第4話 赤く染まる海で、館長は走る
毎日1話投稿。頑張ります。
夜明け前の水族館は、まだ眠っているように見えた。
正面入口のガラス扉には、薄い闇が張りついている。駐車場には職員の車が二台だけ。潮風に揺れる旗も、青白い街灯の下で力なく垂れていた。
けれど、館内だけは違った。
バックヤードでは、すでに人が動いている。
「大水槽、取水停止継続。循環は内部系に切り替わっています!」
「クラゲ水槽、酸素量確認しました。今のところ問題なしです」
「ペンギン舎、餌は通常分を半量にします。様子を見ながら調整します」
職員たちの声が飛び交う。
古い施設だ。最新の設備があるわけではない。自動で全部を制御してくれるような賢いシステムもない。
だからこそ、人が見て、人が動かなければならない。
蒼真は大水槽の裏側で、バインダーを片手に数値を確認していた。
水温、塩分濃度、pH、溶存酸素、濾過装置の圧力、非常用電源の残量。
ひとつひとつ、声に出して確認する。
「大水槽、溶存酸素は?」
「七・一。まだ余裕あります」
「pHは?」
「八・〇二。昨日より少し下がっています」
「記録してください。三十分ごとに取りましょう」
「はい!」
返事をした若い飼育員の声は震えていた。
無理もない。
蒼真自身も、手のひらに汗をかいている。
赤潮という言葉は、簡単だ。けれど実際には、海の中で無数の生き物が苦しむ。養殖魚が浮き、漁師の生活が削られ、水族館の水槽にも影響が出る。
そして今回は、蒼真が予測した。
いや、違う。
アオが聞かせてくれた。アジが悲鳴を上げた。祖父の記録が、それを裏づけた。
「水瀬さん」
背後から七瀬凛の声がした。
振り向くと、凛が小型の水質計と採水ボトルを抱えて立っていた。目の下には疲れがある。だが、視線はまっすぐだった。
「湾奥の水、ミナトさんが持ってきてくれるそうです。こっちでも測れるように準備しておきます」
「ありがとうございます。凛さんは少し休んでください。昨日からほとんど寝てないでしょう」
「それは水瀬さんも同じです」
「俺は昨日から館長になったばかりなので、まだ替えが利きます」
「そういう冗談、疲れてる人が言うやつです」
凛はそう言いながら、採水ボトルを作業台に並べた。
蒼真は小さく息を吐いた。
「……正直、怖いです」
凛の手が止まる。
「自分の予測が当たるのが?」
「はい。外れたら外れたで困る。でも当たったら、魚が死ぬ。被害が出る。なのに俺は、それを記録しなきゃいけない」
言葉にすると、胸の奥が重くなった。
研究室では、データはデータだった。画面上の波形。表の数値。統計的な有意差。
だが今は違う。
水槽の向こうに生き物がいる。港に漁師がいる。いけすに魚がいる。そして、その全部に生活と命が結びついている。
凛は、少しだけ黙ってから言った。
「前館長も、同じことを言っていました」
「祖父が?」
「はい。予測が当たって喜ぶ研究者にはなるな、って」
蒼真は顔を上げた。
凛は、大水槽の方を見た。
「当たったときは、誰かが困ってるときだ。だから、喜ぶな。でも、外れることを願いながら備えろ。館長はそう言っていました」
祖父らしい言葉だった。
蒼真はバインダーを握り直した。
「……外れることを願いながら備える、か」
そのとき、館内の電話が鳴った。
事務室にいた職員が声を上げる。
「黒潮さんからです!」
蒼真は受話器を受け取った。
「水瀬です」
『港に着いた。水、持ってきたぞ』
ミナトの声の向こうで、風とエンジン音が唸っている。
「海の色は?」
一瞬、沈黙があった。
『赤い』
その一言だけで、館内の空気が変わった。
『湾奥から帯みたいに広がってる。まだ全部じゃないが、明るくなってきたらはっきり見える。いけす二つで被害が出た』
蒼真は目を閉じた。
当たってしまった。
「魚は?」
