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潰れかけ水族館を継いだ俺だけが、生き物の声を聞ける件 〜「水が苦い」と呟くウミガメの予言を信じたら、研究を奪った教授を破滅させました〜  作者: 烏賊亀


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第3話 祖父の地下室と、海底を削る音

夜の水族館は、昼間よりも広く感じる。

客の足音が消え、子どもの声が消え、売店のレジ音も、館内放送もない。残るのは、水の揺れる音と、ポンプの低い唸りだけだ。

蒼真は、祖父の鍵を握りしめて廊下を進んだ。

前を歩く七瀬凛の懐中電灯が、床に細い光を落としている。紺色の作業着の背中は、いつもより少し硬い。

「音は、まだ聞こえますか」

「はい。こっちです」

凛は大水槽の裏手へ回った。

関係者以外立入禁止の札が掛かった扉を開けると、空気が変わった。潮の匂いが濃くなり、機械油の匂いが混じる。

配管が壁と天井を走り、古い制御盤のランプが点滅していた。

ぶうん、という通常の機械音。

その奥に、別の音があった。

低い。

耳で聞くというより、胸骨の内側を押されるような振動だった。

ごり……。

ごり……。

何か硬いものが、もっと硬いものを削っている。

「ポンプの異常ではなさそうですね」

凛が言った。

「この奥って、何がありますか」

「地下機械室です。でも、私は奥まで入ったことがありません。前館長しか使っていなかった区画があって」

祖父しか使っていなかった区画。

蒼真は、手の中の鍵を見た。

古びた真鍮の鍵だった。番号もタグもない。ただ、柄の部分に小さく「B2」と彫られている。

「行きましょう」

階段を下りる。

一段ごとに、空気が冷えていった。

地下二階。

そこには、古い鉄扉があった。

扉の表面は赤く錆びている。だが、鍵穴だけは妙にきれいだった。誰かが最近まで使っていた証拠だ。

蒼真は鍵を差し込んだ。

回る。

重い音を立てて、扉が開いた。

「……何ですか、ここ」

凛が息を呑んだ。

地下室は、想像より広かった。

壁一面に金属棚が並び、古いファイルとハードディスクが詰め込まれている。中央には作業机。奥には大型のサーバーラックが三台。天井から吊るされたケーブルは、まるで海藻のように揺れていた。

