第17話 半身
◇◇◇
ルトレギナは、夢を見る。
正しくは、己の遥か深奥に隠されていた、記憶の断片。
その記憶の断片を通じて、ルトレギナは――レイジーナになる、夢を見た。
レイジーナは、生まれた時より、誰よりも孤高であり、孤独で在った。
〈傾国女王〉の生まれ変わりだと神託予言されたレイジーナに近づく者は、誰もいない。
父帝にも、母にも、皇族諸侯にも、民にも。
遍く人々に好奇の目で見られ、噂され、何よりも畏れられ、疎まれてきた。
誰かに認められるため、畏れられないために類稀なる魔術の才能を、血反吐を吐きながら花開かせ、人々のために使っても、レイジーナが〈傾国女王〉の生まれ変わりであるというまやかしのような事実は消えず。
レイジーナが何を成そうとも、レイジーナはただひたすらに、人々に畏れられるだけだった。
レイジーナの孤独は、飢えと渇きにも似ていた。
レイジーナは生まれてからずっと、飢えと渇きに蝕まれるような、そういう虚ろさを抱えている。すぐそこに、死を感じている。
この孤独を理解できる者は、きっとこの世界のどこにもいないと、何となくレイジーナは悟っていた。それ故に、レイジーナは自ら孤高であることを選んでいた。
しかし唯一、実兄であるカムヴィ第一皇子は哀れみからか、レイジーナによく接してくれたように思う。それでも、唯一の兄弟であるカムヴィとは二十もの年の差があった。故に、公務の忙しい兄と接する時間はほんの僅かで。
レイジーナが生まれついて持った飢えと渇きが、癒されることはなかった。
だが、それは突如として、この世界に顕現したのだ。
レイジーナの人生を、レイジーナの思想を、レイジーナの魂をも。
レイジーナを形作る全てを、一瞬にしてまったくの別物に生まれ変わらせてしまった――怪物のような、子どもが。
その日、帝都を大嵐が襲った。
大嵐は帝都をも呑み込んでしまう、大蛇の如き洪水を生み出し。豪雨の中でも燃え盛る火事を引き起こす、無数の雷を降らせた。大嵐に怒った山々は土石流を起こし、数多の人命を容易く大地に埋めた。
史上最年少の八歳で〈七王笏〉に就任し、当時十歳でありながら、〈七王笏〉の務めを粛々と果たしていたレイジーナは、大嵐の対応に追われていた。
だが、気が付けばレイジーナは、我を忘れて大嵐の中を走り抜け、大宮殿の外れにある産屋に駆け付ける。
何故かは、わからなかった。
ただ、呼ばれている気がして、居ても立っても居られなかったのだ。
本日は、兄であるカムヴィ皇子の第三子が産まれる予定日である。だが、レイジーナが駆け付けた時には、その第三子が産まれ落ちたはずの産屋は、跡形もなく失われていたのだ。その代わり、産屋があったはずの場所には大穴が開いている。
大穴の周りにはいつの間にか他の〈七王笏〉の面々が勢ぞろいし、穴の中心へと強大な攻撃魔術をいくつも放っていた。しかし、それらは容易く、大穴の中から迸った、巨大な雷によって掻き消される。
大穴の中心に、何かいる。
途方もなく強大で巨大な魔力を迸らせる、何か。
その何かが――己を、呼んでいる。
そんな直感が胸を刺し、レイジーナの身体は無意識に突き動かされていた。
『ジーナ……! 待て、行ってはならぬ! ジーナ!』
己を呼び止める兄、カムヴィ皇子の声が聞こえる。しかし、当時のレイジーナの耳にその声は届かなかった。
レイジーナの鼓膜をひたすらに叩くのは、誰かの呼び声。
こわい――こわい、こわい、こわい。ここは、どこ?
