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霧雨館の第五楽章  作者: うよし
第五章 沈黙する者たち

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第1話 閉ざされた部屋へ

 応接室での整理が終わっても、雨は止まなかった。


 窓の外は黒い霧に沈んでいる。庭も、山道も、崖の輪郭も、もう見えない。ただ雨だけが、硝子を細かく叩き続けていた。


 館が外の世界から切り離されている。


 そう思った。


 けれど、閉ざされていたのは館だけではない。


 音楽室。


 蓮司さんの遺体が見つかった部屋。


 低いラが鳴った部屋。


 金属音がした部屋。


 短い悲鳴が聞こえた部屋。


 そして、僕が押しても開かなかった部屋。


 僕たちは、あの部屋を密室だと思っていた。


 けれど、もうその前提は崩れかけている。


 零時頃の悲鳴は、七年前の録音だった可能性が高い。


 十一時半頃、蓮司さんはまだ生きていた可能性が高い。


 篠原さんはその時、音楽室で蓮司さんと、玲司さんに似た声の人物を見ている。


 その人物が本当に部屋を出たのかは分からない。


 そして、発見時に扉が開かなかった理由も、まだ分かっていない。


 白瀬さんは、応接室の全員を見渡した。


「音楽室を、もう一度確認します」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 音楽室。


 その名前が出るだけで、応接室の空気は重くなる。


 あの部屋には、まだ蓮司さんがいる。動かせないまま、調べきれないまま、事件の形を保っている。


「今度は何を見るんですか」


 玲司さんが尋ねた。


 声は疲れている。けれど、逃げる声ではなかった。


「扉です」


 白瀬さんは答えた。


「扉?」


「はい。あの部屋が本当に閉ざされていたのか。閉ざされていたとして、それは鍵によるものだったのか。それとも、別のものだったのか」


「鍵以外で、扉が開かなくなるんですか」


「なります」


 白瀬さんの声は、静かだった。


「重いものを置く。金具で止める。紐や糸で外から操作する。一定時間だけ開かないようにすることもできます」


「一定時間だけ」


 僕は、その言葉を繰り返した。


 時計の重り。


 黒い糸。


 録音機。


 金属音。


 この館では、いろいろなものが遅れて動く。


 音も、時計も、悲鳴も。


 なら、扉もそうだったのかもしれない。


「僕が押した時だけ、開かなかった」


「その可能性があります」


 白瀬さんは頷いた。


「真柴さんが悲鳴の直後に扉を押した時には開かなかった。けれど、鷺沼さんが鍵を持ってきた時には開いた」


「鍵で開いたんじゃないんですか」


「鍵で開いたように見えました」


 その一言で、胸の奥が少し冷えた。


 あの時のことを思い出す。


 悲鳴。


 廊下。


 冷たい取っ手。


 押しても動かない扉。


 人が集まり、鷺沼が鍵を持ってくる。


 かちゃり。


 そして扉が開いた。


 僕は当然のように、鍵がかかっていたのだと思った。


 でも、白瀬さんはそこを疑っている。


 鍵がかかっていたのではなく、鍵がかかっていたように見えただけかもしれない。


「同行するのは、私と真柴さん、玲司さん、鷺沼さん」


 白瀬さんは言った。


「ほかの方は、応接室に残ってください」


 久世さんが、暖炉のそばで肩をすくめた。


「私はまた留守番ですか」


「はい」


「信用されていないようで」


「信用しています」


 白瀬さんは即答した。


「だから、ここにいてください」


「どういう意味です」


「あなたは、応接室に残る人たちの表情を見るのに向いています」


「なるほど。私は調度品だけでなく、人間の顔色にも値段をつければいいわけだ」