壁には、手書きのラベルが貼られている。

潮凪沿岸音響記録。

水質長期観測。

アオ行動記録。

クラゲ浮遊粒子反応。

深海低周波ログ。

守屋共同調査資料。

最後の文字を見た瞬間、蒼真の喉が詰まった。

守屋。

自分の研究を奪った男。そして、祖父の記録にも名前が残る男。

「水瀬さん?」

「……大丈夫です」

全然、大丈夫ではなかった。だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。

作業机の上に、一冊のノートが置かれていた。

表紙には、祖父の字でこう書かれている。

蒼真が来たら、最初に読ませること。

蒼真はノートを開いた。

蒼真へ。

もしお前がこの部屋に来たなら、アオの声を聞いたのだろう。

驚くな。

神秘にするな。

商売道具にするな。

聞こえた声は、真実そのものではない。生き物の感覚を、お前の脳が言葉にしているだけだ。

だから間違える。だから記録しろ。

声を記録に。

記録を数字に。

数字を、誰かが動ける理由に変えろ。

蒼真は、ページから目を離せなかった。

祖父は知っていた。

蒼真に声が聞こえることを。いや、正確には、いつか聞こえるかもしれないことを。

「前館長も、聞こえていたんでしょうか」

凛が小さく言った。

「分かりません。でも、たぶん……完全な声ではなかったと思います」

蒼真は、さらにページをめくる。

アオ、三日前に底層で静止。赤潮前兆と一致。

ルカ、白い部屋を嫌がる。原因不明。

ユラ、白い雨と言う。海中粒子増加と関係か。

クロ、底が明るいと表現。深海調査機材の可能性。

守屋、再接触。潮凪データを要求。注意。

「ルカ……白い部屋?」

凛が眉を寄せた。

「心当たりがありますか」

「ルカは、うちに来る前、別の施設にいたんです。詳しい記録は少なくて。ただ、白い壁の部屋を嫌がることがあります。診療室とか、検査室とか」

白い部屋。痛い音。守屋。深海低周波ログ。

まだ繋がらない。

だが、点は増えている。

そのとき、サーバーラックの一つが低く唸った。

モニターが自動で点灯する。古い画面に、波形が表示された。

ごり……。

ごり……。

音が、さっきよりはっきりした。

「これ、今も動いてるんですか」

「分かりません。前館長が亡くなってから、誰も触っていないはずです」

画面の右上には、日付と時刻。

現在時刻だった。

潮凪沖合十七キロ。

深度推定、八百二十メートル。

低周波異常音、継続検出。

蒼真はキーボードに触れた。

データは自動記録されている。水中マイクの一部はまだ生きているらしい。祖父は、水族館の地下から沿岸の海を聞いていたのだ。

「沖合十七キロ……水族館の取水口より、ずっと外ですね」

凛が言う。

「深度八百二十メートルなら、沿岸というより深海斜面です」

蒼真は波形を拡大した。

自然音ではない。

波でも、地震でも、鯨類の声でもない。周期が一定すぎる。金属音が混じっている。

「機械音だ」

「海底工事ですか?」

「こんな場所で、届け出なしに?」

言いながら、蒼真は自分で答えを疑った。

海底ケーブル調査。資源探査。地質調査。深海採掘の予備調査。可能性はいくつもある。

だが、祖父のノートの言葉が頭から離れない。

クロ、底が明るい。

人間は、また底を掘るのか。

「水瀬さん」

凛の声が少し震えていた。

「この音、ルカたちには聞こえているんでしょうか」

「分かりません。でも、影響がないとは言えない」

その瞬間、頭の奥に、低い声が落ちてきた。

――下が、明るい。

蒼真は振り向いた。

部屋には誰もいない。凛だけが、こちらを見ている。

声は、大水槽のアオではなかった。

もっと深い。もっと冷たい。言葉というより、暗い水圧そのものが形になったような声。

――眠る場所が、痛い。

――砂が、鳴る。

――光が、底を刺す。

「誰だ……?」

蒼真は思わず呟いた。

凛が周囲を見回す。

「何か聞こえたんですか」

「アオじゃない。もっと深いところの声です」

作業机の横に置かれた古いモニターに、展示水槽の監視映像が映っていた。

深海展示。

暗い水槽の底で、黒い影が動いた。

深海ザメのクロ。

普段はほとんど動かないと聞いていた。そのクロが、ゆっくりと水槽の端から端へ泳いでいる。

――下が、明るい。

「クロか」

声は、言葉として整っていなかった。

それでも、痛みは分かった。

人間語に翻訳しきれない、深海の感覚。暗いはずの場所に光がある。静かなはずの砂が鳴っている。眠る場所が削られている。

蒼真は急いで記録を取った。

日時、地下室サーバー起動、沖合十七キロ、深度推定八百二十メートル、低周波異常音、クロ反応、聞こえた内容。

下が明るい。

眠る場所が痛い。

砂が鳴る。

光が底を刺す。

「これ、市役所に報告しますか」

凛が言った。

「このままだと無理です」

「どうしてですか。こんなデータがあるのに」

「水中マイクの設置状況、校正記録、観測機器の信頼性、誰が管理していたか。全部確認しないと、ただの古い機械の異常で終わります」

自分で言っていて、嫌になる。

また証拠だ。また手続きだ。また、信じてもらうための作業だ。

けれど、祖父はそれを逃げなかった。

聞こえたものを、証拠に変えろ。

「まず、明日の赤潮対応を優先します。水族館と漁協の被害を抑える。その上で、この地下データを整理する」

「守屋教授の資料は?」

蒼真は棚を見た。

守屋共同調査資料。

背表紙の文字が、暗い部屋でやけに白く見える。