だれか、たすけて。ひとりはこわい。ひとりはいたい。
ひとりにしないで。そばにいて。
さみしいよ――。
そんな泣き声が、レイジーナの心を奪ってやまなかった。
レイジーナは、その気持ちが痛いほどに理解できるのだ。
寂しいのは辛い。孤独は死ぬまでも、死んだ後も恐ろしい。痛い。苦しい。
『さみ、しい……俺もきっと、そうだ……』
レイジーナは、穴の中心に向かって一歩、一歩、歩み寄りながら独り言ちる。
しかし、大穴の中心に近づけば近づくほど、巨大な雷がレイジーナの肉を痺れさせては、焦がすほどに焼き、礫を巻き上げる暴風は、レイジーナの白皙の肌をずたずたに切り裂いてゆく。
それでもレイジーナは、歩みを止めなかった。
ずっと、「さみしい」と泣き続ける呼び声の主に、どうしても逢ってみたかったのだ。
『あ……』
レイジーナは思いがけず、ぽろりと声を零す。
大穴の中心にいたのは、まだこの世に産まれ落ちたばかりの――ほんのちいさな、赤子。
おそらくは、カムヴィ皇子の第三子だ。
赤子は七色の巨大な雷を迸らせ、木々をもなぎ倒す雨風を呼び、ひたすらに泣き叫んでいる。
これは産声ではない。赤子はただ、寂しくて堪らないのだ。
『抱いて、やらねぇと……!』
そんな使命感が口をついて出て、レイジーナは赤子へと駆け寄る。しかし、赤子に触れようとすると、「ばちん!」と雷によって、手を弾き飛ばされてしまった。
レイジーナは何だか意味もなく笑いが込み上げてきて、口元に笑みを滲ませながら、もう一度赤子に手を伸ばす。
『は……何だ、てめぇ。さみしいくせに、触れられるのが怖いのか?』
その声に応えるように、また赤子が雷を降らせて、レイジーナの手を弾く。
レイジーナはそれでも、雷に手を焼かれながら、ようやく赤子に触れ――その身体を、己が腕に抱き上げた。
赤子は、この帝都を滅ぼさんとする災厄を呼び寄せる身でありながら、触れれば壊れてしまいそうなほどに、柔かった。小さかった。か細かった。何よりも――温かかった。
『ふあ……ん、あぁ……?』
ふと、赤子が泣き止んだ。赤子は金色の目をゆるゆると開き、レイジーナを見上げる。
すると、そのふにゃふにゃした小さな顔を、これでもかと綻ばせて、笑った。
途端に、吹き荒れていた雨風や落雷がぴたりと止み、赤子から光の柱が閃光の如く立ち昇った。光の柱はたちまち、分厚い雲を貫いて瞬く間に吹き飛ばし、空に穴が開くように晴れ渡る。
晴天に戻ってきた太陽がこちらを覗き、陽の光が赤子を指し示すように照らし出す。
『ふあ、あー……んむ、あー!』
赤子は、声を上げて笑い、そのあまりにも小さな手で、レイジーナの白い頬に触れてくる。
レイジーナは気が付けば、ぼとぼとと涙の珠を無数に両目から零して、静かに泣いていた。
生まれた時からその肉体に、魂に、心に焼き付いて離れなかった飢えと渇きが、一瞬にして満たされ、癒された。
(こいつ、は……この赤子は……何だ)
レイジーナに笑いかけてくれる。
レイジーナに迷いなく触れてくれる。
レイジーナを必要としてくれる。
この赤子がまるで、己の半身かと錯覚してしまうくらいには。レイジーナが抱いた瞬間、しっくりときたのだ。赤子の肉が、己の肉にぴったりと、心地よく溶け合った気がした。
赤子は、痛いほどにレイジーナの脳を焼く。レイジーナの魂の深奥からとめどなく溢れてくるのは、この赤子への、熱病じみた激情。
レイジーナは無意識に「く、はは」と泣き笑いを零しながら、手を伸ばしてくる赤子の手に、己の手を重ねて、独り言ちる。
『可愛いなァ。てめぇは』
レイジーナは目を伏せて、赤子へと己の顔を近づける。赤子特有の、温くて甘ったるいような匂いがした。