「値段はつけないでください」


 久世さんは小さく笑った。けれど、その笑いにも疲れがあった。


 奏太さんが身を乗り出す。


「あの、僕も行った方が」


「今は残ってください」


 白瀬さんは、彼を見る。


「あなたは十一時頃に音楽室へ入っています。今の現場を見れば、その時の記憶と混ざるかもしれません」


「でも、ピアノのことなら」


「必要になれば呼びます」


 奏太さんは何か言いかけ、やがて小さく頷いた。


 篠原さんは長椅子の上で目を伏せていた。顔色は悪い。けれど、さっきよりは意識がはっきりしている。


「白瀬さん」


 篠原さんが、かすれた声で呼んだ。


「はい」


「あの部屋は、見えるものを信じすぎない方がいいです」


「どういう意味ですか」


「先生は、物の置き方に意味を持たせる人でした」


 篠原さんは、言葉を選ぶようにゆっくり続ける。


「譜面台に何を置くか。時計をどちらへ向けるか。鍵盤の蓋を開けておくか、閉じておくか。そういうことに、異常なほどこだわる人でした」


「遺体の位置にも、意味があるかもしれない」


 篠原さんは、はっきりとは答えなかった。


 ただ、小さく頷いた。


「分かりました」


 白瀬さんは言った。


「覚えておきます」


 静乃さんが、暖炉の火を見ながら口を開いた。


「音楽室の扉を、ただの扉だと思わないことね」


「扉ではないんですか」


 僕が尋ねると、静乃さんは薄く笑った。


「扉よ。でも、宗一郎さんにとっては境界だった」


「境界」


「入る者と、入れない者。知る者と、知らない者。鳴らす者と、聞かされる者。その境目」


 雨音が、言葉の隙間に入り込んでくる。


「宗一郎さんは、あの部屋にいろいろなものを閉じ込めたわ。音も、人も、名前も」


 静乃さんは、火から目を離さなかった。


「だから、あの扉が開かなかったというなら、それにも意味があるのでしょうね」


 白瀬さんは静かに頷いた。


「ありがとうございます」


 僕たちは応接室を出た。


 廊下は薄暗い。壁のランプが揺れている。窓の外では、雨がいっそう強くなっていた。


 床板が小さく鳴る。


 その音が、妙にはっきり耳に残った。


 この廊下を、僕は何度も通っている。


 最初は、第五楽章の手がかりを探すために。


 次は、夜中に人影を追って。


 その次は、悲鳴を聞いて。


 さらに、遺体を確認し、証拠を探すために。


 でも今度は違う。


 今度は、部屋そのものを解くために向かっている。


 音楽室の前に着いた。


 重い木の扉。


 真鍮の取っ手。


 黒ずんだ鍵穴。


 取っ手の近くには、以前見つけた黒い汚れがまだ薄く残っている。


 時計油か、インクか、煤か。


 まだ分からない。


 鷺沼が鍵を取り出した。


 白瀬さんが、手で制する。


「開ける前に、外側を確認します」


「かしこまりました」


 鷺沼は一歩下がった。


 白瀬さんは手袋をつけ、扉に直接触れないようにして観察を始めた。


 取っ手。


 鍵穴。


 扉と枠の隙間。


 蝶番。


 扉の下。


 僕はその順番をメモする。


 音楽室扉外側。


 取っ手付近に黒い汚れ。


 鍵穴周辺に細かな擦れ跡。


 扉下部の埃が乱れている。


「鍵穴に擦れ跡があります」


 白瀬さんが言った。


「事件発見時、鷺沼さんが鍵を差しましたよね」


「はい」


 鷺沼が答える。


「ですが、この擦れ跡はそれだけでは説明しにくい」


「誰かが先に鍵を使った?」


「あるいは、使おうとした」


「開けるために?」


「閉めるためかもしれません」


 僕は顔を上げた。


「閉めるため」


「はい」


 白瀬さんは鍵穴を見つめたまま言った。


「密室を作るには、開ける方法より、閉める方法を考える方が重要です」


 密室。


 それは、犯人がどう逃げたかだけの問題だと思っていた。