『全部じゃない。昨日のうちに餌止めして酸素を回したところは、まだ持ってる。あんたが言ってなかったら、もっとひどかった』
もっとひどかった。
その言葉だけを、蒼真は必死に受け取った。
「すぐ測ります。水をこちらへ」
『もう職員に渡した。あと、漁協の連中が何人か来る。説明してくれ』
「分かりました」
電話を切る。
数秒だけ、手が動かなかった。
凛が、静かに言う。
「水瀬さん」
「はい」
「今は落ち込む時間じゃありません」
蒼真は目を開けた。
「そうですね」
外れることを願いながら備える。当たったなら、被害を減らすために動く。
それだけだ。
採水ボトルの中の水は、薄く赤茶色に濁っていた。
見た瞬間、職員の一人が息を呑んだ。
「これが……」
「赤潮の可能性が高いです。ただし、原因種の特定は顕微鏡で確認してからです」
蒼真は手早くサンプルを分けた。
水質計で数値を取る。顕微鏡用のプレパラートを作る。写真を撮る。時刻と採水場所を記録する。
手順を追うことで、心が少しずつ落ち着いていった。
「凛さん、顕微鏡お願いします」
「はい」
凛がレンズを覗く。
「……います。かなり多いです。形状から見ると、渦鞭毛藻類の一種だと思います」
「写真を撮ってください。白石さんにも共有します」
「了解です」
事務室の扉が開き、白石が駆け込んできた。市役所観光課の職員で、祖父の訃報を伝えてきた女性だ。スーツの上に慌てて羽織ったらしい上着の襟が曲がっている。
「水瀬さん、状況は」
「湾奥で赤潮が発生しています。水族館は昨夜から取水を制限していたので、今のところ大水槽に重大な影響は出ていません。ただ、長引くと厳しいです」
「市として何をすればいいですか」
「まず漁協、環境課、保健所との情報共有。一般向けには、海に近づく際の注意と、原因が確定するまで憶測で騒がないことを伝えてください」
白石はすぐにメモを取った。
「水族館としては?」
「今日は開館します」
凛が驚いたように蒼真を見る。
「開けるんですか?」
「閉める理由があるなら閉めます。でも、今は館内の生体は安定しています。むしろ、赤潮を隠さず説明した方がいい」
「お客さんが不安がるかもしれません」
「だから説明します。怖がらせず、誤魔化さず」
蒼真は大水槽の方を見た。
「水族館は、きれいな海だけを見せる場所じゃない。隣の海で何が起きているかを伝える場所でもあるはずです」
凛は少しだけ目を見開いた。それから、口元を緩めた。
「前館長みたいなことを言いますね」
「それ、褒めてますか」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「頑固そう、という意味です」
そこへ、漁協の男たちが数人入ってきた。
先頭にいるミナトは、昨日よりもずっと険しい顔をしていた。長靴には赤茶色の水が跳ねている。
「水瀬」
「ミナトさん。被害は」
「湾奥の一部で浮いた。だが、昨日の連絡で酸素を回したところは持ってる。餌止めも効いたかもしれん」
ミナトは周囲の職員を見た。
「助かったやつもいる」
その一言で、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
完全に救えたわけではない。魚は死んだ。被害は出た。
それでも、全部ではなかった。
「説明してくれ」
ミナトが言う。
「昨日、どうして分かった」
蒼真は一瞬だけ、言葉を選んだ。
ウミガメが予言しました。アジが悲鳴を上げました。
そう言えば、話はそこで終わる。
「複数の前兆が重なっていました」
蒼真はホワイトボードに書き始めた。
水温上昇。雨後の栄養塩増加。南東風。湾内滞留。溶存酸素低下。活魚水槽の行動異常。
「赤潮は、色が見えてから始まるわけではありません。海水中ではその前から変化が起きています。昨日、漁協の活魚水槽でアジの呼吸が速く、群れが崩れていました。水質も変化していた。だから、湾奥でも同じことが起きている可能性があると判断しました」
