第3話 皇弟レイジーナ
(はや、く……心を整えねばならないというのに。父上の言い付けを守らなければならないと、いうのに。僕は、もう……何も、できる気がしない)
空は既に、夜とも思えるほどの暗さで黒い雲が立ち込めている。雨脚は次第に強くなり、サンローズ大舞台のすぐそばに、幾つもの雷が落ち始めた。雹と雨粒が大地を叩く音と、落雷の音、人々の悲鳴が轟き、天地を揺らすようだった。
(僕は……どうすればいい? 生きていて良いのか? 死なねばならないのか?)
ルトレギナは己に迫ってくる槍の穂先も目に入らず、闇のような分厚い雲に覆われた空を仰いだ。
(誰か、教えてくれ)
キィン、と。
弦楽器の弦が弾かれたような、高い音が鳴り響く。
その音色と共に、ルトレギナが仰いでいた空に、突如として巨大な魔法陣が顕現した。
「……!」
ルトレギナが驚きのあまり瞠目して、目をしばたたかせる。その瞬きの間に、魔法陣からは精緻な幾何学模様で彩られた分厚い氷の丸屋根が生み出され、分厚くも繊細さのある氷細工が、サンローズ大舞台全体をみるみるうちに覆ってゆく。
やがて魔法陣から生み出された氷細工は、氷の城となった。美しくも荘厳な氷の城は途轍もなく頑丈で、ルトレギナが降らせる豪雨どころか落雷さえも、ものともしない。
氷の城の突然の顕現に、気が付けば、サンローズ大舞台に集った全ての人々が驚愕のあまりに沈黙し、氷の城に目を奪われ、呆然と静まり返っていた。
「騒々しい――これじゃあ、つまらねぇ式典にて。おちおち居眠りもできやしねぇ。なァ? 諸君」
不意に。低くも、どこか艶っぽさのある男性の声が、心地よく氷の城の中で響き渡った。
ルトレギナは弾かれたように、声がした方を振り向く。振り向かずには、いられない。そんな、強制的に惹きつけられるような声だった。
その人は、一人の長身の青年従者を伴って、皇族席の末席から現れた。
腰に届くほどに長い、プラチナブロンドの髪。白雪に劣らぬ眩しさの肌。アイスブルーが淡く混じった、涼しげな銀色の瞳。そのかんばせは、樹氷の如き玲瓏さと――傾国の美女とも見紛う、絶世の美しさを迸らせていた。
丁寧に、芸術の如く施された化粧が、その顔立ちの麗しさを更に引き出し、彩っている。
そして何と、その絶世の麗人は――ルトレギナと同じ、〈女王の礼装〉にその身を包んでいた。ルトレギナとは正反対の、純白と白銀を基調としたドレスだった。
おそらく、あの麗人がこの氷の城を創り出した張本人なのだろう。
麗人が片手に持つ、見事な氷の花が散りばめられた装飾の長杖には、いくつかの魔法陣が展開されていた。
麗人は高いヒールと、手に持つ長杖を「カツン、カツン」と小気味よく鳴らしながら、従者を伴ってこちらに近づいてくる。
自然と人混みが分かたれて、麗人たちの歩く道ができた。
「あ、あの御方は……レイジーナ殿下」
「皇弟殿下……!」
「皇弟殿下が式典にいらっしゃっていたとは……何と珍しい」
人々が口々に零す独り言に、ルトレギナはようやく、あの麗人が何者なのかを察した。
塔に居る近衛兵たちの噂話で、少しだけ聞いたことがある。
父、カムヴィ帝の二十も年下の実弟であり。現在の皇室にてたった二人、ルトレギナと同じく〈女王〉の忌み名を持つ〈傾国のもの〉。
ルトレギナの叔父――レイジーナ・ヘリアントス・デックアールヴ。
ルトレギナは初めて、叔父のレイジーナにまみえた。
そうであるはずなのに、何故だろうか。
心がざわつくような、口をついて、叫び出したくなってしまうような。
そんな衝動的な懐かしさのようなものを、ルトレギナはレイジーナへと抱かずにはいられなかった。
「……やっと。見つけられてくれたな」
虫の鳴くような、空耳かと疑ってしまうくらいに小さな独り言がレイジーナから聞こえたかと思えば。いつの間にかルトレギナのすぐ目の前に、レイジーナがわき目もふらず歩み寄って来ていた。
「何だ。大嵐を呼び寄せるからには、癇癪でも起こしたのかと見に来てみれば……泣いてもいねぇじゃねぇか。つまらん」