 けれど違う。


 どう閉ざしたか。


 いつ閉ざしたか。


 誰に閉ざされていると思わせたか。


 そこまで含めて、密室なのだ。


「真柴さん」


 白瀬さんが言った。


「はい」


「発見時、あなたはこの扉を開けようとしましたね」


「はい」


「どのように動きましたか」


 僕は目を閉じて思い出す。


 冷たい取っ手。


 焦り。


 悲鳴の余韻。


 何度も押した扉。


「ほとんど動きませんでした」


「少しは動きましたか」


「いいえ。押しても、びくともしない感じでした」


「鍵がかかっている感触でしたか」


「そう思いました」


「思った、ですね」


「はい」


 僕は頷いた。


「実際に鍵がかかっていたかどうかは、分かりません」


「よい整理です」


 白瀬さんは、扉の下の隙間を見た。


「扉が動かなかった理由は、鍵だけとは限りません」


「何かで押さえられていた?」


「その可能性があります」


「でも、後で開いた」


「押さえていたものが外れていれば、開きます」


「時間差で?」


「はい」


 また時間差だ。


 この事件は、いつも遅れて動く。


 低いラが鳴り、遅れて金属音が聞こえる。


 七年前の悲鳴が、今夜の悲鳴のように再生される。


 十一時十七分が、十一時二十分に書き換えられる。


 扉もまた、開かない時間と開く時間を作られていたのかもしれない。


「開けます」


 白瀬さんが言った。


 鷺沼が鍵を差し込む。


 かちゃり。


 錠が回る音。


 扉がゆっくりと開いた。


 音楽室の空気が、廊下へ流れ出す。


 古い木。


 湿った布。


 金属。


 そして、薄い血の匂い。


 僕は息を止めた。


 何度見ても、慣れるものではない。


 グランドピアノのそばに、蓮司さんの遺体がある。


 右手には割れた懐中時計。


 譜面台には、現場に置かれた第五楽章。


 自動演奏ピアノ。


 壊された時計ケース。


 低いラの鍵盤。


 黒い糸。


 あの部屋は、まだ事件の形で沈黙していた。


「まず、入らずに見ます」


 白瀬さんが言った。


 僕たちは入口に立ったまま、部屋を見た。


 扉から見えるもの。


 見えないもの。


 見せられているもの。


 隠されているもの。


「真柴さん」


「はい」


「この扉を開けた時、最初に何が見えますか」


 僕は部屋を見る。


「グランドピアノ」


「はい」


「譜面台」


「はい」


「蓮司さんの遺体」


「はい」


「割れた懐中時計も見えます」


「自動演奏ピアノは?」


「奥なので、少し見えにくいです」


「録音機は?」


「見えません」


「凶器は?」


「見えません」


「扉の仕掛けは?」


「見えません」


 白瀬さんは頷いた。


「この部屋は、発見者に見せるものを選んでいます」


「誰かが、そういう配置にした」


「はい」


「見せたいものは、遺体、第五楽章、割れた懐中時計」


「そして、閉ざされた扉」


「見せたくないものは、凶器、録音機、黒い糸、扉の仕掛け」


「はい」


 僕はメモした。


 発見時に見せられたもの。


 遺体。


 現場の第五楽章。


 割れた懐中時計。


 閉ざされた扉。


 隠されていたもの。


 凶器。


 録音機。


 黒い糸。


 扉の仕掛け。


「密室は、見せたいものを強くするための額縁です」


 白瀬さんが言った。


「額縁」


「はい。中にあるものを、そう見てほしい形で囲む」


「蓮司さんは、零時頃に密室の中で死んだ」


「そう見せるために」


「でも、本当はそうとは限らない」


「はい」


 白瀬さんは、ゆっくり音楽室へ足を踏み入れた。


「足元に注意してください」


「はい」


 僕と玲司さんも続く。


 鷺沼は扉の近くに控えた。