「読みます。でも今夜は全部無理です」

「手伝います」

凛が即答した。

蒼真は彼女を見た。

「信じるんですか。俺が声を聞いているって話」

凛は少し困ったように笑った。

「正直、信じてはいません」

「ですよね」

「でも、アオの記録と赤潮の条件は一致しています。漁協のアジも反応していた。クロも今、明らかに落ち着きがない」

凛は、深海展示の監視映像を見た。

「私は、生き物の変化を見ます。水瀬さんは、それを少し違う形で聞いているのかもしれない。今は、それで十分です」

研究室では、誰もそんなふうに言ってくれなかった。

信じるか、疑うか。正しいか、間違っているか。成果か、補助か。

そのどちらでもなく、今見えている変化を一緒に記録する。

それだけで、ずいぶん救われるものなのだと、蒼真は初めて知った。

地下室を出る前に、蒼真は守屋共同調査資料のファイルを一冊だけ抜き取った。

表紙には、古い日付。

二十一年前。

潮凪沖深海音響調査。

共同研究者 水瀬海一郎。

協力 守屋春臣。

二十一年前。

祖父と守屋は、ここで繋がっていた。

ファイルを開くと、最初の数ページは普通の調査資料だった。海底地形。水中マイク設置位置。生物音響の基礎データ。

だが、中ほどのページで手が止まった。

一枚だけ、破られている。

ページ番号が飛んでいた。

二十六ページの次が、二十九ページ。

その余白に、祖父の字がある。

渡すべきではなかった。

守屋は、海の声を聞こうとしていない。

利用しようとしている。

蒼真の指先が冷たくなった。

「水瀬さん?」

「……祖父は、何かを後悔していたみたいです」

凛は何も言わなかった。その沈黙がありがたかった。

地上に戻ると、館内はさらに静かになっていた。

大水槽の前で、アオが待っていた。

「地下室を見た」

――遅い。

「それはもう聞いた」

――あの男は、何度も下を見た。

「守屋のことか」

――名は知らぬ。白い手の男。笑う目のない男。海の底を、地図のように見ていた。

蒼真はスマートフォンを構えた。

「祖父は、守屋に何を渡した」

アオは、しばらく答えなかった。

水槽の中を、小さな魚の群れが横切る。

――海が鳴く場所。

「鳴く場所?」

――苦しむ前に鳴く場所。逃げる前に震える場所。眠るものが起きる場所。あの男は、それを欲しがった。

蒼真の喉が乾いた。

自分の研究と似ている。

生き物が異常を示す前兆を、音で捉える技術。危機を早く知るための技術。

守るためにも使える。

だが、逆に言えば、都合の悪い異変を誰より早く知ることもできる。そして隠すこともできる。

「守屋は、何に使った」

アオは目を閉じた。

――海一郎は、謝っていた。

「誰に」

――海に。わしらに。お前に。

蒼真は息を呑んだ。

「俺に?」

――お前がいつか、続きを聞くことになると知っていた。

水槽の青が、深く沈む。

祖父は、何を背負っていたのか。守屋は、何を奪ったのか。そして今、沖合十七キロで何が始まっているのか。

答えはまだない。

だが、逃げる選択肢もなかった。

その夜、蒼真は館長室に泊まった。

机の上には、祖父のノート。地下室から持ち出した守屋共同調査資料。今日の水質記録。漁協でのアジの反応。沖合十七キロの異常音ログ。

資料の山は、まるで失われた七年間の研究が、別の形で戻ってきたようだった。

だが今度は、奪わせない。

蒼真はノートの最後に一行を書いた。

潮凪シーライフパークは、観光施設であると同時に、海の異変を聞く観測点である。

書いてから、少し大げさだったかと思った。

だが、消さなかった。

深夜一時過ぎ。

仮眠を取ろうとした頃、スマートフォンが震えた。

黒潮ミナトからだった。

『水瀬か』

「はい」

電話の向こうで、風の音がしていた。

ミナトの声は、昨日より低い。

『湾奥のいけす、二つで魚が浮き始めた』

蒼真は椅子から立ち上がった。

「赤潮ですか」

『まだ暗くて色は分からん。ただ、水が変だ。臭いも違う』

窓の外に、夜の海が見えた。

真っ黒な水面。

何も見えない。だが、そこではもう何かが起きている。

『あんたの言った通りかもしれん』

ミナトは、悔しそうに言った。

『明け方、海が赤くなるぞ』

電話が切れた。

蒼真は大水槽へ走った。

アオは、底でじっとしていた。

――来るぞ。

低い声が響く。

――赤いものが、浮く。

蒼真は息を整えた。

怖い。

正直に言えば、怖かった。

自分の予測が当たることが怖い。魚が死ぬことが怖い。それを証拠として記録しなければならないことが怖い。

けれど、動かなければもっと死ぬ。

蒼真は館内連絡網を開いた。

凛。設備担当。獣医。白石。漁協。

送信する文面は、短くした。

赤潮発生の可能性が高いです。夜明け前から対応に入ります。水族館は取水停止を継続。各水槽の酸素、濾過、予備電源を確認してください。

送信。

画面に既読がつく。

一つ。二つ。三つ。

水族館が、静かに目を覚ましていく。

アオが言った。

――聞こえたなら、先に動け。

「分かってる」

蒼真は水槽の青を見上げた。

研究室では、誰も自分の声を聞かなかった。だが今は、自分が聞く番だ。

海の声を。生き物たちの声を。祖父が残した後悔の続きを。

夜明け前。

潮凪の海は、まだ黒かった。

だが蒼真には、その黒の奥で、赤いものがゆっくり広がっていく音が聞こえていた。

お読みくださってありがとうございます。

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