄ってくると、「さて」と声を漏らして銀の双眸を細め、小首を傾げて見せた。


「てめぇ、死にたいのか」


 短い問いかけが、ルトレギナの全身を一瞬にして強張らせた。

 だが、固まってしまった身体に反して、ルトレギナの口からは、反射的に答えが漏れ出てしまう。


「しに、たい……と、思って、いた」


 どうにも覚束ないような、たどたどしい答えだった。

 だがその答えこそが、己の本心に違いないのだと思い至る。そう結論付けてしまうと、何故だかまた己の心が澱む気配がして、ルトレギナは耐えるために薄く唇を嚙んだ。


「思っていた、か。へぇ。じゃあ――」


 レイジーナが手袋をした細い指で、ルトレギナの顎を掬い上げると、己の目線に合わせさせた。レイジーナの青みがかった銀色の視線と、燃える業火によってちらちらと光っているルトレギナの金色の視線が、交わって、溶ける。


「死ぬな」


 レイジーナの言葉に、ルトレギナは思いがけず、呼吸を止めた。鼓動までも止まった気がした。

 生まれてこの方、ここまで衝撃を受けた言葉はない――そう、ルトレギナは思った。そして考えた。その言葉の意味は、真意は何なのかと。

 ルトレギナは瞳が零れ落ちんばかりに目を見開き、軽く口を開けて、はくはくと声に成りそこねた息を吐き出す。それでも時間をかけて、ゆっくり声を紡ぎ出した。


「な、にゆえ……そのようなことを、僕に宣う……?」

「そりゃあ」


 ようやく絞り出した、ルトレギナの必死の問いかけ。それにレイジーナは、一切の迷いも躊躇いもなく、間髪を容れずに答えた。


「てめぇが俺の甥だからだ」


 レイジーナがそう言い切った瞬間。

 塔全体が一瞬にして、氷漬けになった。

 舞う雪の白さが、銀に光る氷柱が、きらきらと地を這う霜が、塔を燃やしていた遍く業火を呑み込み、凍てつかせている。


「な……は……?」


 ルトレギナが止めていた呼吸から吐き出された息も、白に染め上げられる。

 驚愕を通り越して、もはや何が何だかわからなくなってきたルトレギナの困惑の声にも構わず。

 レイジーナはルトレギナの顎から手を離すと、ルトレギナを寝台に繋いでいた鉄枷に触れる。すると途端に魔法陣が顕現して、鉄枷は氷細工と化した。レイジーナはそのまま、氷細工の鉄枷を易々と片手で握りつぶして砕く。

 これでルトレギナを閉じ込める牢獄の塔も、ルトレギナを縛る鉄枷も、何もかもが、レイジーナによって凍てつかされ、破壊されてしまった。


「ルトレギナ……あー、呼びにくい。もっと別の……よし」


 レイジーナは何やらぶつぶつと独り言ちて、独りでに納得すると、跪いたままのルトレギナの腕を取って、強い力で引っ張り起こした。


「行くぞ、ルト」


 ルトレギナをそう呼ぶと、レイジーナはルトレギナの手を引いて部屋の外に向かって歩き出す。

 ルトレギナはその背中を見つめ、されるがまま――レイジーナの細い手に引かれるがまま、牢獄の塔を出た。

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