 白瀬さんは、まず扉の内側を確認した。


 内側の取っ手。


 鍵のつまみ。


 扉の下。


 床の埃。


 彼女はしゃがみ込み、扉の下の床を指さした。


「ここを見てください」


 僕は近づきすぎないように覗き込む。


 扉の内側、床の上に細い線が残っていた。


 糸か、細い鎖か。


 何かを引いたような跡だった。


「扉の下から外へ?」


「可能性があります」


「外から何かを引いた」


「あるいは、中から外へ引かせた」


 僕はメモする。


 扉内側の床に細い擦れ跡。


 糸または細い鎖を通した可能性。


 扉下から外側へ操作した可能性。


 白瀬さんは、その横を指した。


「ここには、重いものが置かれていた跡があります」


「重いもの?」


「小さな金具か、ストッパーのようなものかもしれません」


「扉を押さえるための」


「はい」


 僕は、発見時の感触を思い出した。


 びくともしない扉。


 もし内側に何かが噛ませてあったなら、扉は開かない。


 けれど、その何かが時間差で外れたなら。


 鷺沼が鍵を持ってきた時には、もう開く状態になっていたのかもしれない。


「でも、そのストッパーは今ありません」


「はい。外れたか、動かされたか、回収されたか」


「犯人が回収した?」


「戻ってこなければ難しいです。ただ、仕掛けで部屋の内側へ転がすことはできるかもしれません」


「どこに」


「探します」


 白瀬さんは床を見ながら、扉からグランドピアノの方へ進んだ。


 僕も視線を落とす。


 床板の隙間。


 黒い糸の切れ端。


 小さな金属片。


 ピアノの脚の影。


「あ」


 僕は声を上げた。


「何かあります」


 グランドピアノの脚の近く。


 黒い影の中に、小さな金具のようなものが落ちていた。


 白瀬さんがランプを近づける。


 それは、薄い金属のくさびのようなものだった。


 片側に、黒い糸の切れ端が結ばれている。


「扉を押さえるためのくさびでしょうか」


「可能性が高いです」


 白瀬さんは、触れずに観察した。


「扉の下に差し込めば、簡単には開かなくなる。糸で引けば、外すこともできる」


「発見時、僕が押した時には、このくさびが扉を押さえていた」


「はい」


「その後、糸が引かれて外れた」


「または、時間差で外れるように仕掛けられていた」


「そして、ピアノの脚の近くまで転がった」


「そう考えられます」


 僕は急いで書いた。


 ピアノ脚近くに小さな金属くさび。


 黒い糸の切れ端あり。


 扉を内側から押さえていた可能性。


 時間差で外れ、扉が開く状態になった可能性。


 玲司さんが、低い声で言った。


「では、兄は本当の密室で死んだわけではない」


「少なくとも、発見時に見えた形の密室ではありません」


 白瀬さんは答えた。


「犯人は扉から出られた」


「その可能性が高くなりました」


 玲司さんは、蓮司さんの遺体を見た。


 何か言おうとして、言葉を飲み込む。


 白瀬さんは、次に低いラの鍵盤へ向かった。


 グランドピアノの低音側。


 夕方、白瀬さんが鳴らした低いラ。


 奏太さんが十一時頃に押した低いラ。


 夜中に鳴った低いラ。


 何度も事件の中心に現れる音。


 鍵盤の奥には、黒い糸が結ばれている。


 その糸はピアノ内部へ伸び、さらに床の方へ落ちていた。


「この糸は、音を鳴らすだけではないかもしれません」


 白瀬さんが言った。


「扉のくさびにも関係している?」


「可能性があります」


 彼女はピアノの下を覗き込んだ。


「床板の隙間を通っています」


 僕も見た。


 黒い糸が、床板の細い隙間に消えている。


 方向は、扉の方だった。


「低いラの仕掛けと、扉のくさびがつながっている」


「はい」


「低いラが鳴ると、くさびも外れる?」


「順番はまだ分かりません」