『そうか。てめぇが、俺の甥か――甥をこうも可愛がることができるのは、てめぇが初めてだ』
その時、レイジーナの頭にとある言葉が過った。
レイジーナが伏せていた目を上げると、その赤子に問うように囁きかける。
『俺にはてめぇが、光って見える。ゆえに、てめぇの名は〈光〉――ルト。どうだ?』
『ふあ! むん、あー!』
「光」を意味する言葉を名前にどうだ? と尋ねてみれば、赤子――ルトはまた、満足そうに笑い声を上げた。
レイジーナはくつくつと喉奥で笑って、ルトの頬を撫でる。
『――あァ。ルト』
この感情を、何と言うのだろう。
光の束を閉じ込めたような眩しさ。
熱病の如き苛烈さ。
己の半身だと錯覚してしまうような、危ういまでの心地よさ。
その感情に、レイジーナは名前をつけなかった。
ただ、レイジーナにとっての「甥」は、唯一無二――ルトだけだったのだ。
それから五年の歳月を、レイジーナはルト――国によって忌み名を付け加えられた「ルトレギナ」と共に過ごした。
『おい、うえ……おちうえ!』
『おォ、ルト。俺のことを呼んだのか? なかなかいい声じゃねぇか。なァ?』
『おじうえ、みて! まどのすきまからはやしたおはなでね、はなかんむり、つくった。おじうえに、あげる!』
『ほう。これは最高級の花冠だな。ありがたく頂戴する……乾燥させて、凍らせて。俺の長杖の装飾にするか』
『ぼくのいろ、おじうえとせいはんたいで、いやだなぁ……かみもはだも、おめめのいろも、おじうえとおそろいだったら、よかったのに』
『そうか? 俺から見れば、てめぇは太陽に愛された色をしている。いいじゃねか。俺は気に入ってるんだがなァ』
『ほんとう!?』
『俺がてめぇに嘘なんぞ吐いたことあったかよ』
『ない! ……ありがとお、おじうえ。うれ、しい……!』
『おじうえ……このあいだは、き……きらいだって、いって、ごめんなさい。あれは、うそなんだ……ぼく、ほんとうは、おじうえが……う、あ……』
『ばーか。わかってる。だからんな顔すんじゃねぇよ、ルト。泣くのもいいが、ほら。笑え』
刹那のような五年を経て。
レイジーナはカムヴィ帝の勅命を受け、ルトレギナから引き離されることとなった。
その訳は、レイジーナが同じ〈傾国のもの〉たるルトレギナを懐柔し、皇帝の座を簒奪しようとしている、という根も葉もない噂が、皇族諸侯どころか民間にまで広がったからだ。
レイジーナの悪評だけでなく、幼いうちに怪物たるルトレギナを処分するべきだという世論まで出てきていた。
そこでレイジーナは苦渋の決断を下し、カムヴィ帝からの勅命を受けることにしたのだった。
ルトレギナとの別れ際。
レイジーナは、ぐずってまた嵐を呼ぼうとしているルトレギナを宥め、ルトレギナの背丈に合わせてその場に跪くと、ルトレギナを柔らかく抱きしめる。
『どいつもこいつも、兄上……てめぇの父上まで泣くなと言うが。いいか、ルト。泣きたいときは存分に泣け』
レイジーナはルトレギナの耳元で囁く。
おそらく、ルトレギナはこれから、レイジーナにも隠されるように人知れぬ場所へと幽閉されてしまうだろう。それはレイジーナにとって、酷く耐え難いものだったが、レイジーナは心の内で固く決意する。
今はまだ幼い子どもだが、いつか――ルトレギナが、己の持て余した強大な魔力を操れる、「魔術師」となれる年頃になれば。
必ずや、この子を迎えに行こうと。
必ずや、国によって隠されてしまったルトレギナを、見つけ出すと。
『そうすれば、必ず俺はてめぇのもとに駆け付ける。きっとてめぇを見つけ出せる――いいな。約束だ』