漁師の一人が腕を組む。
「魚を見て分かったってことか」
「はい。魚とデータ、両方です」
ミナトが鼻を鳴らした。
「海一郎さんと同じだな」
蒼真は顔を上げた。
「祖父も、そんな感じでしたか」
「あの爺さんはよく言ってたよ。機械だけ見るな、魚を見ろ。魚だけ見るな、数字も見ろってな」
胸の奥が、少し熱くなった。
祖父は確かに、ここにいた。
午前九時。
潮凪シーライフパークは通常通り開館した。
ただし、入口には新しい掲示を出した。
本日、潮凪湾の一部で赤潮が確認されています。
当館では取水制限と水質管理を行い、生き物の安全確認を継続しています。
館内では、赤潮の仕組みと海の変化について説明展示を行います。
最初に入ってきた親子連れは、掲示を見て不安そうな顔をした。
小さな男の子が母親の手を握る。
「お魚、死んじゃうの?」
蒼真はしゃがんで、男の子と目線を合わせた。
「苦しくなる魚もいる。だから今、水族館の人たちと漁師さんたちで、少しでも助ける準備をしてる」
「ここの魚は大丈夫?」
「今は大丈夫。でも、ずっとよく見てる」
男の子は大水槽を見上げた。
「このカメも?」
大水槽の中央で、アオがゆっくり泳いでいた。
「アオも、水の小さな変化に気づくことがあります」
「すごい」
男の子が目を丸くする。
「カメって、海の先生なんだ」
蒼真は少し笑った。
「そうかもしれない」
その日の館内は、いつもより客が少し多かった。
赤潮の噂を聞いて来た人もいた。心配で様子を見に来た地元の人もいた。漁協関係者の家族もいた。
蒼真と凛は、急ごしらえの解説コーナーを作った。
赤潮とは何か。どうして起こるのか。魚はなぜ苦しくなるのか。水族館では何をしているのか。漁協では何をしているのか。
凛は、水槽の前で子どもたちに説明した。
「魚は言葉で『苦しい』とは言えません。でも、泳ぎ方や呼吸、餌の食べ方で教えてくれます。だから毎日見ることが大事なんです」
子どもの一人が言った。
「じゃあ、水族館の人は魚の通訳?」
凛は一瞬、蒼真を見た。
蒼真は、答えを促すように頷いた。
凛は笑った。
「そうですね。水族館は、海の通訳なのかもしれません」
その言葉に、大水槽のアオがゆっくりまばたきをした。
――悪くない。
声が響いた。
蒼真は思わず口元を押さえた。
「何か?」
凛が聞く。
「いえ。アオに褒められた気がしました」
「それは珍しいですね」
「珍しいんですか」
「前館長がよく言ってました。アオは褒め方が渋いって」
蒼真は、大水槽の奥を泳ぐアオを見た。
祖父も、こうして聞いていたのだろうか。
声としてではなく、仕草として。言葉としてではなく、違和感として。
昼過ぎ、赤潮は湾奥から少しずつ広がった。
水族館の取水制限は継続。職員たちは交代で水質を測り、濾過装置の様子を見た。
大きな被害は出ていない。
だが、油断はできない。
午後三時。
漁協から、追加の連絡が入った。
『餌止めしたところは持ち直し始めた。酸素も効いてる。被害は出たが、最悪ではない』
ミナトの声には、疲れと安堵が混じっていた。
「よかった」
『よくはねえよ。だが、助かった分もある』
「はい」
『水瀬』
「何ですか」
『昨日は疑って悪かったな』
蒼真は少し黙った。
「疑うのが普通です。俺でも疑います」
『だろうな』
ミナトは短く笑った。
『ただ、次からは早めに言え。信じるかどうかは別として、聞く』
聞く。
ただそれだけのことが、こんなに重い。
「ありがとうございます」
電話を切ると、凛が近くに立っていた。
「味方が増えましたね」
「まだ味方というほどでは」
「聞いてくれる人は、味方候補です」
「なるほど」
「水族館も同じです。来てくれた人が、いきなりファンになるとは限りません。でも、聞いてくれたら次があります」