「逆かもしれない?」


「はい。くさびが外れる動きで低いラが鳴った可能性もあります」


 僕はメモした。


 低いラの黒い糸は床板の隙間を通り、扉方向へ伸びている。


 低いラと扉のくさびが連動していた可能性。


 白瀬さんは、時計の重りへ視線を向けた。


 古い振り子時計。


 重り。


 黒い糸。


 この部屋では、時計の重りが何かを引くために使われていた。


「重りが下がる」


 白瀬さんが呟いた。


「糸が引かれる」


 僕が続ける。


「低いラが鳴る」


「録音機が再生される」


「扉のくさびが外れる」


 僕は、自分で言って背筋が冷たくなった。


 僕が扉を押した時だけ、密室は存在していた。


 僕が人を呼び、鷺沼が鍵を持ってくるまでの間に、密室は自動的に解除された。


 僕たちは、解除された後の扉を、鍵で開けたと思い込んだ。


「真柴さん」


 白瀬さんが言った。


「はい」


「今の仮説は、かなり有力です」


「では、零時の密室は」


「時間差で作られた見せかけです」


 玲司さんが、かすれた声で言った。


「兄は、僕たちが思っていたような密室で死んだのではなかった」


「はい」


「悲鳴も、録音」


「その可能性が高いです」


「扉も、見せかけ」


「はい」


「十一時二十分も、見せかけ」


「はい」


 玲司さんは、痛みに耐えるように目を閉じた。


「どれだけ嘘を重ねれば気が済むんだ」


 その声は、誰に向けられたものでもなかった。


 宗一郎へか。


 犯人へか。


 それとも、この館そのものへか。


 白瀬さんは答えなかった。


 彼女は自動演奏ピアノへ向かった。


 底板に隠された録音機。


 再生つまみ。


 黒い糸。


 そして、もう一本の細い茶色の糸。


「ここにも糸が二本あります」


「黒い糸と、茶色い糸ですね」


「はい」


「黒い糸は録音機を再生するため」


「その可能性が高いです」


「茶色い糸は?」


「床下へ伸びています」


「扉の方ですか」


「はい」


 僕はメモ帳に、簡単な図を描いた。


 時計の重り。


 低いラ。


 録音機。


 扉のくさび。


 それらをつなぐ糸。


 仕掛けの正確な形は、まだ分からない。


 でも、事件の流れは見えてきた。


 低いラが鳴る。


 金属音が聞こえる。


 録音機が悲鳴を再生する。


 その間、扉はくさびで開かない。


 少し遅れて、くさびが外れる。


 犯人がいないのに、扉は開く状態になる。


 発見者は、密室だと思い込む。


「これで、零時頃に犯人が音楽室内にいる必要はなくなります」


 白瀬さんが言った。


「つまり、殺害はもっと前」


「十一時半以降、零時以前の可能性が高くなります」


「篠原さんが出た後」


「はい」


「正体不明の人物が残っていた可能性がある」


「そこが重要です」


 白瀬さんは、扉の方を見た。


「篠原さんは、相手が扉の方へ動いたと言いました。しかし、出たところは見ていません」


「その人物が部屋に残り、蓮司さんを刺した」


「可能性があります」


「その後、扉から出て、内側にくさびを仕掛けた?」


「はい」


「内側のくさびをどうやって仕掛けて出るんですか」


「くさびを置いてから、糸を扉の下に通し、外へ出る。外から糸を調整すれば、扉を押さえた状態にできます」


「そして、時間差で外れるようにする」


「はい」


「犯人は、普通に扉から出ていた」


「おそらく」


 僕は大きく書いた。


 密室の解体。


 犯人は扉から出た可能性が高い。


 扉が開かなかった理由は、鍵ではなく内側の金属くさび。


 くさびは糸で時間差解除された可能性。


 零時の悲鳴と扉の密室は、犯人不在でも成立する。


 白瀬さんは、次に窓へ向かった。


 重いカーテンを開ける。


 雨に濡れた窓硝子。


 外は霧。


