第5話 祖父のノートには、破られたページがある
赤潮から一夜明けても、潮凪の海はまだ少し赤かった。
朝の光を受けた湾の端に、薄い茶色の膜が残っている。遠くから見れば穏やかな海だ。だが昨日、その下で何匹もの魚が浮いた。
屋上の手すりに手を置き、蒼真は海を見下ろした。
「見た目だけじゃ、分かりませんね」
隣の七瀬凛が言った。
「はい。きれいに見えても、中では変化が続いている」
「前館長も同じことを言っていました。見た目だけで決めるな。測れ。待て。毎日見ろって」
祖父の言葉は、職員の中にも、水槽の管理にも、この建物そのものにも残っている。
午前十時、市役所で緊急協議が開かれた。観光課、財政課、環境課、銀行、観光協会。漁協からは黒潮ミナトも来ていた。
蒼真の前には、夜通しまとめた赤潮対応資料がある。水質データ、採水地点、取水制限記録、漁協の餌止めと酸素供給、被害の差。
財政課長は眼鏡を押し上げた。
「赤潮対応は評価します。しかし、水族館の経営問題とは分けて考える必要があります」
当然の指摘だった。赤潮を一度防いだからといって、借金も老朽化も消えない。
「おっしゃる通りです」
蒼真が認めると、会議室の空気が少し揺れた。
「現状のまま続けるのは無理です。ですが、昨日の件で分かったことがあります。この水族館は、単なる観光施設ではありません。潮凪沿岸の異変を早期に捉える観測点です」
銀行の担当者が眉を寄せる。
「観測点として価値があるなら、大学か研究機関へ移管すればよいのでは?」
「水族館だから意味があります」
蒼真は言った。
「観測だけなら研究施設でできます。でも、ここは市民に伝える場所です。昨日、子どもたちは赤潮を水槽の魚の呼吸から学び、漁師さんたちはデータを共有しました。海の変化を、研究者だけの情報にしない。それがこの場所の価値です」
観光協会の会長が腕を組む。
「いい話だが、客が来なければ維持できん」
「来館者を増やします」
会議室が静かになった。
「一ヶ月で、来館者数を二倍にします」
隣の凛が、こちらを見た。聞いていない、という目だった。
「できなければ?」
財政課長が問う。
「半年後の閉館協議に応じます」
重い沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのはミナトだった。
「漁協は半年の猶予に賛成する。昨日、水族館が先に動かなければ、もっと魚が死んでいた」
環境課も、長期観測記録の価値を認めた。白石も頷いた。
最終的に、即時閉館は保留となった。ただし半年。一ヶ月後に来館者二倍の中間報告。それが条件だった。
市役所の廊下で、凛は足を止めた。
「水瀬さん。一ヶ月で二倍って、何ですか」
静かな声だった。怒っている。
「すみません。事前に相談すべきでした」
「相談すべきでした、じゃないです。現場の負担は? 職員の人数は? 生き物たちへの影響は? お客さんを増やすって、入口を開けて待つだけじゃないんですよ」
蒼真は頭を下げた。
「この水族館を教えてください。俺はまだ、何も分かっていません」
凛は長く黙った。
「本当に、現場の言うことを聞きますか」
「聞きます」
「生き物を客寄せの道具にしませんか」
「しません」
「暴走したら止めます」
「お願いします」
その日の閉館後、蒼真は大水槽の前に立った。
「半年の猶予は取れた。一ヶ月で来館者二倍だ」
――人間は、数を増やさねば守れんのか。
「少なくとも、金がないと水槽は維持できない」
――来ぬ人間は、聞かぬ。
「来てもらわないと、伝えられない」
そのとき、背後のイルカプールから明るい声が飛んだ。
――お客さん増やしたいの? じゃあ、あのつまんないショー、やめたら?
蒼真は振り向いた。
水面から顔を出していたのは、イルカのルカだった。
――僕、かわいいだけじゃないからね。
赤潮、地下室、閉館危機。そのすべてが重いまま、来館者二倍への最初のヒントは、イルカ本人からの辛口なダメ出しだった。
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