蒼真は館内を見回した。
赤潮の解説コーナーの前に、地元の人たちが集まっている。子どもが水槽を覗き込んでいる。職員が真剣に説明している。漁師が腕を組んで聞いている。
まだ潰れかけの水族館だ。客も少ない。設備も古い。借金もある。閉館協議も消えていない。
それでも今日、この場所は確かに必要とされていた。
閉館後。
蒼真は、赤潮対応の記録をまとめた。
発生時刻、推定原因、水族館の対応、漁協の対応、被害の差、今後の課題。
記録を取る手は重かった。
助かった魚がいる一方で、死んだ魚もいる。その事実を、数値にしなければならない。
事務室の外では、職員たちが疲れ切った顔で片づけをしていた。
凛が紙コップのコーヒーを持ってきた。
「お疲れさまです、館長」
「その呼び方、定着させるつもりですか」
「もう定着してますよ」
蒼真は苦笑して、コーヒーを受け取った。
そのとき、館長室の机に置いていた祖父のノートが目に入った。
開いたページには、二十一年前の記録がある。
大規模赤潮。
守屋来訪。
生物音響データに興味を示す。
渡すべきではなかったか。
蒼真の指が止まった。
「水瀬さん?」
「祖父は、二十一年前にも赤潮を記録していたんです」
「前にも?」
「はい。そして、そのとき守屋が来ている」
凛の表情が変わる。
「守屋教授って、水瀬さんの研究を……」
「奪った人です」
蒼真は、地下室で見つけたファイルを机に置いた。
守屋共同調査資料。
「祖父と守屋は、二十一年前に潮凪沖で共同調査をしていた。祖父はその後悔をノートに残している。でも、肝心のページが破られている」
「誰が破ったんでしょう」
「分かりません」
だが、嫌な予感はあった。
守屋が奪ったのは、自分の研究だけではないのかもしれない。
祖父の海も。潮凪の記録も。生き物たちの声も。
そのとき、地下室から警告音が鳴った。
短く、古びた電子音。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
蒼真と凛は顔を見合わせた。
「サーバー?」
「行きましょう」
地下二階へ降りる。
鉄扉を開けると、サーバーラックのモニターが点灯していた。
画面には、新しい波形。
昨夜と同じ低周波異常音。
だが、場所が少し違う。
潮凪沖合十七キロ。
異常音源、湾入口方向へ移動。
凛が息を呑む。
「近づいてる……?」
蒼真はキーボードに触れ、ログを拡大した。
金属が海底を削るような音。規則的な振動。人工的な低周波。
その奥で、また声がした。
――底は、まだ明るい。
クロの声だった。
――眠る場所が、逃げてくる。
意味は分からない。
だが、危機感だけは伝わった。
「赤潮だけじゃない」
蒼真は呟いた。
「海底で何かが動いている」
凛が、モニターの光に照らされた顔で言った。
「守屋教授と関係があるんでしょうか」
「まだ分かりません」
蒼真は、今日の赤潮記録ファイルの横に、新しいフォルダを作った。
沖合十七キロ異常音。
「でも、調べます」
声を、証拠に変える。
祖父が残した言葉は、もう呪いのように胸に根を張っていた。
いや、違う。
これは呪いではない。
たぶん、仕事だ。
蒼真はモニターの波形を見つめた。
水族館の本当の仕事は、展示でも集客でもないのかもしれない。
海の変化を、誰より先に聞くこと。聞こえない声を、聞こうとすること。そして、それを誰かが動ける形に変えること。
地下室の機械音が、静かに唸っている。
その向こうで、海底を削る音が鳴っていた。
ごり……。
ごり……。
潮凪の海は、赤く染まったばかりだった。
だが、本当に腐り始めているのは、もっと深い場所なのかもしれない。
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