 内側の掛け金は閉まっている。


 白瀬さんは、窓枠と床を確認した。


「窓からの出入りは、可能性が低いです」


「なぜですか」


「掛け金が内側で閉まっています。糸で閉めた痕跡も見えません。床や窓枠の濡れ方にも、大きな乱れはありません」


「外の足跡は、雨で消えているかもしれません」


「それはあります。ですが、この部屋の仕掛けを見る限り、犯人が窓を使う必要は薄い」


「扉から出られるから」


「はい」


 玲司さんは、扉を見つめていた。


「そんな単純なことだったんですか」


「単純ではありません」


 白瀬さんは言った。


「扉から出ること自体は単純です。ですが、扉から出たことを隠すために、音と時間と人の思い込みが使われています」


「思い込み」


「真柴さんは、悲鳴を聞いた直後に扉が開かなかった。だから、中で殺人が起きた直後だと思った」


「はい」


「鷺沼さんが鍵を持ってきて扉が開いた。だから、鍵が密室を開いたと思った」


「はい」


「遺体と第五楽章と割れた時計が見えた。だから、十一時二十分の密室殺人だと思った」


「はい」


「それらはすべて、見せられた順番です」


 見せられた順番。


 低いラ。


 金属音。


 悲鳴。


 開かない扉。


 鍵。


 遺体。


 第五楽章。


 割れた懐中時計。


 僕たちは、その順番で事件を受け取った。


 だから、その順番の通りに意味づけてしまった。


「犯人は、僕たちの理解する順番まで仕組んだ」


 僕が言うと、白瀬さんは静かに頷いた。


「はい」


 部屋の中央に立つと、音楽室が少し違って見えた。


 死体のある部屋ではなく、舞台装置のようだった。


 美しい舞台ではない。


 誰かを騙すために作られた、暗い機械だ。


「では」


 玲司さんが言った。


「兄は、いつ殺されたんですか」


 白瀬さんは、蓮司さんの遺体を見た。


 すぐには答えなかった。


「今の段階で言えるのは、十一時半以降、零時より前の可能性が高いということです」


「零時より前」


「はい」


「なぜ」


「零時の音は、犯人不在でも鳴らせるからです。そして、零時の悲鳴は録音の可能性が高い」


「では、零時に兄はもう死んでいた」


「その可能性が高いです」


 玲司さんは、両手を強く握った。


「その時、僕は」


 そこで言葉を切る。


 白瀬さんは、彼を見た。


「玲司さん」


「はい」


「あなたのアリバイは、次に確認します」


 玲司さんは、苦しそうに笑った。


「やはり、そこへ行くんですね」


「はい」


「分かっています」


 彼は、蓮司さんの遺体から目を離さなかった。


「僕は兄を殺していません」


「その言葉は、記録しています」


「でも、証明が必要」


「はい」


 白瀬さんは、扉、低いラの鍵盤、録音機、時計の重りを順に見た。


「密室の形は、かなり解けました」


「次は?」


 僕が尋ねる。


「仕掛けの順番を、さらに正確に並べます」


「低いラ、金属音、悲鳴、くさび」


「はい」


「それが分かれば、犯人の動きも分かる?」


「近づきます」


 白瀬さんは、静かに言った。


「この部屋は、嘘をつきません。ただ、私たちが読み方を間違えていただけです」


 僕はメモ帳を閉じかけて、もう一度開いた。


 まだ書くべきことがある。


 密室は、閉ざされた部屋ではなかった。


 閉ざされた思い込みだった。


 そして、その思い込みを解いた先に、ようやく本当の殺害時間が見えてくる。


 雨は、まだ窓を叩いている。


 低いラの鍵盤は沈黙している。


 けれど、その音は僕の耳の奥に残っていた。


 ぽん。


 低く、暗いラの音。


 それはもう、死の合図ではない。


 密室という嘘を動かす、最初の歯車だった。

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