「は……?」
レイジーナがじろじろとルトレギナの顔を下から覗き込んできて、いきなり不躾な言葉をぶつけてくる。
ルトレギナは困惑のあまり、間の抜けた声を漏らして、眉を顰めた。
しかし、レイジーナはすぐに首を傾げると、柳眉を上げて妖しく笑う。
「ん……否、よく見れば……そうか。は。相変わらず不器用な」
レイジーナはどこか満足そうにひとり頷くと、ルトレギナの肩を片手で軽く叩く。
人に触れられ慣れていないルトレギナは、反射的にびくりと身体を震わせた。
「まあいい。とりあえず、てめぇは下がっていろ。顔色最悪だ。休め」
レイジーナはルトレギナにそう言い付けると、踵を返して、足早に皇族諸侯たちの人混みの中へ戻ってゆく。
「陛下の具合は?」「まずは場を収めるぞ。民の誘導はうちの従者がやる。今いる〈七王笏〉はどこだ」とレイジーナは方々へ指示を飛ばしながら、混乱を極めていたサンローズ大舞台の人々を、迅速に統率し始めた。
ルトレギナはそんなレイジーナの背中を見つめたまま、レイジーナから掛けられた不躾な言葉の数々を思い出す。
(レイジーナ、叔父上……あの人は、いったい……)
しかし、そんなルトレギナの思考はすぐに遮られる。
「ルトレギナ殿下。緊急事態ゆえ、我々の独断にて、只今より殿下の御身を拘束させていただきます」
無機質な男たちの声と共に、ルトレギナは身じろぎをする間もなく、両の腕を後ろ手で拘束される。
はっとして顔を上げると、ルトレギナは黒ずくめの軍服を身に纏った男たちに囲まれていた。男たちの軍服に刺繡された紋章には、見覚えがある。
「! ……黒獅子の紋章。ダンデリオヌス家か」
「左様でございます」
男たちが恭しい仕草で、ルトレギナに頭を垂れる。
ダンデリオヌス家とは、ルトレギナとは腹違いの兄、第一皇子の生母が生まれた一族であり、第一皇子の大きな後ろ盾となる大氏族。カムヴィ帝からの信も厚いとされる一族だ。
ルトレギナは目を細めて、ダンデリオヌス家の者たちを視線だけで見回す。
(……父上を弑そうとしたと、僕を疑っているのか。無理もない……)
ずきりと、また心臓が酷く痛んだ。
ルトレギナは目の奥で、父が己を「怪物」のように見る眼差しが点滅して、奥歯を嚙み締める。今はもう、何かに抗う気力も無かった。
ルトレギナは全身の力を抜いて、ダンデリオヌス家の者たちに小さく頷いて見せる。
「……あいわかった。連れて行け」
「ご理解いただき、心より感謝いたします。それでは参りましょう」
そうしてルトレギナは、ダンデリオヌス家に引き立てられて、またあの牢獄のような塔の上へと連れ戻されたのだった。
塔へと戻ったルトレギナは女王の礼装を着たまま、寝台に寝転がって、高い天井を何ともなしに見上げる。
頭に過るのはやはり、今日初めて会った叔父、レイジーナのことだった。
(あの人……僕の魔力が呼んだ嵐を、ものともしなかった。魔術師なのだろうか)
万人がその身に宿す、神秘の力――魔力。
それを常人には難解な術式に落とし込んで、学問として学び、術として自在に操ることを可能ならしめる者。そういう術者を、魔術師と呼んだ。
ルトレギナは、レイジーナが顕現させた巨大な魔法陣や、荘厳かつ頑丈でありながら精緻な氷の城を思い出す。
(魔術とは、何と美しいものか。だが、それよりも……)
帝都をも呑み込む、まさに傾国の力を振るっていた「怪物」たるルトレギナに、レイジーナは一切恐れることなく近づいてきて、声をかけてくれた。
怪物なんかに、笑いかけてくれた。
そんな嘘のような事実が、脳裏に焼き付いて、離れない。
(レイジーナ叔父上。不思議な人だ。叶う事なら、また……)
ルトレギナの金色の双眸が、瞼に覆い隠されてゆく。
今日は色々なことがありすぎて、疲労が蓄積していたのだろう。酷く、眠たくて堪らなかった。
「また……あなたに、あいたい……」
そんな寝言をぽつりと呟いた後、ルトレギナの意識の糸は、完全に千切れた。




